佐保
不退寺(金龍山不退転法輪寺)
寺の手前ではJR奈良線の踏切警報機や国道24号線の車の音が煩わしいが、山門をくぐると穏やかな落ち着いた空間となる。梅雨時の6月は木々が鬱蒼とし、湿気が多い感じがする。
平城(へいぜい)天皇の離宮だったとか、嵯峨天皇へ譲位し奈良へ移った平城上皇がここに萱の御所を造営したなどと言われ、崩御後は子の阿保親王とその子の在原業平が引き縦ぎ、阿保親王の没後、承和十四年(847)に業平が寺としたと伝わる。そのため業平寺とも呼ばれている。平安時代は興福寺の影響下にあったようだが、平重衡の「南都焼討」で焼失したのを叡尊が再興した後に真言律宗との兼学のような形になったらしい。
厨子に納められた本尊は一木造の聖観音立像でかなりカラフルな彩色が残っている。国の重文。その左右の木造五大明王像も国の重文。
平城天皇は平安京への遷都を慣行した桓武天皇の子だが、奈良へ帰りたかった。嵯峨天皇へ譲位し奈良へ移り、権力の二重化が生じたが、いわゆる「薬子の変」で嵯峨天皇側に破れた。この時、平城上皇の子の阿保親王は太宰府へ左遷された。弘仁十五年(824)平城上皇崩御後に都に戻るが、承和九年(842)の「承和の変」の後に急死した。阿保親王の子は在原の姓を賜り臣籍降下していた。業平は六歌仙の一人で、『伊勢物語』の主人公と同一視されている。
「千早振る 神代もきかず 竜田川 から紅に 水くくるとは」小倉百人一首十七番
一階(初層)部分だけになっている多宝塔。
狭岡神社
狭岡神社西の丘陵先端からの眺め。これが自宅からの眺望に取り込めるのは羨ましい。
霊亀二年(716)に藤原不比等が国家鎮護と藤原氏繁栄のため、自宅「佐保殿」の丘上に創祀したという社伝の、藤原氏との関係が深かった可能性が感じられる神社。現在の祭神は若山咋之神、若年之神、若沙那売之神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室葛根之神と多彩だが、これらの祭神は『古事記』では羽山戸神と大気都比売神の子となる。羽山戸神は大年神の子で、大年神は速須佐之男命の子。地元で農業神として祀られてきたと考えるに相応しい神々と言える。
秋の竜田姫と対になる春の佐保姫と、『記』『紀』の垂仁朝に出てくる狭穂姫が混同されたという解釈が一般的。
藤原不比等と関係があった地に菅原道真の天満宮があるのは、やや意外な感じだが、この丘陵尾根の先端部に狭岡神社とは別に祀られていたという事だろうか。
北に上がって行くと、狭岡神社の旧地なのか、天神社・天満宮の関係施設があったのかはわからないが、何かがあったらしい削平地が左右に見られる。