鳥羽殿跡
安楽寿院
鳥羽離宮南殿跡
鳥羽離宮南殿跡
この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、十ー世紀の末、応徳三(ー〇八六)年に造営されたものを、昭和三八年から四二年にかけ調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる。
元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて北殿・東殿・田中殿・馬場殿等があった。それは淀川につながる大きな池沼の岸辺に配置されていたものである。北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。田中殿は遺跡がみつかっている。馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇が十三世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。
これらの御所に付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院と成菩提院・不動堂があり、田中殿には金剛心院があった。南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中門廊•西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。
鳥羽離宮について記された文献は数多いが、「平家物語」巻三に見る「秋の山の春風に白波瀬に折懸 紫鴛白鷗逍遥す」この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。