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『科學技術者とフェビアニズム』

目次


はしがき
科學技術者とフェビアニズム
チャーチスト運動の教訓
日本フェビアン協會創立主旨
はしがき

數十萬に上る日本の科學技術者が、その封社會關係について深く考えることを希望して最初の小文を書いた。
社會主義の解説は、專門家によつていくらも著わされているが、科學技術者にとつて讀み易いものではない。それゆえ、まづ科學技術界の年よりの一人である筆者が、どんな見かたをしているかを、特に若い科學技術者に聞いてもらいたいのである。
同時に、他の社會問題研究家にも參考となるなら、もつけの幸である。次にチャーチスト運動の囘顧はフェビアン協會例會での談話のノートである。日本の社會主義運動家の反省を求むる切々の情をこめて話したものであるが、このノートにはあからさまに書き表わしていない。讃者の明察を望むものである。

昭和二十二年十二月 八木秀次


科學技術者とフェビアニズム

1 科學者は原子爆彈を實現したが、それが世界人類に及ぼす威力のあまりにも大きいのを見て、茫然として自分らの今後に對する進退去就に迷うありさまである。
科學の進歩が戰爭の慘禍をいよいよ大きくするものであり、人間の不幸を増大するものであるとすれば、科學研究は果して文化活動といえるだろうか。科學者の良心はその研究精進をゆるすであろうか。
この問題は自然科學の領域内だけで解決できるものではない。人文科學、特に社會科學の課題として速かに檢討せらるべき問題である。
科學技術者にとつて、今一つ右に類する平和時代の問題がある。戰爭のことはさておき、平時において科舉技衛の發達がはたして社曾全體を幸福にしているだろうかという疑問である。
機械の發明によつて、産業革命によつて、世界の勞働階級が悲境に落ち入つたのは、すでに一世紀前からのことである。現在も、將來も、科學技術の發逹が必ず社會の福祉を増進すると保證できるだろうか。
このこともまた、自然科學とその應用學術の領域だけで、始末できる問題ではない。社曾科學の眞劍な研究と、その結果の強力な應用實踐によらなければ解決できないことである。そうでなければ、科學技術は社會惡の凶器となることを、どうすることもできないかも知れぬ。
社曾科學とその應用にたづさわる者が、自然科學とその應用の發揮し得る威力について理解をもつことが肝要であるように、科學技術の徒もまた、社會科學の教えるところを理解し、自然科學の應用と社會科學の應用とが、緊密に綜合されて實社會に実践されるのでなければ、人間社会は向上進歩する代りに、かえつて悪魔の社會に堕落する倶れがあるのである。

2 資本主義の世界はついに行きつまつて、その結果、狹く限られた地球表面を戦争の場とするよりほかに進展の途のなくなつたことを證明した。この事實に目ざめた世界は、社會主義構成によるほかないことを知つて急速度にその方向に進みつつある。
今フェビアンの立場から科學技術者の在りかたを語るには、まづフェビアンの立場をのべる必要があると思う。
社會主義も時と所とによつていろいろの段階がありいろいろの形態をとることもちうんのことである。試みに英國社會主義の中から三つの時期を代表する三つのグループを擧けると、フェビアンのありかがほぼ明かとなる。
一、オウヱナイト百二三十年前頃、ロバート・オウヱンらは政府や國家を全く當てにしないで新しい協同社會建設を立案した。當時の政府は獨裁的の寡頭貴族政府であつた。勞働階級はまだ組織されていなかつたから、大衆指導者が出てこれを指揮して新社會を作るという行き方よりほか方法がなかつたと考えねばなるまい。オウヱンはその指導を志したのであるが、その協同社會の机上案はまんまと失敗してしまつた。

