Up
Down
Return

高月町の野神さん(5頁)

熊野の野神さん

熊野

昔は集落南側の田の中にあったが、圃場整備で壊されて、ここに移された。


熊野

熊野


索引へ戻る


西阿閉にしあつじの野神さん

圃場整備の後、一旦は県道252号線と59号線の交差点南東角に野神さんの石碑が立てられたが、歩道拡張と、交差点の見通し確保のために、252号線沿いの現在地へ移されたという。

西阿閉

西阿閉


野神さんは五坂土揚水池跡にある。五坂土(五位、坂俣、土橋)池は昭和五年に受益地となる150反の田持の人々の人足出役で造られた。

西阿閉

西阿閉


昔、野神があったという御旅所跡。

 


西阿閉

西阿閉


索引へ戻る


東高田の野神さん

延喜式内社の櫻椅神社への道の角に立っている。

東高田

東高田


東高田

東高田


索引へ戻る


布施の野神さん

集落の農地の北端、涌出山から西につながる丘陵の麓にある。

布施

布施


索引へ戻る


唐川の一本杉

集落の北の湧出山ゆるぎやま古墳群や、その中腹にある赤後寺が知られているが、「一本杉」は集落の南東の端にある。

唐川

唐川


右下の案内板にはいつの日までも『野の神』としてとあるが、この木が野神さんだった/なのかは明確ではない。南の横山神社あたりに唐川の野神さんがあったという話もあるが、それは横山の野神さんの事を言っているのかもしれないし…。

唐川

唐川


唐川

唐川


唐川

唐川


唐川

唐川


唐川

唐川


索引へ戻る


高月の地理と略史

高月町及び木之本町南部の高時川・余呉川流域は二月に行われるオコナイや「観音の里」として知られている。北は賤ケ岳、田上山、東は己高山系、西は西野山尾根と三方を山で囲まれ、南は旧湖北町に開ける。東山麓に高時川、西野山稜の東山麓に余呉川が流れる。八万年前のこの地域は古琵琶湖の湖底であり、伊香小江(いかごのおえ)と呼ばれる湿地帯の時期を経て沖積平野が形成され陸地化したと考えられている。伊香小江は『近江国風土記』逸文に見られる地名などで、これが書かれた時代に近い頃まで湿地帯であり、その記憶が残っていたと思われる。これは高月町のとりわけ西側一帯が深田で、近世の西野水道掘削に示されるように、余呉川の氾濫に悩まされ続けていたことの遠因であろう。
高時川の高月町よりやや上流にあたる木之本町古橋には七世紀前半の製鉄遺跡がある。また、余呉川流域の東柳野の姫塚古墳は四世紀前半築造の前方後方墳である。高時川右岸の大海道遺跡は弥生集落から平安時代までの複合遺跡である。十一世紀に飛鳥の川原寺(弘福寺)領の郡庄(こおり)荘、十三世紀には山門領富永荘が成立している。富永荘は山門管領の青蓮院領で、天福二年(一二三四)同門跡領惣目録に富永荘の所当一〇〇石を十禅師礼拝講にあてるとある。その荘官井口氏は伊香郡用水の「井預かり」/「井頼り」でもあった。後に国人となった井口氏は北近江守護職京極氏の被官となり、浅井氏が実権を握ると井口経元は娘の阿古を浅井久政の正室に入れ縁戚関係を結んだ。十六世紀に浅井久政により高時川の高月町の各井より上流より取水し、高月町よりも下流の小谷城下に給水する「餅の井(ゆ)」が造られた。文献上に水論が現れるのはこの時期になってからである。一方、余呉川流域からは、『信長公記』から中世に磯野氏や阿閉氏などが台頭した事がわかるが、彼らは惣村の有力者が転じたものと思われる。高月町一帯は織田信長が浅井氏を攻めた時に焼き払われる。『信長公記』には、「元亀三年(一五七二)七月、江北の敵地、焼き払ふ」という記述が見られる。この時、己高山の里坊も焼かれたが再興されず、その仏像を村民が祀ったのが「湖北の観音」の主たる起源ではないかと思われる。