草津追分・青地
草津市追分町
追分口から南に追分8丁目方面へ歩く。
石彫りの不動明王と役行者を祀る行者堂。追分蛇ノ目講が大峯山寺から授かった古くはない御祈禱御札が幾つも立てかけてあり、講の活動が続いている事を示している。香炉を置いた岩の下の右手を挙げた小さな人物は誰だろう。
妙源寺
八幡神社あたりを居館としていた宇野氏の菩提寺だったという。
野上神社
野神は、追分古墳の一部を削平して祀られている。滋賀県神社庁サイトの八幡神社(http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=342)頁には、境外社として「野神神社」と書いてある。追分古墳についてはインターネットでは「草津市追分古墳の再評価」(https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-dayori-038.pdf)が参考になる。これの2頁に載っている「追分古墳と遺物出土位置(昭和2年の記録)」という図に「野神社」の文字が見え、この時点ですでにここに祀られていたことがわかる(なお、神社明細帳も滋賀県立公文書館の所蔵資料検索システムで見ることができる。)。4頁の図では「野神神社」となっている。追分の地名の由来についても「草津市追分町中尾(旧栗太郡志津村大字追分小字中尾576番地)に所在する追分古墳は、現追分集落の東南端にあって、旧東海道(現在旧東梅道と呼ばれている矢倉二丁目から草津四丁目に至る街道よりさらに古いものでのち鎌倉街道と呼ばれた)と、木曽街道の交点にあって文通の要衝としてきわめて重要な地点である。のちここには追分の地名が示すように律令駅制の駅家がおかれたところであり」と説明されている。1980年に発行されたこの文書には「古墳は野神杜の境内となり、裾野に社があって、墳丘高さ3m以上(几ソ十尺余)、填丘直径42m、墳頂部(天場)径4.8m(凡ソ16尺余)四周に濠跡か認められる。埴輪葺石の存在は注意せられていない。おそらく当初からないのであろう。」とあるが、左の説明のように、その後の発掘で「周溝が発見されるとともに、周溝内より多数の円筒埴輪片が出土」した。直径38mの円墳で4世紀末の前期古墳という。
八幡神社
上記滋賀県神社庁のWeb頁には「小槻神社社家伝記によれば、貞観五年同神社より勧請。」とある。小槻神社は草津市青地町に所在し延喜式栗太郡八座の一つだという。貞観五年はユリウス暦863年。
草津市には草津川などの中小河川があるが、沖積平野の水田の灌漑には水量が不十分で、瀬田丘陵北西部の段丘に多くの溜池が造られている。右下の地図(上が北東)に右から野上池、中池、下北池が並んでいるのがわかる。野上池は旧追分村と旧矢倉村の境にあり、『草津市史資料集 近江国栗太郡村誌1』(草津市史編さん委員会編草津市役所 一九九〇)収録の『近江国栗太郡村誌』矢倉村の項(三三頁)では「野上池」と書き、追分村の項(七一頁)では「野神池」と記している。
地域社会が機能している。
三叉路の祠
「十四代金澤」店頭の「活人石」。『東海道名所図会 二』に載っている。
小槻神社
現在、行政上は草津市と栗東市に分かれているが、もとは両市とも栗田郡で、この地域の歴史はこの単位で見ると片手落ちを防ぐことができる。東北東1.5Km位のところに小槻大社がある。その間は丘陵地帯だが、伯母川、美濃郷川、草津川、金勝川が流れ、点々と溜池が築造されている。
神明宮
草津市立志津小学校が青地城跡。小学校の高台と神社の間の掘り割りか。
野上社と八幡社
上の「小槻神社由緒」には、左端の最後の行に「野上社 草野比売神」と記してある。この草野比売神は『記』では
この記紀神話が山の神をオオヤマツミという男神としているのは、山の神は女性だとする多くの民間信仰と逆になっている点が面白い。恐妻家が妻をヤマノカミと言っていたように、一般には山の神は女神とする地域が多い。
この野上社に祀られている野神さんは元は何処にどのように祀られていたのだろうか。
神社明細帳には、以下の記述がある。
八幡神社
祭神 品陀和氣命 草野比賣命
由緒 祭神ハ元本村大字部田字上田ニ無格社八幡神社(由緒不詳)トシテ鎮座シ祭神草野比賣命ハ元本村大字部田字山田ニ無格社野神社(由緒不詳)トシテ鎮座ノ處大正四年十月廿七日許可ヲ受ケ八幡神社ヲ本社境内神社トシテ移轉ト同時ニ野神社ヲ茲ニ合祀ス
龍王池と龍王社
龍王社
龍神池由来
祭神 豊玉彦之神
祭日 一月十五日
延喜式神明帳に見える小槻神社が天徳三年(九五九年)
志津池のほとりに遷座の頃より池の宮と号し老樹茂る
神前のこの大池に龍王像を祀り旱魃には雨乞いをかけ
て奇応あり村人大いにこれを祈る。
然るに後年比叡山の従人三丈坊某山田に住し歳旱せば
神池の水を山田の用水に引かんとするを時の城主青地
河内守は城の要害殊に神号ともあるを以って許さず。彼強
引にも池に兵船を浮めて軍の催しをする等暴挙に出で
青地より観音城へ言上の末こは事重く郷庄の騒動なりと
堤を切らせ水を捨て少しの池を森の裾に移して事治まり
今に旱魃の雨乞いをかけて願成就せずということなし。
神のます御池をこゝに遷すより
幾世経るとも濁りさすまじ
青地河内守重頼
右池の儀は明神の御名宗源宜旨に書かれたる
ことなればいと重き御事なり。と伝えられている。
宮司敬白