二、マルキスト百年前このかた、カール・マルクスらの行き方は理論的であの且つ革命的であつた。いうところの革命の後に形成されるであらうところの社會の姿が如何にあろうかを、差しあたり考えるまでもなく、とにかく現状打破のために革命を起し、勞働階級が政治力を握るべきことを主張した。勞働階級は漸次組織されてきた時代であるから、その團結によつて鬪爭せよと示唆した。これに對して政府も昔の抑壓政治からようやく覚醒しつつあつた。

三、フェビアン五六十年このかた、シドニー・ウェッブらは、當時政府もすでに民主化されて、もはや革命の手段による必要はないと認め、この上はその民主社會におけるあらゆる社會惡を檢討して、その是正のために社會主義を採用すべし、とする主張であつた。從つて議會尊重主義であり、祉會の各分野に民生化を徹底すべしと論じた。のために社會主義を採用すべし、とする主張であつた。從つて議會尊重主義であり、祉會の各分野に民生化を徹底すべしと論じた。

3 フェビアン協會はシドニー・ウェッブ一派の人々がリーダーであつたから、この團體が破壞と革命とを採らず、議曾中心主義を認めたのは當然で、そこにオゥヱナイトやマルキストとの相違がある。殊に國家の中にみづから異を立てて別國を作るような熊度をとらなかつた點は甚だ穩和であつた。社會の一遇に立てこもつて他を糾彈罵倒するよりも、むしろ社會そのものの中に溶け込みつつこれを改善する態度に出たことは、他の社會主義運動にくらべてめづらしいことであり、生まぬるくも思われ、齒がゆくも感じられたことである。フェビアンの會名が漸進主義、着實主義を意味するのはシドニー・ウェッブらの主張傾向に合致するものである。
フェビアン協會六十年の歴史において、その前期というべき二十年間は明かに右の性格と方針とを維持した。その後、協會は煮え切らぬ堅實主義から脱してみづから政黨となれと論ずる人もあり、それかあらぬか後に勞働黨結成に當つては有力な役割をつとめた。
後期に入つて會員は或はサンヂカリズムを研究し、ある時は『今の勞働黨の如きは到底大をなす見込がない』と見かぎる論者も出て、ギルド・ソシアリズムを稱えなどした。
最近數年間のフェビアン協會については、われわれはまだ詳しく聞くところがない。英國では今日勞慟黨内閣ができて、盛に社會主義政策を實行しつつある。これに對して英國フェビアン協會が現にどのような性格をもちどんな活動をして居るかは、興味ある問題である。

4 日本が今おかれている状態はどうかといえば、敗戰の結果、民主政府、民主國會、民主社會の根本はすでに定まつたから、オウヱン時代のように別個の新社會建設を考える必要はない。マルクス時代のように革命を要望する時代でもなくなつた。
財閥解體、農地改革、獨占禁止、等々、平時ならば、數十年を費してもなお實現しなかつたであろうような改革が行われている。資本主義の修正は着々進行している。社會主義へ移行の見通しは一段と明瞭になつた。打破鬪爭よりは建設によつて現状を改めることが可能となつて來た。即ちウェツブ時代、フェビアン時代に相當するのが今の日本の境遇であると思われる。
私は急進社會主義に屬せず、右にのべた前期フェビアンの立場において日本フェビアン協會の一員であるから、いまこの立場から、科學技術者がよりよき社會の建設に封してどんな關係にあるべきかを語りたいのである。それがこの小篇の取扱わんとする問題である。
ここに對象とする科學技術者を分類すると左記のようになる。
 一、生産會社の工場、研究所に働く技師、技手
 二、官公廳につとめる技師、技手
 三、大學、專門學校につとめる學者、教員
 四、獨立企業を經營する科學技術者

