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近江国庁跡と国府

近江国庁跡


大きく見ると瀬田丘陵から北の琵琶湖へは緩斜面になっているが、国庁跡の北側に高橋川が流れていて谷を形成している。そのため、国庁跡は北側は琵琶湖を見渡せ、南側から見ても高台(三大寺丘稜)になっている。

米倉二郎「近江国府の位置に就いて」に以下の記述がある。
今、近江近江國府址附近地形圖と周防國府址附近のそれとを比較するに、極めて興味深き類似が觀取される。それは前者に於ては東海道、後者に於ては山陽道が何れも四町前後の道路間隔をとって階段上屈曲をなす事である。周防國府は中央の南北路が基軸となってゐるが。國道は罰府内を通過するに際して放に屈曲せしめられたものゝ如くである。近江に於ては大江、眞米問の南北路が周防のそれに匹敵する位置にある。因って之を中心として周防國府に於けると同様のプランを考ふるに、国府の外廓に當たる處には堤防や周湟の遺跡と見做さるべき道路や河川が巡り、又四隅には神地が配され、推定の必ずしも不當ならざる事を證する様である。即ち國府の北鐙は大江、久保江を連ぬる里道、國道、及び周湟の遺址と見らるべき幅二間以上の宮川に一致し、久保江の若松社はあだかも想定國府の西北隅に當り之に對象的に大江の屈曲點より東四町に野上社があった。又府の西南隅には一宮建部神社がある。府の西邊は里道及高橋川で、殊に高橋川は丘陵の一部を切斷して、北流して居り、その流路には多分に人工的施設が加へられた事を想像せしめる。南邊は建部神社前を眞直に東進する里道で、一部は現在も尚堤防である。建部神社去る略八町の地點に山ノ神の小祠がある。この山ノ神と野上牡を結ぶ一線が府の東邊であるが、之は最も不明瞭である。
想定國府址の地勢は、洪積層の低き丘陵の湖岸に突出せるものゝ尖端を占め、土地高燥、しかも水陸交通の便を併せ兼ねてゐる。
*1
これは周防國の国衙土居八町をあてはめたものだが、九町の例もある。

御霊神社

主祭神は大友皇子。社伝では治田連の子孫が祖霊を祀った所とされる。古くは御霊ヶ原小字荘山というところ祀られていたが、天和二年の秋、暴風のため倒壊し、領主に願出して小字七の社の地に遷座したが、昭和五年古来の御旅所住野神社(現在地)に移された。

野上神社
御霊神社

御霊神社

お稲荷さんで、
御霊神社

狐も多いが
御霊神社

天龍大明神になっている。
御霊神社

御霊神社

野神社舊跡

野神社舊跡


大江東児童遊園地の奥、大江ちりん館の前の低いブロック塀で囲われた一角に野神社舊跡の石碑がある。上部先端が五輪塔の空輪+風輪を思わせる。下の石碑部分と石の色が若干異なるので、後で載せたものかもしれない。
平安時代の歌人、大江千里の奥方が住んでいた?と書いてあるが、その跡地に野上神社を建てたという、この繋がりはどうも説得力がない感じがする。その野上神社は、この頁の上の御霊神社の境内社になっている。

引用文献・参考資料
  1. *01 「近江国府の位置に就いて」米倉二郎『日本の地理学文献選集 (Ⅲ) 第7巻』岡田俊裕/編 クレス出版 2008 所収

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