新宿区角筈~大宮八幡
角筈という地名は住所表示上は消滅している。
かつては歌舞伎町あたりも角筈で、東口の駅前あたりが1丁目、2丁目は現在は西新宿の一部になっている。
多分、京王プラザが出来た1970年代初め頃に西新宿へ変わったらしいが、これらの写真のようにまだあちこちに角筈の名前は残っている。公共設備の名前にも付いているあたり、地元の人向けには角筈、新宿副都心のイメージを売り込みたい人には西新宿と使い分けている気配がある。
角筈2丁目のバス停
角筈と書かれた歩道橋
角筈橋
十二社
南角筈村の十二社権現社は現在は熊野神社になっている。ここも西新宿2丁目。
応永年間(1394年~1428年)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷の熊野三山から十二所権現を勧請したという。(異説有り)
近世には池や 滝のある景勝・遊興地として賑わった。近代に入ると十二社通りの西側が花街として栄えた。
神楽殿
本殿の東側に大鳥三社と角筈胡桃下稲荷社がある。大鳥五社という考えは大阪の大鳥大社にあるが大鳥三社の祭神については社務所が閉まっていて尋ねられなかった。胡桃下稲荷は胡桃の林があったという茨城県の笠間稲荷のことなので、そこから勧請したのだろう。
一見して、これは面白いと思ったが、腹の下がくりぬきになっていない
は説明を読むまで気づかなかった。向かって左の狛犬は頭長に角?がある。厳めしそうな顔にしようとしているのに…ちょっと…というおやじ顔が妙にかわいい。
これは左の説明の絵馬ではありません。
延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑
神輿蔵の宮神輿
西の十二社通りに下る。神社との高低差はかなりあって、かつて池があってもおかしくない地形。
「十二社」の名は、西側の道路名とバス停名に残っている。
神社西の十二社通りを渡った更に西側に残る旧住所。現在は西新宿4丁目。料亭、置き屋が百軒を超えたとかいう時代は狭い坂道や空き家も目立つ古い木造家屋から想像するしかない。
西新宿五丁目の庚申堂(淀橋庚申塚)
青面金剛の下の三猿が右から、「見ざる」-「言わざる」-「聞かざる」と並んでいる(ふつうは右から「見ざる」-「聞かざる」-「言わざる」)。左右の猿は横向き。
暗渠化された神田川笹塚支流という川跡らしい。地上は遊歩道になっている。
柳橋
荘厳寺(幡ヶ谷不動尊)
右上写真の「道しるべ}門内左手にある常夜燈は、現在の環状六号線と甲州街道の交差点村近にありましたが、道路工事のためここに移されました。
この常夜燈は、嘉永三年 (一八五〇 )にたてられたもので、台石中段には幡ヶ谷の荘厳寺、十二社の熊野神社、大宮八幡宮、井之頭弁財天までの距離が刻まれていて、道しるべの一種であったことがわかります。
また、台座には多数の人名が刻んであり、それによると、当地の人はもとより江戸市中の各地、遠くは神奈川県在住の人びとによって常夜灯が造立されたこともわかります。
また、墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の
暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履
という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなり多かったと思われます。
川嶋地蔵堂・正蔵院・相州大山不動明王
大宮八幡
山神社
●「天満宮前の説明板」 大宮天満宮は菅原道真公をお祀りし受験合格・学業成就の神として信仰が篇く、一月二十五日は初天神、特に七月二十五日の納涼天神祭には凡そ二百基の書画行燈が点灯され、「時間をはずした日の祭事」としての和太鼓の奉納演奏もあり、近年多くの参拝者賑わい、夏の風物詩となっています。
東照君神徳川家康公を祀る東照宮は德川幕府や武門の崇敬篤く列格の末社とされてきました。
天祖神社は”お伊勢さま”をお祀りし、室町時代以降の当宮と伊勢の神宮との強いつなかりを示す神社です。また三崎神社と山神社はこの大宮台地の地主神をお祀りする神社で境内社の中では最も古いやしろです。
●『神社明細帳』には郷社 八幡神社
【祭神】 品陀別命。相殿 息長足比賣命 帶仲彦命。
境内に末社七座あり、其の社號及ぴ祭神左の如し。
三島神社 祭神 事代主尊。
天満宮 同 管原道眞公。
東照宮 同 德川家康公。
大神宮 同 天照大御神。
若宮社 同 譽田別命。
稻荷社 同 倉稻魂命。
山神社 同 大山祇命。
●『大宮八幡宮史』(岡田米夫 大宮八幡宮史編纂刊行委員会 1977)の159頁に「九百年事業以前の神域図と参道の配置図}が載っている。九百年とは1963年。これよりも前には、山神社は拝殿の南(向かって左側)、東照宮が現在の天満宮の位置、北野社(天満宮)は東照宮の手前右(弊殿の北)、稲荷社(三崎神社)は弊殿の北にある。
●『大宮八幡宮 別表神社』(大宮八幡宮/編 大宮八幡宮社務所 1968)の42頁には、「北宮」として、三崎神社、天満宮、東照宮、山神社が合祀されているような書き方になっている。天祖神社は消えている。
大宮遺跡
泉谷山大円寺
大円寺は曹洞宗寺院。杉並区のウェブサイトに、慶長8年(1603)江戸赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立され、開山は諦巌和尚(武田信玄の弟)といわれています。その後、寛永18年(1641)正月、江戸の大火によって諸堂を類焼し、跡地は御用地として召し上げられ、その代地として伊皿子に寺地を拝領して移転しました。
とある。伊皿子(いさらご)は、都営地下鉄泉岳寺駅の西にある。
ずんぐりした姿は、京都市下京区の平等寺(因幡堂)の但唱作の石造に近似している。但唱と弟子達は、品川区西大井5丁目の養玉院如来寺の五智如来坐像を造像した。養玉院如来寺は、元々は下谷(台東区)の養玉院と高輪の如来寺という別々の寺だった。但唱は、五智如来坐像五体を高輪の如来寺に安置し開山となる。伊皿子にあった大円寺は、高輪の如来寺と至近距離にあり、これら二体が但唱か弟子の作である可能性は充分にあるのではないだろうか。