5 科學技術者の大多數は(例外を除いて)各自の專門をもつところの、いわゆる玄人として世に立ち、一般常識の涵養には比較的關心薄く、宗教、哲學、政治、經濟の問題に暗いものが多い。勞働問題の意義や社會問題のいわれを解すること淺く、ようやく敗戰後の世論と昨年來の勞働爭議に卷きこまれることによつて、いささか理解するところがあつたとしても、進んで社會組織の根本問題を考えるものは稀である。多くは生活難からの増俸要求に共感するというだけで、内心にはむしろ他日資本家の片はしとなる希望を棄てず(何とはかない希望であろう)、みづから資本家の手足を以て許し、またはその代辯者の、もちをもつているのである。科學技術者の大部分は性質善良で、專門學術を深く愛し、その仕事を樂しんでいる。國家主義の教育を受けたから國家觀念は強い。そして自から社會の指導階級を以て任じているが、その國家意識たるや、資本主義と一體化したものである。だから例えば常に國際競爭を念頭におき、工業でも農業でも國際市場において資本帝國主義的に闘うことばかり考え、今後の日本産業がこの競爭に勝てないだろうことを憂慮している。

6 私は日本の科學技術者が一人殘らずこの通りだというのではない。多數の者の心情がこうだというのである。このように思想的に狹い人が急に社會意識に目ざめたとき現わす一つの特徴がある。自分の覺醒に感激して、同輩連中の中に一畫に立てこもつて他の者らを見下し糾彈することに興味をもち、理解の足りない仲間を説得し感化する努力を避けて、好んで敵として取扱うことに熱中する。
これは日本人の性癖であるかも知れない。昔、源氏平氏のどちらかに追從したように、敵味方の對立を好み、自分を英雄にして人に號令することを好むが、他人が英雄となりスターとなることを強く猜み嫌うのである。
もちろん科學技術者には比較的頭腦の明敏なものが多いから、覺醒したものが全部この弊におち入るというわけではない。ただ極端から極端に走る實例が多々あるというのである。これらの入々は必ずしも意志薄弱の追隨者ばかりではない。意志はむしろ相當堅くかつ彊いが思慮單純でゆとりがないのである。

7 科學技術者は一般勞働者にくらべると、たしかに多くの自由を享受している。収入もかなり高いものがある。中には會社重役に列し叉は小資本家として利潤を取るものもある。專門技能をもつから地位はかなり安全である。教育もある、修養の餘裕もある。しかし、ひるがえつて考えるとき、ずいぶん自由を失つているとも言えるのである。朝の一定時から夕の一定時まで身を縛られての勤務という點は、いま問題外とするも、一般勞働者が組合の力によつて自己を守るにくらべて、科學技術者は團結の力に依ることが弱いのである。勞働組合に加盟し勞働協約が結ばれていても、科學技術者を馘ることは容易である。
こう言うと、前に地位が安全だといつたことと矛盾するようであるが、なまなか教養があるとか指導階級であるとかの自尊心をもつ故に、自發的辭職の形式をとらせることがたやすいのである。同輩はその一人が馘られるのを見でこれを救うことをしない。

8 自己の信ずる所を率直に發表し得ない人間が多い。世渡りの術として.上司の機嫌を損じないこと、資本家、經營者に逆らわないことを信條とするがため、心に思うことを言い得ない。それがすでに習性となつて、自身は明かに意識しないでも、要するに資本に從屬する者であり、自分もそれで滿足し、時に得意でもあるようである。
ひそかに自分がその槿力を握る日を夢想するばかりで、(それがはかない夢であることは前にのべた)他方に一般勞働階級の存在をすら全く知らず認めない風である。
彼らの中にも少數の良心的に彊い性格の持主があつて、多數の勞働階級の存在と現状打破の必要に目ざめるものはある。それは醫師の中には社會下層の實状を見て社會改造の熱情をもつものができるように、教師の中には教育の不公平を認めて義憤を感ずるものが出るように、科學技術者にも決してその人が無くはない。しかし多くの科學技術者が自己を上位の者と自惚れて(收入は必ずしも上位ではないが)一般勞働者を見下げ、殊に勞働者の中に相當能力劣弱者のあることを直接承知しているところから、その缺點ばかりが目について、あるいは勞働階級解放を絶望視したり、その要求を不當覗して、義憤も勇氣も失つてしまうのである。
組織されない個人としての科學技術者が、少數の有力資本家に忠勤をつくし、その信任を得て一身の利益をうけることは、容易の道であり安全の道でもあるから、安きに就くのが人情の常とも言えるであろう。

