中野、今崎、今堀
中野
中野神社
野神さんと山ノ神
東中野町高札場と野神
今崎
日吉神社
日吉神社社歴
祭神
中央 大山咋神
国常立尊
大己貴命
右 素戔嗚尊(牛頭天王)
左 瓊瓊杵尊(十禅師権現)
境内社 小宮社 東 蛭子社
西 山王権現
稲荷神社
天満宮 白太夫社(稲荷社に合祀)
野神社(稲荷社に合祀)
十羅刹女社(法華経の守護神)
薬師堂 薬師如来(主佛)
不動尊
行者尊
愛宕社(防火の神)
由 緒
平安時代の延暦年間(七八二~八〇五)坂本日吉神社
の御分霊として勧請され、得珍山引接寺の
創立にあたり、守護神として鎮座されたと
伝えられている。
鎌倉時代の元應二年(一三二〇)に権律師覚守が
社殿を再建し、室町時代の應永四年(一三九七)
正賢大徳が社殿を修造した。安土・桃山時代
の天正年間(一五七三~一五九一)に織田信長の兵火に
罹り伝承の文書が焼失。
江戸時代の寛永十三年(一六三六)社殿を造立し
元文元年(一七三六)本殿およし鳥居を修造した。
明治三年(一八七〇)本殿を改築、現在に至る。
明治九年(一八七六)村社に列す。
祭神
中央 大山咋神
国常立尊
大己貴命
右 素戔嗚尊(牛頭天王)
左 瓊瓊杵尊(十禅師権現)
境内社 小宮社 東 蛭子社
西 山王権現
稲荷神社
天満宮 白太夫社(稲荷社に合祀)
野神社(稲荷社に合祀)
十羅刹女社(法華経の守護神)
薬師堂 薬師如来(主佛)
不動尊
行者尊
愛宕社(防火の神)
由 緒
平安時代の延暦年間(七八二~八〇五)坂本日吉神社
の御分霊として勧請され、得珍山引接寺の
創立にあたり、守護神として鎮座されたと
伝えられている。
鎌倉時代の元應二年(一三二〇)に権律師覚守が
社殿を再建し、室町時代の應永四年(一三九七)
正賢大徳が社殿を修造した。安土・桃山時代
の天正年間(一五七三~一五九一)に織田信長の兵火に
罹り伝承の文書が焼失。
江戸時代の寛永十三年(一六三六)社殿を造立し
元文元年(一七三六)本殿およし鳥居を修造した。
明治三年(一八七〇)本殿を改築、現在に至る。
明治九年(一八七六)村社に列す。
安養山引接寺(いんじょうじ)
今堀
今堀日吉神社
「今堀日吉神社文書」は国宝「菅浦文書」と並び中世惣村・宮座の研究史料として知られている。1975年に日吉文書刊行会『今堀日吉神社文書』が出されているが、仲村研『今堀日吉神社文書集成』(雄山閣 1981)が整理され(翻刻され)ていて使いやすい。
野神推定地
仲村研『今堀日吉神社文書集成』に「今堀の地名と祭祀施設」という地図があり、それを頼りに野神と山ノ神を祀った場所を探した。
八日市市今堀町では毎年七月七日の早朝より野神祭りがあり、小学生の子供達によって野神の御神木の前で相撲が行われる。午前七時頃に、白無垢の羽織袴に烏帽子姿の社守と小使 (ショウシ )と呼ばれる二名の大人、それに相撲を取る小学四年生の男の子二人が日吉神社の社務所近くに集まる。そして決められた道筋を通って集落南側の水田地域の一角にある野神の御神木の所に向かう。野神である杉の若木の前に到着すると、先ず素麺の束や煮豆、御神酒、二匹のトビウオなどが供えられ、一同で御神木を拝む。その後社守が行司役となつて二人の子供を合わせ、御神木の前で相撲の取り組みをする。特に土俵などは用意されないが、子供達は腰だめの姿勢から行司の掛け声と共に組み合い、少しだけ押し合いのような事をする。するとすぐに行司が子供達を抑えて勝負を納めさせ、両者を引き分けとして相撲行事を終わる。この後供えられた御神酒や煮豆が振舞われ、トビウオは一匹ずつ相撲を取った子供に分け与えられる。
*2 246頁
山ノ神推定地
山の神は、今堀町の集落の南、布引小学校の東に位置し、歩いて二〇分ほどかかる。道中、「ヤマヤマー」と連呼しながら歩く。途中、野神の前を通るので、人数よりも少し多目に作られた御幣を野神に供える。
*1
引用文献・参考資料
- *01 『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県文化財保護課編 滋賀県教育委員会 2007
- *02 『『滋賀県の民俗芸能 滋賀県民俗芸能緊急調査報告書(平成七年度~平成九年度)』文化財保護課編 滋賀県教育委員会1998.3』滋賀県文化財保護課編 滋賀県教育委員会 1998