長命寺
長命寺港。
長命寺は西国三十三箇所の第三十一番札所、竹生島の宝厳寺は第三十番札所なので竹生島からの航路があったらしいが、現在定期航路はない。
[島村について]
戦後の食糧増産の干拓で東側の大中(だいなか)や南の八幡山との間の津田内湖などが干拓されるまでは長命寺がその西南にある姨綺耶(いきや)山系は琵琶湖に浮かぶ島で蒲生郡島村だった。島村は、1951年(昭和26年)に八幡町(現近江八幡市)に編入された。
近江八幡市Webサイトの農村振興課の業務内容として2007年現在だが、琵琶湖の水位よりも地盤が低く、施設管理に苦慮しており、改善が必要な干拓地もあり、生産環境を維持保全していくために、干拓地内の整備が求められています。また、「どろもどり(かつて利用していた内湖からの緑肥)」など、内湖が有していた様々な機能を見直そうとする機運が高まっており、地域環境を展望する中で、現在、産官学の連携による近江八幡市独自の調査・研究も行っています。
という記述があり、少しは昔の景観に戻る可能性もある。
麓には日吉神社と穀屋寺が寺に登る石段の手前に左右に並んでいる。
「穀屋」という名が示しているのは米の保管庫という事だろう。寺領から運ばれてきた米を保管していたようだ。
2009年08月06日の京都新聞によると、滋賀県近江八幡市は6日、熊野観心十界曼荼羅(まんだら)2点と長命寺参詣曼荼羅3点が同市長命寺町にある長命寺の塔頭、穀屋寺で見つかったと発表した。十界曼荼羅のうち1点は戦国時代末期の作とみられ、全国最古級という。
曼荼羅はいずれも、僧や尼僧が寺への寄付を求めて各地で見せ歩いた。十界曼荼羅は縦約141センチ、横約110~113センチ。上部に人の一生、中下部に仏界や地獄道など人の心にある「十界」を表現している。中央上部の仏を3体描いている点が特徴。人物の服装や髪形から戦国時代末期と江戸時代後期の作とみられ、戦国時代末期のものは全国で確認された十界曼荼羅約 60点で最古級という。
参詣曼荼羅は縦約154~約161センチ、横約159~約180センチ。長命寺の境内を上から眺めた視点で描いている。3点はそれぞれ戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作と推定した。
穀屋寺は、長命寺再建のため全国に寄付を募った僧や尼僧が拠点にした。同市立資料館と栗東歴史民俗博物館が4月から調査し、木箱に入った曼荼羅5点と古文書約千点を確認した。市地域文化課は「持ち歩くために折りたたんだ本来の状態で伝来しているのはほとんど例がなく、価値がある」としている。
奈良大文学部の下坂守教授は「参詣曼荼羅と熊野観心曼荼羅が同時に見つかり、曼荼羅の歴史的意義や使用方法を考える上で貴重だ」と話している。
(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009080600180&genre=M2&area=S00)
日吉神社は比叡山と同じく長命寺の鎮守社といった位置づけだろう。
さて、登りますか。
かつては塔頭や僧房、宿坊があった気配。石段は形が不揃いで歩きにくい。
ここも塔頭の跡だろうが、目に付くのはこの不思議な洞窟。
車なら楽に上がれるのはよくあるパターン。駐車場からの道と合流。
姨綺耶山長命寺の創建については、
その伝承では景行天皇の時に、武内宿禰がここの柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫って長寿を祈願した。後に聖徳太子がここを訪れ、それを発見した。その時、老人が現れ、その柳の木で仏像を彫り安置するよう勧めたので、十一面観音を彫って安置したという。それで開闢は武内宿禰、開基は聖徳太子となっている。
永正十二年(1514年)に兵火で焼かれた。本堂は大永四年(1524年)に再建、17世紀初め頃には現在の堂宇がほぼ再建されたようだ。
天台宗の単立寺院で、秘仏の本尊は千手十一面聖観世音菩薩三尊一体。実際は一体ではなく、千手観音、十一面観音、聖観音の三体。
三重塔。
閼伽井堂。
護摩堂。
三重塔の下から見た護摩堂と本堂。檜皮葺きの屋根の線が美しい。
本堂。一般参拝者はここからお参りください。
本堂の右側にある。
武内宿禰に因んだ寺だからこういうものがあっても不思議ではないが「足跡」とは、どこから出てきたのだろう?
本堂を右側から裏にまわる。姨綺耶山系には古くから巨石信仰があったようだ。
三仏堂。
護法権現社の本殿。
これも巨石信仰の影響。
鐘楼は中には入れる。
太郎坊権現社。日吉神社だけでなく、これも鎮守社?
曇っていて見通しが悪いのが残念ですが。
太郎坊権現拝殿前からの琵琶湖の眺め。