高月町の野神さん(1頁)
航空写真で見ると、高月町は四神相応、背山臨水で左右が砂で守られた土地になっている。
鴨川=高時川、桂川=余呉川、東山=己高山~小谷山、西山=西野丘陵、船岡山=湧出山、といったところか。
琵琶湖は西側にあるが……。山科盆地が‥無い!
高月町には31の村落があるが、野神さんの位置は主に『村落景観情報-滋賀県伊香郡高月町村落景観情報』(高月町町史編纂委員会 1998)に依って特定した。但し、以下の集落には野神さんは無い。
- 片山は湖岸にあり片山港がある漁村といった性格で、野神はない。
- 宇根の野神は日本電気硝子の工場内にあったが、現在は存在しない。
- 東柳野では神社で野上祭は行われているが樹木等の野神はない。
索引
井口の野神さん跡
集落西の田の中に浮かんだような天満宮跡に野神跡もある。
右のこんもりとした森が天満宮跡。中央手前に
集落西端近くの石仏たち。
井口には井口氏の居館が富永小学校あたりにあった。井口氏は延暦寺の千僧供領だった近江国伊香郡富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理する「井頼り」でもあった。富永荘が延暦寺に与えられたのは崇徳天皇の保延四年(1138年)の事(『伊香郡志』では保延寺という村落名の由来としている。)。後に豪族・国人となった井口氏は北近江守護職京極氏の被官となった。浅井氏が実権を握ると井口経元は娘の阿古(小野殿・井口殿)を浅井久政の正室とし縁戚関係を結んだ。久政と阿古との間の子に長政がいる。
井口弾正邸跡
理覚院:井口氏菩提寺
圓満寺跡
「井口青年會」が建てた道標。
日吉神社。山門領だったからか、そもそも「天台薬師の池」の周辺だからか、高月町には日吉神社や日枝神社が多い。
稲荷社
移された天満宮
このお堂が現在の圓満寺。
井ノ神社
この境内社の縁起は不明だが、井口氏は高時川の「井預かり」だったので、祀られたのは中世のあたりのかなり古い時代である可能性が高い。
持寺・尾山の野神さん
井明神橋西詰め北側の山麓にある。高時川頭首工から分かれ高時川右岸へ用水を供給する中央幹線水路がすぐ東側を通っている。尾山はこの西南の集落、持寺は尾山の更に西南の集落だが、二本並んだ杉をそれぞれの野神さんとしている。
尾山の杉は男で、持寺の杉は女だという。手前が男か?
8月16日の野神祭では、持寺がここに先に到着し、次に尾山が来て、
井明神。文永八年(1271年)の大旱魃の時に建立され、正保四年(1647年)に石材で再建されたという。井堰水利の守護神*1。
『雍州府志』の尾山村の項の「井明神社」には「尾山村に在り、大井といふ井水の上に在り。相傳井口弾正娘、井水引兼ぬる故、人柱に入りしを祭れる神なりといふ。」とある。高時川右岸を所領とし伊香郡用水を掌握する「井頼り」だった井口弾正経元(正忠)の娘を妻とした浅井久政は、小谷城の西・西南麓の水利のために井口弾正に、現高時川頭首工付近に堰を設け高時川左岸下流への用水路を造ることを申し入れた。井口弾正は「(片目の馬千疋に?)錦千駄、綾千駄、餅千駄」という実質的に拒否となる引き換え条件を出した。それを総て中野(長浜市中野町)の豪農が届けたので、この人物を
瓢箪塚古墳
左の写真の説明では、6世紀中葉築造の全長30m以上の前方後円墳。
持寺の白山神社
野神祭の時の持寺の人々の集合場所
すぐ西隣には薬師堂がある。
元々同じ境内にあった寺と神社の参道を分けたのは、当然神仏判然令に拠るのだろう。
昭和49年に発見された尾山・持寺・保延寺にまたがる弥生集落から平安時代までの複合遺跡。