9 科學技術者と類似の境地にある者にいわゆる事務家がある。事業經營の能力をもち、法律知識、經濟知識をもち、人を使う能力をもつもの、支配人、課長などから、現場監督、工場長、組長に至るまでそれである。この階層と科學技術者とを一括してインテリ層というべき頭腦勞働者である。官公廳に働く多數の官吏公吏もみなそれである。
ところが科學技術者と事務家とは一致せずしばしば對立する。これは特に日本で著しいことであるが、事務家は技術家をおさえて、自分こそ資本家代表だという態度をとる。法科萬能という言葉がある通り、民間企業において然り、官公廳では特に甚しいものである。科學技術者は物品のごとく機械のごとく取扱われ、人間として認められない。しかも事務家たるインテリ勞働者も、愚かにも他日資本家の一人となることを夢みて、資本家の手足となることを光榮としているのである。青白きインテリ、サラリーメンというのはこの部類をさすのである。

10 そこで時として技術家の間に、自から政治的進出の必要を考えるものが出る。
民間でも官界でも科學技術者がもつと權力をもたねばならぬと論じて、自分の專門職場を飛び出すものができる。多くの科學技術家がこの種の特志者を支持し應援するかというと決してそうではない。技術界はこの種の人物を嫌惡して、自分らの階層の代表者、代辯者を世に送ることを好まないのである。同輩からスターが出て舞臺に立つことを忌む心理が働くのである。彼は邪道に進んだといつて爪はじきする。そして口に法科萬能を嘆じ、社會の科學輕視を悲みながら、これをどうすることもしないのである。そして自分は道徳家らしく紳士道を歩むつもりでいる。
かくして工場も設計室も研究室も滔々として利潤追及の資本主義を呼吸しているのである。
科學技術者は自分らの勢力伸張のために團結することもあまり好まないようである。專門の特殊技能をもつ連中であるから、もしも團結したならかなり有力なものとなることが推量されるけれども、一般に各人の利害を賭けてまで精神的に結ばれることはない。
その心事を強いて言つてみるなら、協力によつて共同的に地位を強めるよりは、同業者、儕輩の中から脱落者を出す方が自己の安全と榮逹のために手つとり早いと考えるのである。それこそ資本主義に溢ける自由經濟、自由競爭の思想に合致し、インテリの個人自由の主義に共通するところである。
それ故にこそ、この階層に屬する者を馘ることは極めて容易であり、しかも互助の氣風が乏しいから求職は容易でないのである。

11 科學技術者の大部分はサラリーメン即ち俸給生活者であり被傭者である。独立企業を營むものは小部分であるが、これら小事業主についても一言しなければならぬ。
彼らはサラリーメンに比べると、たしかに自主的であり勇敢であり、冒險心もあれば獨立心もあり自由でもある。中小事業の業主として、人間としての生き甲斐を彊く感じているはずである。
しかしこれを裏面から見るとどうであろう。日夜經營の危險におびやかされ、自己の微力を嘆じ、事業安全のためにはあらゆる變動を恐れて保守的となり強慾となり、少數の使用人を酷使するようになる。所詮、大資本の企業には勝てないとあきらめ、大企業に從屬して利潤をあげることのみ願ふ卑屈の精神に取りつかれてしまうのである。

