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Piedmontのブルース

何処の事を話題にしているか

Piedmont(ピードモント、イタリア語でピエモンテ)とはどこか?
Piedmontとは、アメリカの南東部アパラチア山脈南東の麓一帯バージニア州からノースカロライナ州、ジョージア州にまたがる地域を指します。まずは、歴史から。


ノースカロライナの歴史

ノースカロライナはどこにある?

ノース・ダコタと間違えて、「寒いでしょう!」なんて言わないでください。緯度は静岡県辺りと同じです。
ここで地図を広げましょう。この先でも役に立ちます。


カロライナの名の由来と、なぜノース・カロライナとサウス・カロライナがあるのか

17世紀半ばの1663年、イギリスのチャールス2世が、カロライナ植民地(Province of Carolina)と呼ばれていたこの一帯の権利を8人の貴族に与えました。
この一帯はチャールス1世のラテン語読みカロルスからカロライナと名付けられました。
この頃のノースカロライナには現在のテネシー州もふくまれていました。
植民者は、この地域の北の端の入り組んだ海岸近くと、南の良港で西インド諸島に近く貿易上も優位にあったチャールストンから住みつくようになり、これが各々ノースとサウスの始まりとなります。
これらの地域はそれぞれ自治体を持っていましたが全体として一つの自治政府を形成していました。
1710年にカロライナは南北に分割されました。(以下から1729年とする説もある。)
1729年にカロライナの北部を領有していた貴族の内7人は土地をイギリスの皇太子へ売却し、その結果この部分はイギリス王室の直轄領となりました(8人目の貴族はなおも北でも土地を保有していましたが)。
この結果、カロライナは北と南で地主が異なることとなりました。
不思議なことに?1776年のハリファックス(Halifax)での大陸会議では「王室直轄地」であったノース・カロライナが「独立」を提案しました。



地名がさっぱりな場合には地図が必須。でも地図上のどこに求める地名があるのか探すのも大変です。

Greate Smoky Mountains


より大きな地図で Piedmont Blues を表示



Piedmont(ピードモント)ブルース

この一帯のブルースは、ミシシッピやテキサス、さらにシカゴブルースといった有名どころと比べると陰が薄い存在です。実際、デルタブルースと聴き比べると一般的に軽い明るいノリの曲が多く、なんかこの地方の黒人は幸せそうだな.....という感じを受けてしまいます。
一般的に、この地域のブルースはラグタイムの影響がみられると言われています。そして、もう一つ興味深いのは、白人の音楽と相互に影響しあっている点です。これは、(ミシシッピやルイジアナなどでも同じ事なのですが)黒人歌手が白人のパーティなどで演奏する機会があったからだと思われますが、何故か Piedmont の方がその傾向が強く出ています。その理由を、この地域の方が南北戦争後の奴隷解放により、自分の土地を持った黒人自営農民の比率が高かったことに求める見方もあるようです。タバコ産業や鉱山経営で財を成したレイノルダ、ビルトモア・エステートに見られる著しい財を成した鉄道財閥のバンダービルト(バンダービルトの本拠地はニューヨークです)のような人々は別にして、大多数の白人たちの生活は黒人と同様にかなり貧しく厳しいものでした。産業は農業が主体で、それも乾くと煉瓦のように堅くなり、雨が降ると溶けたように柔らかくなってしまう赤土の土壌なので、栽培できる作物は極めて限定されていたでしょう。要するにみんな揃って貧乏な土地柄なのです。*1
デルタブルースが北部への人口の移動に伴ってシカゴブルースを生み出したような現象は、Piedmontのブルースには無かったと言ってよいでしょう。ニューヨークに移り住んだブルース・ミュージシャンは、そこでも Piedmont のブルースをそのまま続けており、新しいスタイルを切り開いたという感じがしません。ここが、なんとなくPiedmontのブルースの影が薄い原因でしょう。ただ、そのままの形であったからこそ北部で(インテリの)白人層に受け入れられ、白人ミュージシャンへ独特の影響を与えたのは確かです。
ここでは、この地域のミュージシャンをサポートしている Music Maker Relief Foundation のCDを中心にこの地域のブルースを紹介します。

