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米原市梓河内

行政的には「あずさかわち」と読むらしい
米原市梓河内

名神高速の北は河内
米原市梓河内

柏原の西南にある村也。往還街道にある家居を梓村といひ、谷合の家居を河内村といふ也。此村肩衣袴なく、今に素袍袴を着す。梓の杣と歌に詠ずるは此地の事也。土俗相傳、右昔此所に河内の覺性といふ盗賊の魁首ありて、熊阪長範に随従せりといふ。〔寒川辰清/編 小島捨市/校注 1968『校訂頭注 近江輿地志略』歴史図書社 993頁〕
中仙道ニ当レル村落ナリト雖トモ四囲山岳ニシテ東ハ柏原村ニ境ヲ交へ西ハ枝折村卜遙ニ疆域ヲ接シ南ハ上丹生村北ハ長岡村ト各山谷ヲ以テ相接ス梓川村ノ中央ヲ貫流スト雖トモ舟楫ノ利ナク唯中仙道ニ沿ヘルヲ以テ陸運殊ニ自在ナリ地味肥沃米穀能ク熟ス然リト離トモ水利常ニ不便ニシテ早魅ニ際スレハ灌漑ニ乏シ幅員東西二五町南北三五町
〇人口 六五八人 但平民
〇人戸 一五五軒
 農 一五五軒 傍ラ養蚕炭焼採薪等ヲ事トス其他些少ノ商業ヲナシ又大工等ヲナスモアリ
〇反別七九九町七反二畝一八歩
〇地価金一一、六九五円五六銭
  旧高 二三八石一斗九升三合 田地七町三反三歩 地価金三、一四〇円二八銭 播スモノハ米穀ニシテ就中早稲最モ多シ
 畑地一九町六反六畝ニー歩地価金三、八二二円三三銭
〔『滋賀県物産誌』『滋賀県市町村沿革史 第5巻』 七二三頁〕
地図によると、「田地七町三反三歩」(約7.24ha)が何処にあったのか不思議に見える。河内村では、国道21号、名神高速道路から稗谷川あたりまでが、ほとんど田圃で、人家はその南(上流側)に集中していたようである。

河内

名神高速道路をくぐった南は河内

八幡神社


米原市梓河内

山の神は、ここに移されたようだ
米原市梓河内

神明神社

野神

河 内 河内の集落を貫流する梓川の上流右岸山すそ、山の神よりもさらに上流に、河内のノガミサンがある。大きな岩のある所で、毎年五月五日の男のセックの日の早朝、夜が明けるのを待って各家から男子全員が、このノガミサンに参る。幼児も連れてゆく。家毎にチマキとショープとヨモギを束ねたものを持参し、ー担神酒と共に供え、何人かが揃うと、この束をノガミの前で上下に振りながら、「千度参りよう参り来年の今日までもようしんぜ参りもひとつ参れ よう参り来年の今日までもよ ようしんぜ参り」と大声で唱え、「これでノガミサンも目を覚まさはったやろ」などという。再び神前に供えて拝んでから持ち帰る。帰宅すると座敷にムシロを敷いて、ここにホリ・ニッグワ•三ツグワなどの農道具やノコギリ・ナタなどの山道具なども並べて、サバ・味噌もの・御飯・持ち帰ったチマキを供えて力ヤの箸を添えて拝む。供物は夕方には片付け、チマキは田んぼへ供えてくる。ノガミサンは女人禁制であるといい、百姓の神であるという。早朝にノガミの覚醒を促し、屋内に招き入れ、さらに田へと招来する明確な一連の行為を残した注目すべき行事である。またこの日は、ヨモギとショープとチマキ二、三本を束ねて家の入口の屋根に放り上げた。〔山東町史編さん委員会/編 1990『山東町史 別編』山東町 213頁〕
奥能登の2月9日に行われる、春の「あえのこと」を彷彿とさせる。


米原市梓河内