12 科學技術者は官界民間いづれにあるを問わず、使用者と勞働者との中間に立つものである。そしていわゆる上意下逹の任務と下意上達のはたらきとをする地位にある。實際は多く使用者側に立ち使用者の利益を重覗する境遇にあり、使用者の代表として下にのぞむことが多い。そのために下からは信頼されず、幾分疑念をもつて警戒されることとなる。
この中間層に立つ科學技術者が今後如何なる熊度をとるべきかが當面の問題である。
英國では多年に亙る勞働運動の歴史を通じて頭腦勞働者は組合から除外されていた。勞働黨結成の頃から筋肉勞働と頭腦勞働とを差別せず一括包容することとなつたのは一大進歩であると思う。生産の要素は、物-それは工場、鑛山、土地、家屋、機械設備、運送設備・資材等-と筋肉勞働と頭脳勞働との三者から成ると考えねばならぬ。古い経済學は物と勞働とを認めたが、科學技術のような頭腦力の所産を重要と考えなかつたのは誤りである。われわれは勞働者を廣義に解して、これを不勞所得者と區別するものである。

13 試みに勞働組合による生産管理または生産經營の場合を考えて見るがよい。管理經營の有效適切な運營には支配人の能力も技師の能力も缺くことはできない。科學技術は生産能率の向上と品質の
向上とに貢献し、勞働の勞苦と危險とを輕減することに役立つべきである。
然るに生産管理をやると聞くとき、頭腦勞働者が、それは自分たちを排除して、專門能力のないものが取つて代ろうとするものと速斷して、その成功を危ぶみ反封することがある。
それには勞慟組合側の無理解と淺慮とが目に付くことも一原因である。生産管理には專門能力を充分利用することの必要を明かに理解することが肝要である。
科學技術者の側では、自ら支配階級を以て任ずることを愼しみ一般勞働者と協力しなければなるまいと考える。同時に一般勞働者においても、頭腦勞働者を強いて支配階級に押しつけてこれを敵視することを差し控える寛容がなければならぬと思う。」

14 わが國の勞働運動では英國の例にならつてインテリ層を包括する傾向にあるが、たとえばある官廰勞働組合の場合に課長を組合に入れるべきかが問題になつた。それが深刻な問題となる理由は、實際問題としてインテリ層と筋肉勞働層とを一括したために内部的混亂を起し、ひいては勞働運動そのものを不純ならしめたような苦がい經驗をもつからである。ここにわが國頭腦勞働階級の思想の未熟と反動性とが現われているのである。
如何なる仕事についても、優れた者のリーダーシップは重要であり、優れた者はよろしくその人格と能力の徳によつて重要任務の地位にあるべきであつて、資本家の忠僕たるの故をもつてその地位にあるべきではない。
科學技術のような重要な仕事のできる頭腦勞働者は、他からの塵迫によつたり單に勢の赴むくままに勞働組合に引込まれるような消極的な態度でなく、自發的に組織して合流するだけの自主性をもつべきである。
一般勞働者の缺點の一つとして憂えられ、特にインテリ層が遺憾とするところが教養の不足という點である以上、教養あり技能ある者が、彼らに合流協力することこそ必要で、健全社會の建設に多大の貢献をなすべきことを深く考えなければならぬのである。

15 大正年間に工政會、農政會などいふ團體があつた。その工政會は工業立國を表看板としたが、法科萬能に對抗して技術者の地位向上をねらつたところから、技術家の水平運動と評されて反對を受けた。會の重要役員には年長の温情主義論者などあつて、勞慟階級の地位向上要求に反對し、若い技術家中にも、資本家に忠實に働いて居れば技術家の地位は向上し安定するというような説を臆面もなく雜誌上に發表する者さえあつて、會は何ほどの成果も收めずに解體した。
日本技術協會なるものが生まれたが、戦争の影響もあつて徒らに掛け聲をかける團體に終つた。終戰前これらの團體が併合されて大日本技術會ができ、終戰後科學技術運盟となつて、有るか無きかの月日を逡つている。