Who's Who

正調ブルースからフォークソングまで、極めて主観的に並べてみた。
この地域のアフリカン・アメリカンの音楽にはこれだけの(+これ以上の)多様性があったということを認めねばならない。従って、どこまでが本物だなどという議論は成り立たないわけで20世紀前半にはこれらが皆、場所や状況、好みによって(個々人の中でも)使い分けられ併存していたと言えるだろう。

歴史になった人々

  1. Blind Blake (1893?-1933?)

    フロリダ州ジャクソンヴィル(Jacksonville)出身。1920年代はアトランタ(Atlanta)を拠点にし、バージニアからサウスカロライナやジョージアで活動していた。Blind Willie McTellの妻の話では、McTellがフロリダからBlakeをアトランタに連れてきたという。1926年にシカゴへ行き、パラマウントでレコーディングし、「West Coast Blues」はかなりのヒットになった。どこでどのようにして亡くなったかは不明だが、路面電車に轢かれたとか言われている。
  2. Blind Willie McTell (1898?-1959)

    ジョージア州出身。ボブ・ディランに「Blind Willie McTell」というタイトルの曲がある。
    I know no one can sing the blues like Blind Willie McTell
    この歌は、I traveled through East Texasと言っているので、地域的にはちょっと合わない。Blind Willie McTell の曲で一番有名なのはAllman Brothers Band の『The Allman Brothers at Fillmore East』に入っている「Statesboro Blues」だろう。彼はステイツボロ(Statesboro) で育ち、ちゃんと(盲)学校へ行き、その後メディシンショー(medicine show)などに入ってアトランタを中心にアメリカ南東部をまわった。ステラの12弦ギターをフィンガーピッキングで弾いて、ラグタイム風の曲を演っていたが、その音から「Statesboro Blues」のような曲だけでを演っていた訳ではなかったことがわかる。
  3. Blind Boy Fuller (1907-1941)

    Fulton Allenというのが本名で、ノースカロライナ州シャーロット(Charlotte)南東にあるウェイズボロ郡(Wadesboro county)で生まれた。1926年に14才のCora Mae Martinと結婚。その後、次第に目が見えなくなってきて、兄弟を頼ってウィンストン・セーラム(Winston-Salem)へ行き、さらにダーラム(Durham)へ行った。そのころにはほとんど盲目になっていた。ダーラムでReverend Gary Davisに会い、曲とギターを習った。街頭で歌っているところをJ.B. Longという人にスカウトされて1935年7月にBull City Red、 Reverend Gary Davisと共に、ニューヨークへレコーディングへ行った。ABCレコード(ABC Records)と契約し、レコードはそこそこの成功を収めたようでその後1936,37年とニューヨークでレコーディングしている。その間、Deccaにもレコーディングして契約上一悶着起こしたりしている。こうして、Blind Boy Fullerはその当時最も成功したPiedmontブルースマンだった。
    しかし、1938年には梅毒に罹っており肝臓と膀胱も患っていると診断された。結局、1941年2月13日に亡くなった。
  4. Josh White (1914-1969)

    サウスカロライナ州グリーンヴィル(Greenville)で聖職者の家庭に生まれた。父親は家に来た白人の借金取りを追い出した為に逮捕され虐待されたために精神病院へ入れられてしまった。そのため、8才の時にBlind Man Arnoldという盲目歌手の"Lead Boy (盲目の人の目の代わりになってあげる人)"となって各地を廻ることになった。その後も何人かの盲目歌手の"Lead Boy"として働く過程で、ギターを学び、スピリチュアル、ブルース、ワークソングなどレパートリーを広めていった。そしてパラマウントが、Joel Taggertという歌手とRace Recordsの為にレコーディングしたときに一緒にいたJosh Whiteも参加し、これが初めてのレコーディングとなった。その後も各種の音楽をレコーディングした。
    彼の弟をFort Dixに訪ねたとき、黒人兵士は地べたに寝かされているのに、白人は木造の宿舎に寝ているのを知り、「Uncle Sam Says」という曲をレコーディングした。当時の大統領Franklin D. Roosevelt(FDR)がその曲を聴き、ホワイトハウスへJoshを招き、JoshはFDRの前で歌った。Rooseveltは、Uncle Samとは誰の事かと尋ねた時、Joshは「貴方です」と答えた。FDRは「大統領だからって何でも出来るわけではないんだよ」と答えたという。その後もFDRとの親交は続き、「Presidential Minstrel」と言われるようになった。FDRの妻のEleanor RoosevetはJoshの子供の名付け親になった。俳優でゴスペル歌手などでもあるポール・ローブソン(Paul Robeson)と親交があったため、赤狩りの時期に下院・非米活動調査委員会に呼び出されたりした。このとき、名指しはしなかったもののローブソンが親ソ的である事を裏付けるような発言をしたため、周囲から不評を買った。
    ある意味で、アメリカンドリームの体現者のような人生を送ったわけだが、音楽的には、ジャンルが広すぎて今ひとつイメージが固まらない感じもする。
  5. Sonny Terry (1911-1986)

