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守山宿、勝部神社、東門院

勝部神社

大化五年(649年)に物部氏の物部宿彌広国が祖先の物部經津主之神を祀るために物部郷に創建したという伝承の神社。
祭神は物部布津命、火明命、宇麻志間知命

勝部神社

勝部神社


本殿の建物は、明応六年(1497年)に佐々木高頼が寄進したもの。国の重文

勝部神社

勝部神社


毎年1月の「勝部神社の火祭り」が有名。時期・形態から、左義長の一種か。

勝部神社

勝部神社


勝部神社

勝部神社


勝部神社

勝部神社


守善寺

法輪山守善寺。暦応元年(1338年)に重阿によって開かれた時宗の寺院。
寺の前を流れる金森川では蛍を見ることができるとか。

守善寺

守善寺


室町時代初めの宝篋印塔。

守善寺

守善寺


東門院

比叡山守山寺東門院は、寺伝では最澄が延暦四年(785年)に比叡山寺を建てた時、四境に構えた門の内、東門として建てられたという。ほかの北・西・南門はどこ?と突っ込みたくなる伝承。『近江輿地志略』によると、延暦十四年(795年)、東夷を平らげて帰る坂上田村麻呂が千手観音像を安置したとされる。また、弘仁元年(810年)に、琵琶湖の水上に一条の光があり、湖岸の人々が光りを放っているところに網を投げると十一面観世音菩薩像が現れ、ここに安置されたという話もある。更に、桓武天皇がここへ行幸し比叡山を守るので守山としたという地名の由来も載っている。

仁王門

毎月17日に東門院門前アート市が開かれている。
阿吽の仁王像は「門出仁王」と呼ばれる。『近江輿地志略』に坂上田村麻呂が東夷征伐に行くときに、この二王に冥助を祈り、速やかに賊を討てたという由緒が載っている。それが上記の、帰路に伽藍を造成し千手観音像を安置した話につながっている。

東門院

東門院


東門院

東門院


本堂

本尊は昭和六一年(1986年)の火災に遭ったが修復された木造十一面観音立像。千手観音像はいつしか失われたらしい。

東門院

東門院


不動堂

滋賀県では随一の大きさと言う不動明王坐像を安置する。

東門院

東門院


東門院

大師堂
伝教大師最澄を祀っているのか。
東門院は比叡山の東門という位置づけだが、実際の緯度は延暦寺の東塔からやや南に偏っている。


鎌倉時代の五輪塔、五重塔、宝篋印塔

東門院

東門院


東門院

東門院


東門院

これらが、一番関心を持たせた。
一見して、この宝篋印塔は守善寺のものよりも古い。


東門院

東門院


鐘楼だが鐘は下がっていない。


東門院

東門院


薬師堂


東門院

薬師堂は東門院の飛地境内になっている。


源内塚

東門院

東門院


引き戸が閉まっていて薬師如来を見ることはできないが、絵馬から想像すると石造仏かもしれない。それとも、この絵馬は源内塚だろうか?

東門院

東門院

 


守山宿

守山(森山)と言えば、能の「望月」よりも、まず狂言の「蚊相撲」を思い浮かべてしまう。生態系の中で、蛍が増えると蚊が減るという関連があるのかは知らないが、守山市が蛍の方を有名にしたいのは尤なことです。5月に3時間ほど歩いたら、蚊に二ヶ所刺された。かつては湖岸が近く、野洲川が下流で多くの派川(分流)に分かれて扇状地になっていた。本流は南から北へ移っていったようで、その移動の跡は豊沃で水田に適していたが、小河川が多く湿地が多かったのだろう。

守山宿は江戸から数えて中山道67番目の宿場。

守山宿

守山宿


守山宿

守山宿


守山宿

上の説明に書いてあるが、
右 中山道 幷 美濃路
左 錦織寺 四十五町 こ乃者満ミち
江州 大津 西念寺 京大坂江戸大津 講中建立
四面目は?
「こ乃者満ミち」が分かりにくいが、「木浜このはま道」。現在の木浜漁港は埋め立て地だが、その手前に木浜津があったのだろう。


守山宿

守山宿