16 昨年(昭和二十一年)有志のものが科學技術政策同志會なる政治結社を作つたので、私もこれに參加したが、私は創立者たちと甚しく氣分を異にしていることを發見したので會を脱退した。
わが國で筋肉勞勤者による勞働組合は、故鈴木文治氏や現衆議院議長松岡駒吉氏などの盡力で成長したが、科學技術者というインテリ勞働者の大同団結を求める聲が、終戰後地方青年科學技術者の間に起つていることを承知して居たから、私はこの青年科學蔡者の組合的團體を結成することを有意義と考え、同志會がこの線に沿うて大きくなることを希望したのである。
然し政策同志會の創立者や幹部諸氏は技術界の名士たちであつて、技術界でも青年技術者よりは一段も二段もすぐれた特權階級を以て任ずる人々であつた。青年と伍することに心が進まない。會員は少數の選良のみに限りたいと言つて、保守政黨的思想が強く支配し、勞働組合に協力するなど思いもよらぬ風であつた。
會員は個入的權勢が獲られるという期待のかけられる事業ならば熱意を傾けたであろうが、社會改造の如き問題には容易に活動できない人たちであることが明瞭となつたのである。

17 科學技術者の間には昔から各種の專門的學會や協會がある。機械學會、電氣學會、工業化學會、建築協會、造船協會というような團體で、その數三百に上るであろう。みな専門學術振興のための會であつて政治的意鬮をもたない。技術家出身で、あれば會社の社長も資本家も會員である。戰時中にこれら三百の學會協會を連絡する全日本科學技術團體聯合會(略して全科技聯という)なるものができて、今も存續しているが甚だ微力である。
もしもこれらの學會、協會、聯合會のごとき團體が勞働組合の性格を帶びることがあつたら、祉會運動に一つの新生面が開けるわけであるけれども、それは望むベくもないことらしい。
それで私たちは別に科學技術政策同志會を政治結社として發足した次第であるが、前述の事情で會はついに解散するに至つた。他方青年技術者たちは、それぞれの職場の關係で勞働組合に加盟し、既に昨年來の爭議にも關係している。將來科學技術者という社會進化に重大な役割を果すべき人々の階層が、資本と勞働との間に挾まれてどんな動きかたをするかは豫測できない状況である。

18 經濟復興會議その他の復興會議に對して、科學技術者團體はどのように關與しているか。民主日本の經濟再建に對しては、科學技術こそ最も重要な役割を果すべきではないか。これが歐米諸國であつたなら、戰爭遂行に科學技術を高度に利用したと同樣に、經濟復興、平和.建設にも深く科學技術力の重要性を認識して、まづ第一にこれを活用したにちがいない。
わが國では社會もその協力を求めず、科學技術界もまた氣の拔けた態度で、進んで何の寄與もしようと努めない。專門的研究實力の不足も一因であろう、熱情の缺如も一因であろう。しかしながら、組織されざる科學技術者の個人主義、自由主義の氣風と、社會問題に對する無理解とがこのような状態にあらしめるのだと思う。少數の科學技術者は急進社會主義に走つたようである。多數のインテリ科學技術者としては、穩健のフェビアン社會主義を理解することはさして困難だろうと考えられないのであるが、機縁というものがなければ、彼らが長く無縁の階級として殘り、單に社會の進運を妨げるような存在として留まるかも知れないのである。そこにフェビアンの教育的任務がある。

(昭和二二、一〇)

チャーチスト運動の教訓

1 百年以上も前の古い話をもち出すことは意義がないと思われそうだが、終戰後の事態を見でいると、英國で一世紀前に經驗したことがまだ教訓の效果を示さず、當時と同じような失敗をくりかえしていると感じられる。たから當時の經過を省みて示唆を得るのも無益でないと考える。
三十年ほども績いたチャーチスト(Chartist)運動時代は現代とあまりにかけ離れている。そしてこの運動が衰微してから世界の無産者解放運動も社會改造論も長足の進歩を遂げたにかかわらず、今日なおこの囘顧を必要とするのは情けないことである。
チャーチスト運動の死滅後は、階級戰が中絶して一時は産業外交交渉の時代となつたが、マルキシズムやサンヂカリズムが現われて問題が國際的となつた。昔は勞働組合運動が政治運動を忌み嫌つたのに、今では政治運動でない勞働運動は無意味だという説も出ている。然るに今となつて私がこんな古い話を持出すのを前述の理由によつてゆるして貰いたい。