    ソーンダンス・テレルはノースカロライナのグリーンズボロ(Greenboro)で生まれた。その後一家はシェルビー(Shelby)へ移ったが、二度の事故でほとんど盲目となってしまい、父から教わったハーモニカで生きてゆくことにならざるを得なかった。父の事故死以後、Bill Leachというギタリストと演奏して廻るようになり、その後メディシン・ショーに付いて廻るようになった。そのなかでシャーロットの南東にあるウェイズボロ(Wadesboro)を訪ねるが、ここにはBlind Boy Fullerの親戚が住んでいて二人は知り合うことになる。Fullerは彼が住んでいたダーラムへ来るように言い、そこで彼をJ.B. Longへ紹介し、TerryはFullerとレコーディングすることができた。ダーラムでは、FullerやBull City Redとタバコ工場の前などで唄って収入を得ていた。また、ダーラムではReverend Gary Davisとも出会っている。
    1937年には、Fullerとニューヨークでレコーディングしている。John Hammond が有名なカーネギーホールでの「From Spirtuals to Swing 」コンサートへFullerを出演させたいとダーラムへ来たが、その時Fullerは刑務所に入っていたので、隣に住んでいたTerryがBull City Redと出演することになった。また、ポール・ローブソンの誘いでワシントンD.C.でも公演した。
    J.B. Longの要請で、Brownie McGheeのコンサートについて行ったのち、二人はニューヨークでデュオとしてフォーク・クラブなどへ出演する様になる。一方、1946年には、ブロードウェイ・ミュージカル「Finian's Rainbow」へ出演、更にMcGheeと共に、「 Cat on a Hot Tin Roof 」(つまりテネシー・ウィリアムズの『やけたトタン屋根の上の猫』)にも出演する。こうして、白人のリバイバル運動や60年代のブルース・ブームに乗って活動を続けていたが、黒人の聴衆からは離れていってしまった。70年台に入ってデュオは形式的なものになってしまい、しだいに停止していった。
    Sonny Terryのハーモニカは "whoopin'" サウンドといわれ、高く鋭い音が特徴だった。
  6. Brownie McGhee (1915-1996)

    1915年にテネシー州ノックスビル(Knoxville)で音楽家族に生まれた。子供の頃、小児麻痺に罹り右足が左足よりも短く歩行に困難を来すようになってしまい、兄弟のGranvilleに手押し車を押してもらって移動していた。ハイスクールの時には、キングストン(kingston)ゴスペル・カルテットの一員として歌い、ルノア―(Lenoir)のバプチスト教会でも歌い演奏していた。
    手術により歩き回ることが出来るようになってからは、ギタリストとしてテネシー、ノースカロライナ、バージニアあたりを廻るようになる。また、キングスポート(Kingsport)ではギターにGranville、Leslie Riddleがマンドリン、自身はピアノという構成で白人のカントリーミュージックも演奏していたという。
    1938年に、ハーモニカのJordan Webbとウェストバージニアからノースカロライナのウィンストン・セーラムを経てバーリントンへと旅する。そこでBull City Redと知り合い、J.B. Longに紹介される。Blind Boy Fullerの余命が幾ばくもないことを知っていたLongはその穴埋めにMcGheeを使えると見てレコーディングさせた。実際、何枚かのレコードは「Blind Boy Fuller #2 」として発売された。Sonny TerryがワシントンD.C.で公演する際、LongはMcGheeにTerryを助けるように言い、このアイデアは成功を収めた。その後二人はニューヨークへ移り、Leadbellyなどと親交をむすぶ。また、McGheeはハーレムで「Brownie McGhee's School of Blues」を開いた。Sonny Terryと同様、ブロードウェイでラングストン・ヒューズの「Simply Heaven」、テネシー・ウィリアムズの「Cat on a Hot Tin Roof」に出演した。60年台を通じて世界各地を公演して廻っていたが、70年代からデュオは解散状態になり、実質引退状態になっていた。
  7. Barbecue Bob (1902-1931)

