鳳凰山甚目寺(2)
本堂
平成四年(1992年)に建て替えられて鉄筋コンクリート造りになった。
六角堂
十王堂
鐘楼
不動堂
『尾張名所図会』に、本堂の裏・北側にこのような感じの「鳳凰山」という土盛りされた植え込みのようなものが描かれている。
釈迦堂
釈迦如来像の他にも薬師如来、弘法大師、地蔵菩薩など多彩な像が並んでいる。木造薬師如来坐像は明治二十四年(1891年)の濃尾地震で倒壊した薬師堂の本尊だった。「御尊像」は
釈迦院
甚目寺尼寺(比丘尼所)だった。歴世は京都西京極にある比丘尼御所(尼門跡寺院)で尼僧修養道場だった密乗山長福寺に学んだという。大正二年に福寿坊と合併し釈迦院と改称した。(『甚目寺町の寺院』による)
釈迦堂を管理していた。
四国八十八ヶ所
動画で巡ってみよう。
東門
扉のない四脚門。
東門から東への通りは、名古屋方面からの参道として栄えた。
説教源氏節記念碑
説教源氏節は、新内語りであった岡本美根太夫が、江戸浄瑠璃の一つの新内節に大坂で操り人形を加えて、近世後期に創始し、明治時代には主に中京圏を興行して廻った。『平家物語』を琵琶の伴奏で節をつけて語った平曲に対して源氏節と名付けられたと言われる。門人だった岡本美里太夫が西今宿の住人で甚目寺町で広まったという。名古屋で操り人形を用いた源氏節を始めたという岡本美住大夫という人も明治初期に名古屋で活動していた。昭和五十年(1975年)に九代目家元岡本美寿松太夫の死去で途絶えた形だったが、「もくもく座」が復活・存続させようと頑張っている。
『一遍聖絵』より「甚目寺の奇瑞」
弘安六年癸未尾張國甚目寺につき給 この寺は推古天皇御宇當國泉郎龍麿蒼海のそこより観音の紫金の像を感得したてまつりて伽藍を建立す 天智天皇御宇霊徳によりて勅願に准ぜられしよりこのかた十二因縁のゆふべの霧にやどりて 涼懊おほくかさなり 三十三身の秋の月をかヾやかして利盆あまねくひろまれり よりてこの地にして七日の行法をはじめ給けるに 供養ちからつきて時僧うれへの色見えければ聖しめし給はく「断食によりて法命つくることなしかならず宿願をはたすべし」と その夜萱津の宿に侍る徳人二人同時に夢想をかうぶるこの本尊のかたはらにまします毘沙門天王かの宿におはしまして 我大事の客人をえたり かならず供養すべきよしをしめし給 そのあした二人あひともなひて夢想の様を申て供養をのべたてまつる時 御帳を風のふきあげ侍りけるに拝たてまつれぱ この毘沙門天王御坐をさりてあゆみいでゝたち給へり 人みな不思議の思に住して すなはち彼寺の傳記にのせをはりぬ この毘沙門はもとよりかゝる不思議の霊徳をほどこし給事おほしとぞ申つたへたる(『一遍聖絵』第六)
「e国宝」一遍上人絵伝(遊行上人伝絵巻)甲巻
(画面を最大化し、絵巻の下にあるスライダーを左にスライドさせると甚目寺で毘沙門天の霊験で大衆に飲食を施す場面の絵が表示されます。)