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東近江市羽田・稲垂の野神と山ノ神

東近江市上羽田町の羽田神社

神社は華丘山の西の麓に位置しているので西を向いている。

羽田神社


父母の供養のために沙弥行道が正応元年(1288)八月八日に炉油料と畠一段と共に寄進した石灯籠。

勧請縄は、9月なので切れてしまっていた。

上羽田北方・西方の山の神*8と野神*10

神社の向かって左側、華丘山公園への登り口から少し上がると左側に祀られている。

注連縄で四方を囲われた祭場

祭場の西側だけ腰蓑風のものが下げられている。

山の神の祭礼は1月3日の深夜に行われるという。
男女二体の御神体を作るという。

野神の祭礼は8月24日に行われるという。
野神も男女二体で山の神と同体という解釈だろうか?

上羽田南方の山の神*11と野神*12

野神さん

『滋賀県の自然神信仰』も指摘している(216頁)が、山の神・野神ともに祭壇は北方・西方とは反対に(というよりも、その他のほとんどの例とは反対に)神木の山側に組まれている。『滋賀県の自然神信仰』は、もとは華岳山で祀っていたのを現地に移したことによる変化かも知れない。と推測している。

山の神

山の神から祭場に張った長さ一五尺の太綱にかけてカギ引きをする。

『滋賀県の自然神信仰』に考察として同じ上羽田の山の神行事がほぽ同時刻に行われる。その内容は近似したものも当然あるが、こんなに違いがあるかと思われることもあり、比較してみると大変興味深い。と書いてある。どのような違いがあるかは同書36~39頁を参照。

上羽田


住宅に近い田圃の中の一画にある祠には双体道祖神らしい石像や石塔などが集められていた。

9月始めには、収穫の時期に入っている。

平石 天満宮跡

平石


 

正体不明の石碑

平石の山の神

祭場へは、駐車場から雪野山への登山道を登る。

「雪野山古墳へ920M」の案内板の少し先で、登山道から右へ分かれる。登山道の方が荒れている感じ。

山の神*9の祭場に到着

山の神の祭礼は1月4日早朝に行われるという。

平石


祭場は古墳の上部にあたるようだ。

東近江市上羽田町徳昌寺と城跡

濠割と土塁。来歴は不明のようだ。
徳昌寺

 
徳昌寺

東近江市中羽田町と後藤館跡

濠割と土塁
後藤館跡

門跡
   後藤館跡

後藤館跡


六角氏の家臣後藤氏の館。滋賀県指定史跡。「東近江市の遺跡シリーズ 3 後藤館跡」が手軽な解説。

  後藤館跡   滋賀県指定史跡(昭和五十八年三月二十八日指定)

当史跡は近江守護佐々木六角氏の重臣後藤氏在地居館
跡である。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、代々六角氏の家
老の位置にあった。十六世紀中頃、後藤但馬守賢豊は六角義賢
の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(西暦一五六三年)義賢の子
義弼に謀殺された。これが観音寺騒動の発端と
なり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる。
この後藤館跡は周囲に基底幅約十一メートル、高さ約三メートル
の土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西
幅、東辺の長さ約百メートル、西辺の長さ約百二十メートルの変
形四角辺プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した。
当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの
防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建
物が存した。
当館跡の建物は配置は定かではないが、昭和五十六年の発掘調査
で井戸跡、厠(便所)跡、柵跡などが検出され、その位置から主要
な建物は、敷地内北部中央附近に存したと推定される。
平野部に残る中世の館跡として貴重であるため、所有者後
藤正男氏、および関係機関の協力により保存が実現した。
なお昭和五十八、五十九年度に一部を環境整備し、ここに永く
後藤館跡の保護をはかるものである。
    昭和五十九年十月

                 滋賀県教育委員会
                 八日市市教育委員会

 
中羽田町

御旅所
中羽田町

愛宕さん
中羽田町

 
中羽田町

稲垂の野神

背後には天乞山古墳
稲垂の野神

 

 
稲垂の野神

 

稲垂の野神


稲垂の集落は名神高速道路の向こう側。野神は村域の南端に位置する。
【稲垂の野神 八月一八日】稲垂の野神の行事は午前中に社守宅で御神体・神饌が作られ、野神に供えて、その場で子供の相撲がある。午後には全戸が諏訪神社に集まり、野神祝詞(シュウシ)がある。稲垂は蒲生町の北端にあり、東近江市上羽田町と隣接する。戸数は二三戸で、集落内に諏訪神社を祀る。野神は、圃場整備前までは川合の土地にあったというが、現在は川合境に近い区域の南端(名神高速道路の南側)にあり、野神の文字を刻んだ石碑が立てられている。行事は、以前は八月二三日に行われていて、二〇年ほど前から日曜日に変わっている。*12

参考史料:
  1. *08 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 36頁~40頁
  1. *09 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 40頁~41頁
  1. *10 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 214頁~215頁
  1. *11 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 38頁~39頁
  1. *12 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 215頁~216頁
  1. *08 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 36頁~40頁
  1. *09 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 40頁~41頁
  1. *10 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 214頁~215頁
  1. *11 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 38頁~39頁
  1. *12 滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007 203頁~204頁

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