    ジョージア州のウォールナット・グローブで生まれ、本名Robert Hicks。子供の時に、Curly Weaverの母親Savannah "Dip" Weaverから、兄のCharlieと共にギターを習った。1920年代に入って兄を追ってアトランタへ行き、しばらくしてTidwell's Barbecueという店で働くようになった。そこでBarbecue Bob というニックネームをもらった。CBSのDan Hornsbyに見いだされ、Barbecue Bluesでデビュー、そこそこ売れたのでニューヨークで2枚目のMississippi Heavy Water Bluesを録音、ヒットとなった。その後もレコードは売れ、兄のCharlie、Curly Weaver、Eddie Mapp、 Buddy Moss とGeorgia Cotton Pickersを結成したりした。大恐慌でレコーディングの機会が減ってしまい、そのまま1931年10月に肺炎で亡くなった。
    エリック・クラプトンが『From the Cradle』に「Motherless Child Blues」を録音している。
  8. Reverend Gary Davis (1896-1972)

    Reverendとは、聖職者を表していて、牧師さんといった感じか?
    1896年4月30日にサウスカロライナ州ローレンス(Laurense)で生まれた。十代にはストリングバンドでギター、ハーモニカ、バンジョーを演奏していた。その後グリーンヴィルへ移り新しいバンドで活動を続ける。1914年にスパルタンバーグ(Spartanbur)の聾唖者向け学校に職を見つけ、そこで点字を覚え音楽を教えた。食べ物が合わないと言って半年でグリーンヴィルへ戻り年上の女性と結婚するが5年後に離婚する。カロライナ各地を廻り、1926年にはダーラムに流れ着く。
    ここでDavisはBlind Boy Fullerに教え、二人で街頭で歌うようになる。1933年にノースカロライナ州ワシントン(Washington)のFree Baptist Connection Churchからminister(牧師)として認められた。その頃からブルース風味のゴスペルを歌うようになった。1935年、Blind Boy Fuller、Bull City Redとニューヨークへレコーディングへ行く。ただBlind Boy Fullerと違い、J.B. Longと折り合いが悪かったようでその後は戦後までレコーディングを行っていない。
    その後いつの頃かニューヨークに住むようになり、辻説教師としてハーレムなどで見られるようになった。50年代の終わりから以降、リバイバル運動などで代表的なブルースマンとしてニューポート音楽祭などに出演した。1972年、ニュージャージのコンサートへ行く途中、心臓発作で亡くなった。
  9. Preston Fulp (1915-1993)

    1993年10月に亡くなっているのでこちらの分類に入れたが、ちょっと違和感がある。ノースカロライナ州ウィンストン・セーラム近辺の音を継承していたようだが、ブルースというよりもAlga Mae Hintonなどのフォークソング的な音に近い。
    イギリスのDocument Recordsが出している『Field Recordings Vol 9 』 DOCD-5599にWHEELER BAILEY & PRESTON FULPによる「Never Let The Deal Go Down」という曲が入っている。
    Guitar Gabrielの紹介でこのCD(『Sawmill Worker』 MMCD20)を吹き込んだとのこと。
  10. John Jackson (1924-2002)

