東浅井郡湖北町
滋賀県長浜市湖北町尾上
金毘羅宮
昔はこの辺りまで船溜りだったという。
相頓寺の鐘楼脇に置かれた「尾上の石棺」
組み合わせ式家型石棺の底部ではないかと思われる溝が残っている。削りやすい凝灰岩ではなく、近江に多く産出する花崗岩製だという。
南速水
田中のエノキ(えんねの榎実木)
エノキと野神さんの祠は集落(住居地域)から田へ出る境付近の集落側に位置している。
田圃の北に「おにぎりせんべい」のような山本山が見える。
東浅井郡虎姫町
主祭神は上筒男命、中筒男命、底筒男命となっているが、いわゆる住吉三神と考えてよいのだろう。
五村の曳山で長浜の曳山まつりのように何基も出ていたわけではなさそう(きちんと調べてはいない)。
五村別院
真宗大谷派別格院五村御坊
表門は国の重文
本堂も国の重文
織田信長に攻められた石山本願寺からの退去を拒んだ強硬派の教如は、父の顕如の急死後、本願寺を継ぐが、秀吉に隠居を命じられた。地元の豪士大村刑部左衛門らが隠居中の教如に寺地を寄進し、道場が建立されたと言われる。教如は、秀吉により天満本願寺から移転させられ、ほぼ現在の西本願寺に相当する七条堀川にあった本願寺内の隠居所にいたが、慶長七年(1602)に徳川家康から現在の東本願寺の地を与えられた。
宮部の宮部神社
滋賀県東浅井郡虎姫町宮部の稲荷社は、現在は村社の宮部神社の摂社として祀られているが元の社は村はずれの小字野神という塚上にあった。ここには野神の松と言われた巨木もあって、湖東や湖北地方に多く祀られている野神の依代と同じものである。しかしここでは他の野神に見られない赤い鳥居が立ち並び又社の背後に狐穴があって狐が出入りしていたといわれ、宮部の古老の間では宮部の稲荷社は塚に棲んでいた狐を祀ったものだと伝承されている。更にこの稲荷神は、村の守護本尊である観音堂の本尊と一体だと考えられており、稲荷の社が台風によって壊れた際その御神体である陽石形石棒をしばらく観音堂の十一面観音と並べて祀り、祭祀もその前で行った。祭日は、新暦四月十八日と新暦九月十八日で四月は稲荷の塚で花見と言って、村中の人々が稲荷の社に詣でて油揚げを供え、会食して一日中遊んだ、九月は村全体で祀られ野菜類・里芋・豆類等の畑作物を供物とし、各参拝者は油揚げを供える。夜には多数の灯明が点された。
この稲荷神が祀られた場所は野神という地名であるからここで元野神が祀られたことは疑いない。それは九月十八日の祭りの供物が畑作物を中心であることと祭日とが近江地方の野神祭と同じ時期であることから一層明白である。しかし一般の野神祭と異なる点は油揚げを供えて狐を祀る事であろう。(山崎時叙「稲荷信仰と山の神・野神」五来重/編『稲荷信仰の研究』山陽新聞社 1985 684~685頁)
東側を南北に通る北陸自動車道の向こう側(東側)に旧地の石碑が立っている。
唐国の稲荷神社
同町唐国では、野神という地名の所に氏神である河姫稲荷神社がある。祭日は二月初午と新暦四月一日、新暦九月十五日である。
二月初午にはこの稲荷社で宮おこないがあり、鏡餅を供え各家より戸主が参拝してその年の豊作を共同で祈願する。鏡餅は最後に各家が分割して持ち帰る。四月は各家が参拝の後イチ(市)と称する巫女によって湯立てがおこなわれる。九月は灯明まつりと言って稲荷神社の境内の周囲を棚で巡らしそれに灯明が多数点される。供物は野菜類・里芋・豆類である。
このように唐国の稲荷社の例も宮部の稲荷と同様野神的な稲荷神とみてよいものであって、現在の稲荷社の位置が野神という土地名であるから元は野神を祀っていた事はまちがいない。従ってそれか稲荷神社として祀られた後も、その祭りが野神の祭りを行っている以上只名称を変えたに過ぎないと思われるのである。従って野神が稲荷となった段階で御神体として荼吉尼天を祀り、初午におこないをするようになったものであろう。(山崎時叙「稲荷信仰と山の神・野神」五来重/編『稲荷信仰の研究』山陽新聞社 1985 685頁)
由緒を書いた案内板などがないので、この稲荷神社が「河姫稲荷神社」なのかは断定できないが、唐国町にお稲荷さんはここだけのようだ(小祠がある可能性は残る)。高時川左岸に位置するが、東には田川も流れている。
旧長浜市域北部
口分田の天満宮
神照寺
新庄寺町にある日出山神照寺は、真言宗智山派の寺院。
寛平七(895)年に宇多天皇の勅命により創建されたとする。国宝の金銀鍍透彫華籠(きんぎんとすかしぼりけご)ほか、国の重文、県市指定文化財を多数収蔵している。
寺号は「じんしょうじ」だが、地名は「かみてる」。