Up
Down
Return

五條天神社


西洞院松原にある。
瀬田勝哉著の「洛中洛外の群像」(平凡社 ISBN-13: 978-4582766608)の中に「五条天神と祇園社-「義経記」 成立の頃」という論文があり、「五条天神流罪事被宣下」という後崇光院(伏見宮貞成(さだふさ)親王)の日記「看聞御記」の一節の解釈について 論じていたのでこの神社に興味を持った。「五条天神流罪事被宣下」は単純に読むと五条天神が(疫病退散に無力だったので)追放されたと解釈してしまうが、「穢や罪を一身に背負い込み、天皇から罰を受ける特異な神として、かえって社会的に承認されていた」という解釈を示している。簡単に言えば、「悪いことは一切しょってください。あとはお任せするから何とかしてくれ。」と頼まれたという事だろう。


境内は駐車場として活用され、社務所は南側マンションの一階というところに神社経営の苦肉の策が窺える。


「天神」というと菅原道真を連想してしまうのは昔の人も同様だったらしく合祀されているので、牛も遠慮がちに社殿の脇にいる。


東京上野にも五條天神社があり日本武尊創建とかやたら古い由緒だが、それでは何故「五條」なのかよくわからないので、これは別途要調査としておきます。


下京区山王町の日吉神社

日吉山王祭は、3月~4月中旬まで続く坂本の日吉大社のお祭りだが、4月13日午後3時に「未の御供献納祭」というのが、東本宮四社のお神輿を並べた大政所(宵宮場)で行われる。
これは、ここ京都下京区山王町の日吉神社から唐櫃に入れた神饌を奉納するもの。
実際には日吉大社の社務所から運んで来るらしいが、前後一人ずつが肩に担ぎ棒をしょってやってくる。
何故、数ある日吉神社の中で、京都から運ぶ形になったのかは調べがたりないが、この神社は平安時代に比叡山の僧兵が強訴で担いできた神輿を置いて帰ってしまったのが始まりという。
麩屋町通押小路下ルにある白山神社は、なんと白山から強訴に来た僧兵が置いていった(捨てていった?)ものを祀ったというし、平安~室町時代の僧兵にとってはお神輿はそんな程度のものだったという事か。(この「白山神社」も坂本の日吉大社の客宮-白山宮の事かもしれない。)
ただし、本当に神輿を担いでいたのは僧兵でなく、駕輿丁だったというのが真実らしい。

下京区山王町の日吉神社

下京区山王町の日吉神社


下京区山王町の日吉神社

下京区山王町の日吉神社


将門塚

四条通りから新町と西洞院の間の道を下がったところ、右(西)側。平将門の首塚だそうだが、その首は胴体を求めて関東へ飛んで帰ったそうだ。でも東京の大手町に首塚があるからにはやはり胴体と一緒にはなれなかったのかな?


この通りは「膏薬図子」と言うそうで、クランク状にまがりくねっている。町家の家並みが美しい通りだが四条通り側から破壊の手が伸びつつある気配も。


ここは祇園祭で郭巨山(かっきょやま)を出す町で、四条通西側角に会所がある。


小路の南側はずっと塀が続いているので何かと思ったら、
杉本家住宅だった。
(写真右側)


宵山の日に内部を公開していたので入ってみたら、予想外?にきれいに祀られていた。(2010/7)


繁盛神社


高辻通室町西入ル
由来は左の説明のとおりだが、商売繁盛に繋げるあたりの説明が強引と言うか…。


繁盛神社の前を西に行った角で北に上がると、斑女塚がある。能の「斑女」とは全くつながらない別の斑女。


斑女塚後ろには繁盛宮の祠と石仏

右奥には住吉姫松の石碑
住吉の岸の姫松は紀州街道沿いにあったと言うが…



右に曲がると北向きに祀られた天道大日如来。
天道大日如来への信仰は民間信仰として興味深いものがある。
関東などでの天道念仏は農業に絡んでいるように思われるが、京都の町中の天道大日如来は、異なった起源を持っているのかもしれない。
京都の地蔵盆は地蔵菩薩と共に天道大日如来の祭にもなっている。中国伝来?の「三十日秘仏」では大日如来の縁日は28日なので、24日が縁日の地蔵菩薩とまとめられてしまったのかもしれない。