    バージニア州ラッパハノック(Rappahannock)郡のWoodvilleで1924年2月25日に自営農家族の14人兄弟中の7番目として生まれた。音楽家族でギターやバンジョーを学び、また500枚からのSPを聞いて育った。ギターについては子供の頃、シャーロッツビルからの道路建設現場で働いていたHappyと呼ばれる男のギターに魅了されたという。
    地元の催しで演奏していたが、1946年にダンスパーティで演奏していたとき、喧嘩騒ぎに巻き込まれそれ以降1964年まで演奏することはなく、運転手などをやって生活していた。
    1964年の秋、Chuck Perdueという地質学者であり、フォークシンガーでもある民族音楽研究家にワシントンD.C.の西に位置するフェアファックス(Fairfax)市のAmocoのガソリンスタンドで「発見」され、ワシントンのコーヒーハウスで開かれたコンサートで歌ったのをアーフーリー・レコード (Arhoolie Records)のChris Strachwitzが認め、1966年に「Blues And Country Dance Tunes From Virginia」でレコードデビューした。2002年1月20日、肝臓ガンで亡くなった。1999年にAlligatorから出した「Front Porch Blues」が最後のレコードとなった。
    最初のアルバムタイトルからわかるように、いわゆるブルース・ミュージシャンのイメージのジャンルだけでなくスクウェア・ダンスなどのダンス曲や、夜、家族で演奏していたような曲もレパートリーに大きな位置を占めている。ブルース・シンガー達が必ずしもレコードに残っているような(レコード会社が売れると見込んだタイプの)曲だけでなく、もっと幅広いレパートリーを持っていたことは明らかだが、その全体を自然な形でレコードに残してくれている。
  11. Pinkney 'Pink' Anderson (1900-1974)

    ピンク・フロイドのピンクは彼からとったという。1900年2月12日にサウスカロライナ州ローレンス(Laurens)郡で生まれた。小さいころ、グリーンビルへ、次にスパルタンバーグへ引っ越した。その頃から隣人にギターを教わり、街頭で歌っていた。1917年にDr.Kerr's Medicine Showに参加した。そこでジョージアから来た盲目のSimeon "Blind Simmie" Dooley (1881-1961)からギターを学んだ。Simeonの相棒が去ったためPinkはメディシンショウがない時は、彼とペアで街頭で歌ったりパーティで演奏していた。それに加え20年代中ごろから30年代中ごろにかけては父がいたストリングバンドでも演奏していた。PinkとSimmieは次第に評判になり1928年4月にアトランタでコロンビアに4曲レコーディングした。そこそこ売れたのでコロンビアは翌年Pinkにアトランタへ来るように言ったが、SimmieをはずしたためPinkは断り、スパルタンバーグを根拠地にDr. Kerr's Medicine Showで各地をまわってすごした。
    Kerrの引退後はBig Chief Thundercould's Showに参加した。1950年、シャーロッツビルでのThe Virginia State Fairでの演奏をPaul Claytonがレコーディングしている。1954年、Charles 'Baby' Tateと組んだが、一方ではスパルタンバーグでハーモニカプレーヤのKeg Shorty BellとウォッシュボードプレーヤのCharley `Chilly Willy' Williamsとのトリオで活動していた。
    1961年にSimmieが亡くなった後、まれにしか'Baby' Tateとは演奏しなかったが、それを1962年にSam Chartersが見つけレコーディングした。その時、3枚のアルバムを作ったが1枚目はブルース、2枚目はバラード、3枚目はメディシンショーの曲だった。その後も1964年に心臓発作で活動を停止するまでに更に何枚かのレコーディングを行ったが、1974年10月12日に亡くなった。メディシンショーにいただけに彼のレパートリーはブルース、ラグタイム、フォークソングなど人を集めるのに必要な多用な音楽を含んでいる。
    当然、Little Pink Andersonのお父さん。
  12. Floyd Council (1911-1976)

    ピンク・フロイドのフロイドの方は彼からとったという。1911年9月2日、ノースカロライナ州チャペルヒル(Chapel Hill)で生まれた。20代の時に兄弟二人と街頭で歌いはじめた。1937年タレントスカウトのJohn Baxter Long に認められ、ニューヨークでのBlind Boy Fullerのレコーディングにギタリストとして参加した。40年代、50年代と地元で活動していたが、60年代は病気のため次第に退いて行き、1976年にノースカロライナ州サンフォード(Sanford)で亡くなった。
  13. Dock Boggs (1898-1971)

