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西院 春日神社


淳和天皇(在位 823-833)が退位し淳和院(別名西院)に移ったとき、奈良の春日神社から守護社として勧請したもの。



淳和天皇の娘、崇子内親王が疱瘡(天然痘)を患い、この石に祈願したら石が身代わりとなり病は治ったという話で疱瘡ではない病気の人も石に病名を書いて納めている。仁孝天皇(第120代)御胞衣(おえな)塚の胞衣は胎盤のことで安産、母子健康祈願した石らしい。


淳和院の礎石。

西院村道路元標。色々なものがあるお寺だ。



無料配布されている「お百度参りのしおり」よるとお百度参りは右の四角錘状の石と左の球状の石の周りを時計回りに百回ぐるぐるまわるそうです。

若宮社から本宮を覗く。



還来(もどろき)神社。旅から無事に戻れますようにと祈願する。現在でも「天皇皇后両陛下の御海外訪問に際し御守が献上される」というのにビックリ。宮内庁ってこういう事にはやたらと長けているのだろう。


注連縄を張ってあるが特になんの表示もない。
アニミズムとしての神道の原点のような感じで好きだ。


日照山高山寺

バスで西京極四条の交差点を通る時、北東角に見えるお地蔵さんが気になっていたお寺。


浄土宗鎮西派の寺院。
淳和天皇が淳和院(別名西院)に移ったとき、奈良の春日神社を勧請したのが上の春日神社だが、離宮淳和院そのものはここにあったという。淳和院没後、しばらく後に寺院になったようだが、足利尊氏が近江地蔵尊像を移し高西寺としたという。1787年に出された『拾遺都名所図会』によると「本尊は子安地蔵尊で、恵心僧都源信が横川に安置していたが入寂後に滋賀里の木村成近に譲られた。しかし戦乱で落ち延びる途中、堅田に捨てられた。そうしたら夜毎に光明赫奕かくやくとして白日の如くだったので村人が小堂を建て田中の地蔵尊と称した。その頃(文永年中-1264年~1275年)堅田の住人、名村重俊夫婦が子を授けてほしいと起誓したら男子に恵まれ、以降子安の尊像と言われた。暦応(1338年~1342年)の頃、足利尊氏が帰依し現在地に移すことを命じ洛陽六体地蔵巡りの一つとなった。足利義政も信仰し安産だった。」という。近世のこの時期にはこのような伝承になっていたという事は言える。