大和八木、耳成山、今井町
八木町
横大路(初瀬街道・伊勢街道)と下ッ道(中街道)の交差点周辺に形成された。近世には、初瀬街道の北側が大和郡山藩領・幕領、南側が高取藩領。これは中世以前から横大路が十市郡と高市郡の境界だったかららしい。西の寺内町としてまとまった今井町と比べると、宿場町というほどでもない街道筋の「交通の要衝」といった開放型の街並みになっている。
大和八木駅から初瀬街道を東へ。
西から見た札の辻交差点
上の『西国三十三所名所図会』には交差点の中央に描かれている井戸
札ノ辻の南側の下ッ道(中街道)
八木札ノ辻交流館(東の平田家)
二階の欄間は伊勢街道道中00の景色の透かし彫り。
これは住吉大社の太鼓橋。
東側からの札ノ辻の眺め。
札ノ辻の北側の下ッ道は「市」の為に道幅が広くなっている。
西の平田家さん
春日神社
延命院八木寺
春日神社には末社?が愛宕、金刀比羅、弁財天、豊川稲荷と豪華メンバーで揃っているが、そのうち愛宕さんの夏祭りが8月23~25日に行われる。八木の旧町内は昔の町割りごとに祭壇を設ける。特に下ッ道には多い。中には「立山」というのもある。
畝傍駅西側の旧六十八銀行八木支店
昭和三年竣工の鉄筋コンクリート造。
愛宕祭の祭壇。
耳成山
近鉄大阪線大和八木駅と耳成駅の間くらいにある耳成山は、大和三山の中で最も明確な独立丘と言える。東側が西側に比べてなだらかだがほぼ円錐形の三角山で上から見ても円形に近い。
近世の周囲のムラにとっては薪炭、刈敷を採取するための貴重な山だった。
下の案内図は左が北になる。
南側から上り始める。
この石段を上がると耳成山口神社へ一気に行けるが、
途中、山腹に掘られた洞窟のようなものは防空壕?
山の周囲をとぐろを巻くように(といっても1.25周するだけだが)だらだらと上る登山道を歩くと、気が長い人へのご褒美なのか、西側に一か所枝が払われて畝傍山が見える場所がある。
139.7mの山頂はもう少し上だが、視界は閉ざされている。
蚊が多くて手が震えた。
旧「ヘカタ」。耳成山公園の古池。すぐ南を近鉄大阪線が通っている。
山全体をきれいに撮るのは難しい。この地点が最良か。
山之坊集落にあるもう一つの山口神社。
庚申塚
門樋創設記念碑
下の写真がその門樋
山之坊山口神社のすぐ南側を流れる米川はこの西で北に向きを変え、耳成山の北東で西に向きを変え、更に北西で北に向きを変える。農業用水として重要であったが、一方洪水を引き起こす川でもあった。
堰で取水した水は山口神社の東側を北に流れてゆく。この北側一帯は宅地化されて農村のイメージは希薄になっている。
2016/08/25に行われた奈良大学通信教育部課外セミナー第11回巡検の資料に基づく。
今井町
蓮妙寺
上田家住宅
新平屋敷地蔵堂
称念寺
旧常福寺・春日神社
今西家住宅
環濠
下のように本当に織田信長の本陣があったのかは疑わしいが、天正三年(1575)、他の一向宗(真宗)と共に反信長だった今井は信長に降伏した。信長は前年に長島一向一揆を制圧し、この年には越前の一向一揆を平定し、羽曳野市にあった高屋城の戦いで反信長の三好康長が降伏するなど、大局的に大坂の石山本願寺に不利な状況になりつつあった。しかし、翌年には武田勝頼、毛利輝元、上杉謙信などが足利義昭の画策にのって第三次信長包囲網を形成するので、石山本願寺を中心とする一向宗に決定的に不利というほどの情勢とは言えない。その時期にこのような決断をしたのは先見の明があったと言うべきだろう。
八幡神社