    白人だがお仲間に入れておきたい。
    1898年2月7日にバージニア州ワイズ(Wise)郡ウェスト・ノートン(West Norton)で生まれた。このバージニアの西南の端はアパラチア山脈の山の中だが、18世紀の終わりから数十年間、炭坑と石炭輸送の鉄道とで急速に人口が増加した。黒人、白人も、新たに移民して来た人々が入り交じり、黒人ブルースの影響が白人にも伝わりやすい環境だった。
    Dock Boggsの父は農業を辞めてこの新興炭坑地域で鍛冶屋や大工をやって生計をたてていた。Boggs兄弟はバンジョーを弾き、家族は皆歌が上手かったらしい。バンジョーはミンストレルショーを通じて白人に広まったようだが、Boggsは「knockdown」、「clawhammer」と呼ばれた白人の弾き方ではなく黒人のフィンガーピッキングに惹かれてマスターした。
    1910年、つまり12才から炭坑で働き始め、1918年に結婚した。炭坑地域の荒れた世界で相当危ないことにも遭遇して生きていたようで、写真を見ても目つきが硬い喧嘩したら強そうな風貌、体格をしている。人種とは無関係に劣悪な労働条件のもとで暮らしていた環境は音楽面でも共通の心情を醸成していたのかもしれない。第一次世界大戦後の不況の頃から労働運動が活発化し、これを抑圧しようとする経営者側との間で1921年のBattle of Blair Mountainに示されるようなかなり凄惨な軋轢があった。
    1926年暮れか'27年初頭にNorton Hotelで行われた75人組が参加したオーディションに合格し、1927年にニューヨークでブラウンズウィック(レーベル)に8曲レコーディングした。音楽で生計を立てられる可能性に気付き、1929年にはシカゴでLonesome Aceレーベルへ4曲レコーディングしたが、この会社は倒産し大恐慌と共にこの道は閉ざされてしまった。その後45年間炭坑夫として働いて、1963年にMike Seegerに隠居生活しているのを「再発見」され、60年代に3枚のLPをSmithsonian Folkwaysから出している。
    「Down South Blues」、「Country Blues」などのブルースは「ホワイトブルース」と分類されることもあるようだ。しかし、彼のレコーディングした曲からはブルースだけでなく、ゴスペル、イギリスやアイルランドのフォークソングなども聞き取れる。彼が暮らしていた地域の多様な音楽を表しているのだろう。
    南部の「プア・ホワイト」とか「レッド・ネック」と呼ばれる白人下層階級(南部では中産階級は決して多数派ではなかった)は、白人ではあるが生活水準は黒人多数に近いという立場にあり、一方で強い人種差別意識を持ちつつ、一方では、相互に影響しあうという不思議な関係にあったように思われる。彼らの心理は探求すると興味深いものだろうが、なかなか解明しにくいものではないかと思われる。
    1971年2月7日(誕生日と同じ月日)に亡くなった。
  14. Elizabeth Cotten (1895-1987)

    1895年1月5日、ノースカロライナ州チャペルヒル(Chapel Hill)で生まれた。8才の時から兄のギターで練習を始め、後に貯金して自分のギターを買った。15才で結婚し、娘が生まれた。'40年代の始め頃、離婚し娘とワシントンD.C.に住むようになった。'47年前後にデパートで働いていた時に、迷子?になったPeggy Seegerを家へ送り届け、それからSeeger家で働くようになった。このPeggy Seegerの兄弟がDock Boggsを「再発見」したMike Seegerで、Pete Seegerとは同じ父・母違いの兄弟という関係になる、ここで、Cottenはおよそ25年間さわらなかったギターをPeggyから借りて、徐々に演奏を思い出していった。1958年に自宅でMike Seegerの手によってレコーディングされた曲が『Freight Train and Other North Carolina Folk Songs and Tunes』として発売された。「Freight train」はPeter Paul and Mary の『In the wind 』(1963)に収録され有名になった。この曲は12才頃に書いたものだという。
    その後、コンサートやレコーディングを80年代まで続けた。1984年には『Elizabeth Cotten Live!』でグラミー賞の「最優秀エスニックまたはトラディショナル・フォーク・レコーディング賞(Best Ethnic or Traditional Folk Recording)」を受けている。
    CDジャケットの本人の写真の穏やかさは、ブルースという言葉からはかなり離れたものではあるが、歌の印象そのものだ。
    フーテナニー(Hootenanny)という言葉が流行った頃、Seeger家だけでなくその後名を成すフォークシンガー達がたむろしていた時代を彷彿とさせるものがある。同じ時期にデイヴィス師など直系ブルース?の人々もニューヨークで活動しており、やはりその後に名を成した白人ミュージシャン達に強い影響を与えていた訳で、60年代はじめの雰囲気は想像するだけでも刺激的だ。
    1987年6月29日、ニューヨーク州シラキューズ(Syracuse)で亡くなった。
  15. Guitar Gabriel (1925?-1996)

