椿大神社
三重県鈴鹿市山本町1871
獅子堂
椿大神社には吉備真備が奉納したとされている獅子舞の獅子頭がある。それに因んで命名された自動車お祓い用の建物だが、入口受付のような役割をも果たしている感じ。
参道
断りの鳥居
江戸時代に
高山土公神陵
高山は神社の背後(西側)の入道ヶ岳のこと。
猿田彦神像
高山土公神陵の背後にある小山はサルタヒコの墳墓とされている前方後円墳。
サルタヒコは伊勢の地方神であっただろうと言われている。従って伊勢國一宮の主祭神であるのは妥当で、その地にアマテラスという皇祖神を祀る伊勢神宮を造ると言われ受け入れたというのが『古事記』の天孫降臨の部分になると解釈できる。しかし正史の『日本書紀』では垂仁天皇廿五年に、アマテラスがヤマトヒメに「欲居是國」と言ったので五十鈴川の川上に磯宮という斎宮を建てたとしていて、地方神のサルタヒコは登場しない。天孫降臨の時の「一書曰」でニニギが高千穂に降りた後、サルタヒコは伊勢の狹長田に行き、アメノウズメも一緒に行ったとしているにすぎない。
拝殿
主祭神は猿田彦大神。
相殿として、瓊々杵尊と
配祀として天之鈿女命と木花咲耶姫命。
前座に行満大明神。
椿大神社は天正十二年(1584年)に織田(信雄)勢によって攻撃され、社殿を焼失したという。これは、織田信雄・徳川家康と羽柴秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの一部なのだろう。それも6月の蟹江城合戦絡みと想像される。この時、織田信雄は桑名から長島へ出陣していた。秀吉は美濃から近江経由で現在の三重県津市芸濃町の方へ移動している。蟹江城を包囲していた織田信雄、徳川家康軍を西の背後から脅かす状況になっていたと言えるだろう。しかし、ここで椿大神社や別当寺などの六寺が秀吉側に組したのかなどの経緯はわからない。
かなえ滝
本殿裏手の金龍明神の滝は一般公開していないので、これで我慢しなさいという事か。
鈴松庵
松下幸之助氏寄進の茶室
主祭神は天之鈿女命(アメノウズメ)。猿田彦大神の妻とされている。『古事記』では天宇受賣命。例の天照大御神(アマテラス)が天石屋に隠れた時、神懸状態とはいえ「掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也」という姿になって八百萬神を笑わせ、不思議に思ったアマテラスが少し岩戸から出たところを男の神が手を引っ張っり出したという場面の立役者。その後、邇邇藝命(ニニギ)が「此豐葦原水穗國者 汝將知國 言依賜 故隨命以可天降」と言われて下ろうとした天孫降臨の時に、天之八衢(やちまた)に上は高天原、下は葦原中国を光らす神がいたので、アメノウズメは、アマテラスと高木神之命(タカミムスヒ)に誰なのか見て来いと言われて「誰如此而居」と尋ねに行かされる。それが「僕者國神 名猨田毘古神也」と名のった猿田毘古神(サルタヒコ)。タカミムスヒは性別不明・性別なしの神だが、その娘がニニギの母なのでニニギにとってタカミムスヒは母方の祖父か祖母にあたる。この時、アマテラスとタカミムスヒはアメノウズメに「與伊牟迦布神面勝神」(「自伊至布以音」という注釈が付いているので「伊牟迦布」は「いむかふ」と読む。)と言っている。向き合った神に顏で勝つ神だというのは、「目力」が強いという事か。
アメノウズメは天岩戸の話から芸能の神様にされた。
愛宕社への参道入口の左に入道ヶ岳への登山道口がある。
愛宕社への参道
なぜ、"椿"大神なのか疑問だったが、ここに一つの解が示されている。"ちわき"―
18世紀に伊勢神宮外宮の権禰宜だった度会延経が書いた『神名帳考証』には、「按ずるに椿は都波岐の訓み、道別と音通す。」とあるが、その後同じく伊勢神宮外宮の権禰宜となった橋村正身は『神名帳考証再考』で「椿の訓を道別の通音とするが如きは仮名の法をわきまえざる杜撰」と批判している。(山本行隆著『椿大神社二千年史』たま出版、1997年の「資料 七 椿村神社御由緒調査書(抄)」280~281頁による。)同じ資料に19世紀に伊勢神宮外宮の神官も務めた
行満堂
猿田彦大神の末裔とされる行満は修験道の開祖となり、ここでは中世以降、修験道が盛んだった。現在の宮司は行満の子孫だという。
お堂の祭神(本尊?)は行滿大明神だが、左右には左端の薬師如来像から右端の不動明王像まで仏像(他に大日如来、阿弥陀如来、十一面観音、それに聖徳太子)が並んでいる。この神社がある山本町にはかつて別当寺の瑞光院の他、阿弥陀寺、浄円房、東(来)光寺、光(高)雲寺、国(円)照寺という六つの寺があったが、それらの本尊だったという。これらの寺も天正十二年の織田勢の攻撃で焼亡したという。
きいちの塗り絵を思い出させるパッチリした眼の子供たちを描いた七五三のポスター。