京都市内の荘園
荘園は、数え切れないほど存在していたが、その中で何かのご縁があったところだけを探訪。
上久世庄(かみくぜのしょう)
東寺領上久世庄については、『東寺百合文書』の「上久世庄東田井流田注進狀」(東百を186)に関連して訪れた。この文書は、「註進 上久世庄東田井〔永享九年五月廿五日〕依大水牛瀨堤切テ損失之下地檢使事」と、永享九(1437)年5月25日に牛ヶ瀬で堤が決壊したことによる耕地の被害状況報告である。「牛ヶ瀬」が付く地名は、東海道線(京都線)・上久世・桂川に囲まれた三角地帯に多数見られる。
医王山光福寺(蔵王堂)
蔵王堂は、上久世庄の北端中央に位置する。
桂川の河川敷
応永九 (一四〇二 )年八月の洪水について、「同大水せひなく候、牛か瀬の里中をかつら河の水いせきり候て、蔵王堂のひんかしより長瀬をくたりに、大水おしなかし候て、さん/\しきにて候」とあり、蔵王堂の東すなわち当庄の東三分のーの地帯が、洪水の被害をうけたことをいっている。また永享九 (一四三七 )年五月二五日にも大水のため牛瀬の堤が切れ当庄東田井の一帯が流田となった。このとき上久世庄東田井流田注進状が作成されているが、そこに記載された地名のうち「子コマ」「イセキ」は第4図で示したごとく桂川沿いの地であり、「堂東」というのは明らかに蔵王堂の東であり、「梅坪」もはじめに推定したように、蔵王堂の南東部と考えられる。また「流瀬」というのはさきの応永九年八月の洪水の模樣を記した鎮守供僧評定引付にみえる「長瀨」であろう。かく考えるとその所在を明らかにしえない「野々神」「ソフソフ」「ナカフケ (中後家 )」「中トヲリ」などの地名を含みつつも、この東田井は蔵王堂の東、桂川沿いの地帯と考えてよかろう。これによって当庄の東寄りの地がたびたび水害を受けたことをしるのであるが、さらに第2表(c)に地名の現存しないものとして挙げた「中フケ」「野々神」の二つが、永享九年の流田注進状に「東田井」として現われており、水害の多かった地域の地名が失われてしまっている模様を端的に物語っている。
〔上島有『京郊庄園村落の研究』塙書房 1970 32,33頁〕(図表省略)