木之本地蔵院
木之本は琵琶湖の湖北、現在は滋賀県長浜市木之本町となっている。北国街道の 木之本宿 。開山は、奈良薬師寺の僧、祚蓮(それん)上人が、難波の浦に流れ着いた地蔵尊を背負い、地蔵菩薩の有縁の地を求め北国街道を下ってこられた時のこと。休息をとった柳の大木の元から動かなくなった為、そこを有縁の地として伽藍を建立し、祀ったのが始まりと伝えられています。木之本の地名もここに由来するということです
。
(http://www.kinomoto-jizo.com/injizoin.pdf)
木之本地蔵院は浄信寺という時宗の寺だそうだが、宗派的なものはいっさい表に出ていない。
地蔵堂
地蔵堂の絵馬。
地蔵堂天井の龍。
地蔵堂の戒壇巡り。
何回も曲がる複雑な通路になっているが、両手で両側の壁に触れたまま辿って行けるので真っ暗でもさほど不安感はない。
裏地蔵。
地蔵堂本尊の裏側で、厨子の中に秘仏の地蔵尊の複製がある。
地蔵大銅像
本尊の地蔵菩薩が秘仏なので1894年(明治27年)に建立された。太平洋戦争の際、軍需省より厳しき供出命令を受けるが、「地蔵菩薩は信仰の対象である。」として、当院三十世住職其阿(ごあ)上人学樹足下(がくじゅそっか)はそれを拒否。真言宗阿闍梨班目日仏(まだらめにつぶつ)上人及び東上勝子夫人の援助もあって無事なる事を得ました。
(http://www.kinomoto-jizo.com/injizoin.pdf)東上勝子→東条勝子(東條英機の妻)
阿弥陀堂
地蔵尊の本地仏である阿弥陀如来
というのは、仏教の如来と菩薩の関係で本地垂迹説という妙な解釈だが、六道の衆生を救う地蔵菩薩と一切衆生救済の阿弥陀如来は方向性は同じだし、また、鎌倉仏教以前は上層階級主体だった阿弥陀如来を庶民に近い地蔵菩薩の本地として関係付けたという事なのかもしれない。
例えば、矢田型地蔵は阿弥陀如来と同じ上品下生の来迎印だそうで、両者は平安時代から結びついていた気配がある。
地蔵大銅像は錫杖を持った普通のお地蔵さんの姿をしている。裏地蔵をもっと注意深く見るべきだった。
荼枳尼天
阿弥陀堂の右奥に駐車場に押し込められて荼吉尼天が祀ってある。
書院
2012年の大津市歴史博物館の調査で、浄信寺が所蔵する木造阿弥陀如来立像から「法橋行」の銘が見つかり行快の作であることが分かった。快慶の下で働いていた時期で、快慶の安阿弥様の感じが濃い。
「身代り蛙」はこの庭園に棲んでいるとか。身代り蛙は『すべての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護をいただけますように』また『すべての人々が健康な生活を営むことができますように』と自ら身代わりの願をかけ片方の目をつむり暮らしている
という見上げた蛙で地蔵大銅像の前にいっぱい奉納されている。
地蔵堂左側に祀られた火伏せの秋葉神社。
木之本地蔵尊御縁起抄