    ジョージア州ディケーター(Decatur:アトランタの東の郊外)の生まれ。子供の頃にBlind Boy Fullerを見たことがあるという。
    この人もPreston Fulpと同様にウィンストン・セーラムに出没していたようだが、土着というわけではなく、メディシンショーなどで色々なところを動き回っていたらしい。何度かはメジャーになるチャンスがあったようだが、結果的には埋もれた人生となってしまったようだ。アコースティック・ギターにスチール弦を使って個性的なフィンガーピッキングを聞かせる。ブルース一本やりに聞こえるが、微妙に各種音楽の要素が感じ取れる。(『Deep in the South』 91001-2)
  16. Etta Baker (1913-2006 )

    もうおばあさんなので想像し難いが、美人なので夫が公演旅行を認めなかったという。ノースカロライナ州バーク(Burke)郡モーガントン(Morganton)に住んでいる。
    他の女性ギタリスト、シンガーに共通するギターのピッキングスタイルが特徴的。極めて主観的だが、Alga Mae HintonとElizabeth Cottenの中間に位置するような音。ブルースというよりも白人も演奏していたようなフォークソング的な演奏をしている。主観的には癒し系の音で、聞いていてほのぼの気分でリラックスしてくる。(『Railroad Bill』 91006-2, 『Etta Baker with Taj Mahal』 MMCD 50)
  17. Macavine Hayes (1943-2009)

    フロリダ州タンパの生まれ。ラジオでチャック・ベリーやジミー・リードを聞いていたという。
    60年代にGuitar Gabrielと会い、彼に従ってウィンストン・セーラムへ移り、彼と旅して回り、また一緒にDrink Houseを開いていた。
    レコーディングは恐らくMMRFから出ている『Drink House』だけだろうが、チャック・ベリーの「Johnnty B. Good」から始まるノリのよいブギウギ調がメインで聴きやすいCDだ。
  18. George Higgs (1930-2013)

    ノースカロライナ州エッジコム(Edgecombe)郡スピード(Speed)の近くで生まれた。ここはノースカロライナの北東で、かなり大西洋に近い。父からハープを教わったが、音楽としてはスピリチュアルやフォークソングで、家族で聞いていたのはGrand Ole Opryに出るDeford Baileyというカントリー風の演奏をする黒人のハープ奏者だったという。その後、メディシンショーでハーピストのPeg Leg Samを見たという。十代にはギターにも興味が出て、リス狩り犬を売ってギターを買ったという。
    ギターとハープで弾き語りをするという絵に描いたようなフォークブルース?を聞かせる。パーティーで演奏するといった30年代頃までの雰囲気を色濃く残している。デルタブルースが好きな人なら受けそうな音だと思うが、全体に典型的すぎるが為に単調に感じるかも。(Tarboro Blues MMCD19)
    『Tarboro Blues』は2001年度Living Blues Critics Awardsの中のBest Blues Albums of 2001 (New Recordings -Traditional & Acoustic)に選ばれた。(パチパチ)
  19. Cootie Stark (1926-2005)

    サウスカロライナのグリーンヴィル(Greenville)は、ある意味ではPiedmontブルースの中心地であったと言える。Willie Walker (1896-1933)は、ここで Gary Davisとストリングバンドで競演?し、そのGary Davisのストリングバンドはここを根拠地にしていた。上述のJosh Whiteは、ここの生まれ。メディシンショーで廻ってきたPink AndersonとBaby Tateから学び16才から40代までストリート・ミュージシャンとして南北カロライナをまわっていたという。
    Cootie Starkの音自体は伝統をくんだ純正のPiedmontブルースだが、CDのアレンジはTaj MahalやLee Konitzが参加していてなかなか洗練された音作りとなっている。(『Suger Man』 MMCD8, 『Raw Sugar』 MMCD30)
    April 14th, 2005 死去
  20. Captain Luke (1926-2015)

    同じくサウスカロライナのグリーンヴィル(Greenville)の生まれ。14歳でウィンストン・セーラムへ引越し、学校をドロップアウトした後は、Guitar Gabriel等とDrink Houseなどを廻る流しのような生活をしていた。テノールの渋い声が魅力。
    2015年5月12日、87歳で死去。

