西大寺
780年に起こった藤原仲麻呂の乱の平定を祈願して孝謙太上天皇は金銅四天王像の造立を発願し、翌年に四天王像を安置する西大寺が建立された。藤原仲麻呂の乱は、
聖武天皇の皇后であった光明皇太后と、皇太后と親類関係にある藤原仲麻呂、
聖武天皇と光明皇后の娘で聖武天皇を継いで即位し孝謙天皇となり、天武天皇の孫(舎人親王の息子)の淳仁天皇に譲位した孝謙太上天皇と、太上天皇に重用された道鏡
という対立構図のなか、光明皇太后の死去でバックボーンを失い、立場が弱くなった藤原仲麻呂が武力行使に出て起こった。
結局、仲間と思っていた者達が孝謙太上天皇側に密告したりして計画が漏れてしまい、藤原仲麻呂は滋賀県高島市安曇川町三尾里にあったらしい城の攻防で敗れ、琵琶湖上に逃れたのを捕えられ殺された。
当時の西大寺は、薬師金堂を中心に東西の五重塔、薬師金堂の背後に弥勒金堂が建っていたなど、壮大な伽藍だったらしい。
四王堂
能の「百萬」に「流るる月の影惜しき 西の大寺の柳陰 みどり子の行方しらつゆの おき別れて いづちとも知らず失せにけり」という詞章がある。伊藤正義『謡曲集 下』(新潮社 1988)に従って調べると、『古今和歌集』春歌上に僧正遍照(良岑宗貞)の歌として「浅みどり 糸よりかけて 白露を 珠にもぬける 春の柳か」の詞書に「西大寺のほとりの柳をよめる」とある。でも、この歌の西大寺は平安京の西寺の事だと言う見方が有力なのかもしれない。この奈良の西大寺は、平安時代には火災などで衰退し、鎌倉時代に叡尊により復興され、真言律宗の総本山となった。叡尊は慈善事業に熱心で、また男女の別なき救済として、法華寺など尼寺の再興、更には女性が五障を克服できる光明真言会を行なうなどした。こうした叡尊の活動の中心として西大寺があり、そこに百萬のような女性が集まるのは自然な事だろう。
本堂(重要文化財)
江戸時代の建築だが、古様を踏襲したという感じの屋根の線が気持ちのよい建物。
愛染堂
京都御所近衛公政所御殿を移築したものと書いてある。
本尊の愛染明王坐像の姿は、2007年JR東海「うましうるわし奈良」のポスターに載っている。
奥之院体性院にある叡尊の墓。
一丈一尺(約3.3m)、基壇からだと5m余りの高さがある石造五輪塔。
大きいがバランスが取れた秀逸な塔だ。
周囲には弟子たちの五輪塔が幾つか立っている。