加佐登・石薬師
東海道五十三次の石薬師宿(44番目)と庄野宿(45番目)あたり(43番:四日市宿、46番:亀山宿)。
荒神山観音寺
加佐登調整池(加佐登ダム)
縁起では、弘仁三年(812)に弘法大師が日本武尊のご神霊を仏像としてお祀りし、
本堂
この寺を有名にしたのはなんといっても慶応二年(1866)4月8日春季会式で起こった、この一帯に設けられた賭場をめぐる博徒の縄張り争い(どこが史実で、どこが浪曲なのか判別が付かないが…)。広沢虎造の一連の荒神山関係の浪曲(「蛤屋の喧嘩」~「最後の荒神山」)や講談、これを題材にした幾つもの映画で広く知られた。
これらの話の元は天田愚庵(山本五郎、山本鉄眉とも)が書いた『東海遊侠伝 一名次郎長物語』という本だった。本人から直接聞いて書いたという事になっており、明治十七年(1884)に出版されたが、次郎長はこの時点では服役中で、釈放の嘆願書としての性格を持っている。
荒神山から加佐登神社あたりは、近世に複数の藩領や幕領が交錯した地域だったため管理不十分だったらしく、祭で人が集まるのを狙って賭場が開かれていた。そういえば浪曲の『清水次郎長伝』の最初の話「秋葉の火祭り」も秋葉神社の火祭りの際に賭場をめぐり発生した博徒の縄張り争いだった。
本堂の外陣の一角に設けられた部屋に飾られた火縄銃。吉良の仁吉を撃ったものかは知らない。
鐘楼
鐘は春日局が寄進したものだが、有名なのは東南の柱の下部に空いた丸い穴。吉良の仁吉を撃った弾痕という話になっているが、内側の下部に真直ぐに撃ちこまれたというのは、ちょっと考えにくい。
神戸側(次郎長側)二十八人の名を染めたのれん。
ここの一番のお土産でしょう。
春日局の歌碑
「さと遠きかうじが山の紅葉に観音大悲ひかりとどまる」
本堂の向かって左には真言八祖を安置した祠が並んでいる。
観音堂の向かって右隣にはお稲荷さん(三吉稲荷)。
観音堂
観音(子安観音?)の祠
さりげない祠という感じだが、中を覗くと立派な十一面観音立像が納めてあった。
護摩堂
中央が三宝荒神で、向かって左が観音様だろう。いずれも春日局が寄進したもの。
広沢虎造が寄進したという、吉良の佐吉の石碑
白鳥塚古墳
帆立貝形という事で、前期終わりから中期初頭頃の形式か。
白鳥塚古墳にまつわるヤマトタケル伝説が先なのか、現在慈悲山廃寺と呼ばれる寺院が建立されたのが先なのか、それとも地主神を祀る加佐登神社の前身社が先に存在したのか。
加佐登神社
左下の由来記にあるように、明治六年(1873)に現社名に改めるまでは、笠殿社だった。御神体がヤマトタケルの笠と杖なので笠殿という社名だったという事になる。
本殿は切妻・平入・高床式の神明造。
棟持柱
本殿の向かって右側にはお稲荷さん。実際はお稲荷さんの他に金毘羅さんなど五柱を祀っている。
加佐登調整池から椎山川に放水中
高富山石薬師寺
国道1号線を越える陸橋を渡り、裏側から入る。
国道1号線に面した駐車場には巨大な寺号石柱
裏から入ると最初にあるのは天満宮
縁起では、神亀三年(726)に泰澄がここに巨石が現れるのを見て、これを薬師如来の示現と感じ、草庵を設け供養したことが開創とされている。弘仁三年(812)弘法大師が薬師如来を刻み開眼供養を行ったとする。嵯峨天皇が勅願所とし高富山西福寺瑠璃光院と号しという。天正年間の兵火により焼失したが、寛永六年(1629)に
地蔵堂
大師堂
東海道へ出てしまった。道標に従い、
御曹司社
源範頼は遠江国の蒲御厨で生まれたので蒲冠者と呼ばれる。頼朝の異母弟で治承・寿永の乱で活躍するが、義経に比べて地味な存在になってしまっている。建久四年(1193)に頼朝への謀反の疑いで伊豆に流され(『吾妻鏡』では「範頼朝臣被下向伊豆國」)、そこで(恐らく)殺された。
石薬師の蒲桜
源範頼が桜の枝を地面に逆さに挿したら芽を出したというのは、大師信仰の影響か。
信綱かるた道(東海道石薬師宿)
歌人として有名な佐佐木信綱は鈴鹿市石薬師町の生まれ。石薬師小学校のそばに佐佐木信綱記念館がある。