 

Chimney Rock Park

2008年現在では一応現役または生存

  1. Cora Mae Bryant (1926- )

    「No No Blues」という曲が有名?というよりも、Blind Willie McTellと一緒に演奏していたCurley Weaverの娘。ジョージア州オックスフォード(Oxford)の自宅をブルース博物館にしているという。
    スライド・ギターのかっこよさはDuan Allmanにも勝ると思う。(『Born with the blues』 MMCD22)
  2. John Dee Holeman (1929- )

    ノースカロライナのダーラムは、Reverend Gary Davisも住んでいた時期があるが、この地域のブルースの一つの中心であったようだ。
    ノースカロライナ州オレンジ(Orange)郡(ヒルズボロやチャペルヒルがある郡)の生まれ。14才からギターを弾きブルースを歌い始めた。1954年にダーラムへ移り都会的な音も加味されるようになった。National Heritage Award やNorth Carolina Folk Heritage Awardを受けるなどそれなりに認められ、東南アジアやアフリカでも演奏したキャリアを持つ。また、Buckdancingの名手でもあるという。Buckdancingは靴を鳴らしたりして踊るダンス。
    Sweet Home Chicagoをレコーディングしているように、アコースティック・ギター中心のUnplugged Chicago Bluesという感じで割に都会的な音を出している。なかなかいい感じだが、時には「ここでハープが入れば!」とか、「ドラムスとベースのリズムセクションが付いていれば!」と思わせるところもある。(『Bull Durham Blues』 91004-2)
  3. Cephas and Wiggins

    ワシントンD.C.が本拠地のギターとハープのデュオ。
    ギターを弾くJohn Cephasは1930年にワシントン D.C.で生まれた。
    ハープのPhil Wiggins は1954年にワシントン D.C.で生まれた。
    Wigginsのハーモニカは結構ブルースだが、全体的な曲の印象はもっと軽いし洗練されている。パークタワーブルースフェスティバル出演で2001年12月に来日している。
    John Cephasは2009年3月4日に亡くなった。
  4. Algia Mae Hinton (1929- )

    音楽一家に生まれ、9才でギターを弾いていた。十代半ばには地元のハウスパーティなどで演奏していた。彼女にとってはブルースはダンス音楽と切っても切れない関係にある。当時はBuckdanceを踊りながら頭の後ろでギターを弾くこともやって見せたという。
    結婚後、夫は若くしてなくなり、農場の季節労働者などをやって7人の子供を育てた。
    80年代半ばに、火事で家が全焼するという不幸にもあっている。1978年のNorth Carolina Folklife Festivalを皮切りに幾つものコンサートに出演し、1992年にNorth Carolina Folk Heritage Awardを受けた。
    ノースカロライナ州ジョンストン(Johnston)郡ゼビュロン(Zebulon)に住んでいる。
    Elizabeth CottenやEtta Bakerも黒人女性だが曲の雰囲気はかなり異なる。一言で片づければAlga Mae Hintonは、ブルースの色が濃い。(『Honey Babe』 91005-2)
  5. Little Pink Anderson (1954- )

    名前のとおり Pink Anderson の息子。子供の頃は父が演奏しSnake oil(蛇の生薬?効き目は怪しい)を売っていたメディシンショーについてまわったという。CDには父親が録音している曲も入っている。父親と聞き比べると声が若い。演奏もアップテンポで、アグレッシブな感じ。親の年輪の厚さを感じさせる、渋い声とレイドバック(死語?)したテンポと比べるとまだこれからというところだが、これは好みの問題かも。

 

Old Salem



参考となる資料

日本語訳のある本
  1. ブルースの歴史 ポール・オリヴァー 晶文社 ISBN4-7949-5176-0
    トラヴェリン・メン - 旅芸人たち
  2. ザ・ブルース・ブック  Vol. Ⅱ ローレンス・コーン編 ㈱ブルース・インターアクションズ ISBN4-938339-34-X
    6. Truckin' My Blues Away - East Coast Piedmont Styles Bruce Bastin
    7 A Lighter Shade of Blues - White Country Blues Charles Wolfe.
Webサイト
  1. Blues OnlineのPiedmont Bluesのインデックス
  2. Piedmont Blues Preservation Society