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中野、今崎、今堀

中野

中野神社

 
中野神社

 
中野神社

中野は、大凧揚げの発祥の地(の一つ)
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

中野自治会館
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

南福寺
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

五所神社といった感じ。祭神の表示はない。
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

愛宕社
中野神社

本殿。主祭神は大山咋神
中野神社

野神さんと山ノ神

これは拝殿
中野神社

3つ並んでいる
中野神社

野神
中野神社

野神
中野神社

山ノ神;
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

 
中野神社

東中野町高札場と野神

正面は、津島さん
東中野町高札場

東中野町の南西隅
東中野町高札場

 
東中野町高札場

 
東中野町高札場

 
東中野町高札場の野神

 
潜伏野神さん

今崎

日吉神社

 
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

日吉神社社歴
祭神
   中央 大山咋神
      国常立尊
      大己貴命
   右  素戔嗚尊(牛頭天王)
   左  瓊瓊杵尊(十禅師権現)
境内社 小宮社 東 蛭子社
        西 山王権現
    稲荷神社
    天満宮   白太夫社(稲荷社に合祀)
    野神社(稲荷社に合祀)
    十羅刹女社(法華経の守護神)
    薬師堂 薬師如来(主佛)
        不動尊
        行者尊
    愛宕社(防火の神)
 由 緒
平安時代の延暦年間(七八二~八〇五)坂本日吉神社
の御分霊として勧請され、得珍山引接寺の
創立にあたり、守護神として鎮座されたと
伝えられている。
鎌倉時代の元應二年(一三二〇)に権律師覚守が
社殿を再建し、室町時代の應永四年(一三九七)
正賢大徳が社殿を修造した。安土・桃山時代
の天正年間(一五七三~一五九一)に織田信長の兵火に
罹り伝承の文書が焼失。
江戸時代の寛永十三年(一六三六)社殿を造立し
元文元年(一七三六)本殿およし鳥居を修造した。
明治三年(一八七〇)本殿を改築、現在に至る。
明治九年(一八七六)村社に列す。

 
今崎日吉神社

薬師堂
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

拝殿
今崎日吉神社

稲荷社
今崎日吉神社

稲荷と天満宮が並ぶ
今崎日吉神社

本殿
今崎日吉神社

 
『神社明細帳』によると、大山咋神荒御魂(明-す-9 76-63)。上の「社歴」では本殿の祭神なっている国常立尊、大己貴命が、境内社となっているなど、変動がある。

 
今崎日吉神社

 
今崎日吉神社

安養山引接寺(いんじょうじ)

天台宗寺院
引接寺

本尊は阿弥陀如来
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

 
引接寺

鐘楼
引接寺

道路に面し山門の脇に地蔵堂
引接寺

今堀

今堀日吉神社

 
今堀日吉神社

 
今堀日吉神社

 
今堀日吉神社

堀出神社
今堀日吉神社

 
今堀日吉神社

 
今堀日吉神社


拝殿

今堀日吉神社

大東亜宣戦(勅?)布告を記念して、
プロペラに山本五十六筆「龍蛟躍四溟」

今堀日吉神社

日露戦争従軍者
今堀日吉神社

愛宕社
今堀日吉神社

東・西大将軍
今堀日吉神社

本殿
今堀日吉神社

熊野・太神宮・松尾
今堀日吉神社

 
今堀日吉神社

 
今堀日吉神社


今堀日吉神社文書」は国宝「菅浦文書」と並び中世惣村・宮座の研究史料として知られている。1975年に日吉文書刊行会『今堀日吉神社文書』が出されているが、仲村研『今堀日吉神社文書集成』(雄山閣 1981)が整理され(翻刻され)ていて使いやすい。

野神推定地

仲村研『今堀日吉神社文書集成』に「今堀の地名と祭祀施設」という地図があり、それを頼りに野神と山ノ神を祀った場所を探した。

 
今堀野神推定地

この若木のあたりが野神さん。
今堀野神推定地

八日市市今堀町では毎年七月七日の早朝より野神祭りがあり、小学生の子供達によって野神の御神木の前で相撲が行われる。午前七時頃に、白無垢の羽織袴に烏帽子姿の社守と小使 (ショウシ )と呼ばれる二名の大人、それに相撲を取る小学四年生の男の子二人が日吉神社の社務所近くに集まる。そして決められた道筋を通って集落南側の水田地域の一角にある野神の御神木の所に向かう。野神である杉の若木の前に到着すると、先ず素麺の束や煮豆、御神酒、二匹のトビウオなどが供えられ、一同で御神木を拝む。その後社守が行司役となつて二人の子供を合わせ、御神木の前で相撲の取り組みをする。特に土俵などは用意されないが、子供達は腰だめの姿勢から行司の掛け声と共に組み合い、少しだけ押し合いのような事をする。するとすぐに行司が子供達を抑えて勝負を納めさせ、両者を引き分けとして相撲行事を終わる。この後供えられた御神酒や煮豆が振舞われ、トビウオは一匹ずつ相撲を取った子供に分け与えられる。*2 246頁

 
今堀野神推定地

箕作山の全貌。小谷野正面に太郎坊宮。
今堀野神推定地

山ノ神推定地

山の神は、今堀町の集落の南、布引小学校の東に位置し、歩いて二〇分ほどかかる。道中、「ヤマヤマー」と連呼しながら歩く。途中、野神の前を通るので、人数よりも少し多目に作られた御幣を野神に供える。*1

東近江市立布引小学校の
今堀野神推定地

 
今堀野神推定地

引用文献・参考資料
  1. *01 『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県文化財保護課編 滋賀県教育委員会 2007
  2. *02 『『滋賀県の民俗芸能 滋賀県民俗芸能緊急調査報告書(平成七年度~平成九年度)』文化財保護課編 滋賀県教育委員会1998.3』滋賀県文化財保護課編 滋賀県教育委員会 1998

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