乙訓のあたり
天王山とモノラック
山崎聖天さんから酒解神社あたりまで続く筍運搬用のモノレール。
宝寺からの登山道と合流する辺りで宝寺方面へ分かれる支線もある。
株式会社ニッカリのモノラック。
旗立松展望台
山崎合戦の時、ここにあった松に秀吉の馬印(この時点で既に千生り瓢箪だったか?)を掲げ士気を鼓舞したという。馬印とは大将がいる場所を示すシンボルのようなもの。確かに見渡しがいいが、ここで把握した情報をどのように麓の自軍に伝えたかも知りたいところ。
天王山山頂。標高270.4m。
自玉手祭来酒解神社 (酒解神社)
乙訓で最も古い神社で養老元年(717年)建立の棟札がある。
橘氏の氏神とされるが、橘氏から嵯峨天皇の皇后が出たので官幣名神大社になったらしい。名神大社は霊験が著しいとされる神を祀る神社で京都では平野神社、松尾神社など怱々たるメンバー。
正式な名称は自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ)。
現在の神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」だった。天王山は元々は山崎山と呼んでいたが、これにちなんで天王山と呼ばれるようになった。
元の自玉手祭来酒解神社は、旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され官幣名神大社に列していたが、大山崎教育委員会の説明板では、中世に「離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやがて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった。」となっている。
明治時代に山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)に定められてしまった。大山祇神はイザナギとイザナミの子供で、山の神様だが、また酒造の神(酒解神)とも言われる。
つまり、元々は別の神社だった牛頭天王を祭る神社が、離宮八幡宮に追い出された登ってきた神社に同居され、明治時代に名前も取られてしまったということなのか?今ひとつ理解しがたい。
山崎聖天さんからの登山道にある鳥居
旗立松展望台にある鳥居
三社宮
天照大神社(天照大神)、月讀社(月讀大神)、蛭子社(蛭子神)
神輿庫は鎌倉時代の建築で現存する最古の板倉造り。板倉は分厚い角材を組み上げた形のもの。
正倉院の「校倉造り」は三角形などの角材を積み上げたログハウス風だが「板倉造り」は溝をつけた柱に平らな板を落として壁を作るので日本の普通の倉庫といった外観。