五條市
栄山寺橋。藤原武智麻呂創建で墓もある栄山寺は右岸をこの橋から川沿いに少し上流へ入ったところにある。
文久三年(1863)旧暦8月17日、天誅組に襲われ焼き払らわれてしまった代官所跡。寛政七年(1795)に設けられ、宇陀や吉野の幕領をも管轄した。
代官所を襲撃したあと、天誅組が本陣とした桜井寺
本堂はコンクリート造りだが、なかなか優美な屋根の曲線
槍の跡が丸く残っているとする柱の旧材
本堂右奥に閻魔堂
五條市は吉野川の渡し場の一つとして発展し、右岸河岸段丘上に拡がっている。この坂は国道24号線が通る上の段丘面と旧道が通る下の段丘面の間の段丘崖になっている。
"建築年代がわかる民家では"という微妙な条件付きで日本最古、慶長十二年(1607)築の栗山家住宅
中邸。宝永元年(1704)年の築。元禄十六年(1703)五條の大火以後の築で二階に窓がないなど厳重な防火対策が施されている。明和八年(1771)の火災には被災しなかったようだ。この時期、元禄十六年11月23日(旧暦)に元禄の大地震、宝永元年に羽後で地震、宝永二年に高千穂・桜島噴火、宝永三年に浅間山噴火、宝永四年に宝永の大地震、富士山の宝永大噴火と自然災害も続いている。
重要伝統的建造物群保存地区(2010年選定)「五條市五條新町」へ国道168号線から入る。
入る角の栗山家住宅。元禄九年(1696)年の棟札があるという。二階建てなのに平屋に見える建物。
山本本家。清酒の松の友、神代杉、更に柿ワインを製造する酒蔵
西川に架かる鉄屋橋。左に一ツ橋餅店。
近世の石積み護岸
吉野川は五條の付近でS字に蛇行している。五條新町のあたりはS字の最初のカーブの外側にあたり、川の流れが衝突する地点になっている。そのため、上流から流してきた筏を着岸させるのに都合がよいが、洪水の危険にさらされてもいる。
南の二見城は二つのカーブの間の高台にあり、町と川を見通せ水害の危険も少ない。これらの点から五條や新町から離れているものの、城を築くには好立地だったと言える。
慶長十三年(1608)に二見城に入ったとされる松倉重政の城下の振興策により五條村と二見村の間に新町村が形成された。ただ、近世の城下町としては城と離れていて、地形的にやむを得ない面はあるが町割りとしての不自然さも感じられる。
東浄川
文政辛巳は文政四年(1821)
結晶片岩の護岸壁。つまりかつてはここまでが川だった。結晶片岩は、ここが中央構造線上であることを思い出させる。
札場跡
寿命川の畔の祠。末広大明神さま。
五新線跡。五條と新宮を結ぶ計画で昭和十四年に着工。戦争等で中断し昭和三二年に工事再開。五條市西吉野町城戸まで完成した。バス専用道路として2014年9月30日まで利用された。列車が走ったことは一度もない。新宮までは国道168号線と似たようなルートだったのだろう。
二見城跡。現在は日蓮宗の妙住寺の一帯。島原の乱の原因となった圧政を敷いた肥前日野江藩主として知られる松倉重政が関ヶ原の戦いの後入城し城と城下を整備した。
島原では悪役の松倉重政だが、ここでは五條振興の名君とされている。
五新線とは別に和歌山線大和二見駅から二見城跡の南側まで主に木材運搬用の川端貨物線があった。南和鉄道が明治二九年に大和高田市の高田駅から川端駅までを開業した。つまり、この貨物線の終点の川端駅が南和鉄道の終点だった。そして紀和鉄道が和歌山市の紀和駅から五條までの路線を計画し、現在の大和二見駅で南和鉄道に接続、路線を借りる形で五條駅まで開業した。紆余曲折を経て明治三五年に現在の大和二見駅が二見駅として開設された。
奈良県と和歌山県の県境