2 チャーチズムの名が使われたのは、入民憲章の請願が議會へ出された一八三八年以後らしいが、この運動は一八二五年から一八五五年まで三十年間つづいたと考えねばならぬ、即ち
一八二五-一八三〇年は潜伏期
一八三一-一八三四年は理論彊調期
一八三七-一八四二年は實踐運動期
一八四九-一八五五年は蓑退期
となる。
初期には統一した理論もなく、取締り法令のために全國的團結もできず、土地共有ばかりを目ざすもの、勞組を主とするもの、政權獲得を主眼とするものなど區々で、ただ民主主義、議會主義を奉ずる點だけはほぼ一致していた。但、その間にも一八三二-一八四四年の間だけはサンヂカリズム的になつていた。
とにかく一八二五年以後、産業革命とそれに伴う勞慟者の覺醒とによつて勞働階級が自分らの力で上流中流階層を支持していると考えはじめた。第一前期の特徴は勞働階級が中間階級と協力したことである。勿論ベンバウのゼネストの考やオゥヱンの反議會の考もあつたが、一八三二年の議會改造法案通過の目酌で中間階級と協力した。それにもかかわらず無産階級はすつかり失望させられ、急激にサンヂカリズム的となり、直接行動に熱中した。この中間階級との絶縁がチャーチスト運動の第二前期てある。
その頃になつて社會進化の説や階級鬪爭の理論が漸く整つてきて、後年のマルキシズムの先驅をなしたことは注目すべきである。
一八三四年に直接行動で敗北した結果、社會改造と勞働運動と議會主義とが合流してチャーチズムの實踐運動が軌道に乘つた。その指導原理は
勞働階級が他階級と利益相反すること、
その解放には社会主義革命のほかないこと、
それには政治力を獲なければならぬこと、
以上の三點であつた。これが一八三七年以降のチャーチズムの思想であり、それが歐洲大陸に傳わつて十年後マルクス、エングルスの論となつたものである。
チャーチスト運動そのものは結局慘憺たる失敗に終つた。その原因は、全國團結不能のため秘密行動を要して多くの犧牲者を出したことと、勞働者がまだ組織されず、よく教育されて居なかつたから、運動は發言者だけが表に立つものとなり、パイオニヤー.ムーヴメントとなつて、リーダーの人間的弱點が著しく現われ、派閥的となつて甚しく力を弱めたことである。
この點は大正時代のわが國の事情をかえりみ、また最近ニケ年の様子を見て強く反省させられるところである。
チャーチスト時代の單純さを示す一つは、自然法則という考を強く抱いたことで、殆んどどのリーダーもこれを口にし、人間天賦の權利を主張すると共に、この権利を蹂躊した少數支配者の惡政が人間を不幸にしたのだから、これを排除するに暴力を用いるのは當然だという結論そのものも、また自然法則の教える所だと言つた。當時の理論はその後漸々改善され進歩した。

3 以下チャーチスト運勦の失敗の面を年を追つて囘顧し、われらの教訓となりそうな點を拾つてみることにしようと思う。
最初から裏切の者排撃(トレーター・ハンチング)が行われた。ソビエット・ロシヤの成立後にも肅清運動には深刻なものがあつたように主義思想に忠實なものが小異をゆるしがたしとする。僅かの異見を抱く者もこれを敵だとしてしまう。同じ陣營内での爭に熱中して仲間割れをくりかえす。小異をすて大同團結して大きい目的に向うことをしない。このことが祉會改造を暹れさせたことは甚しいものである。
次に最初から運動方策について意見が分裂した。即ち手段としてPhysical Force PolicyとMoral Force Policyと二説に分れた。Feargus O'ConnorとWilliam Lovettがこの對立する二派の代表者であつた。腕力派はプロレタリアの大多數が支持して感情が主となつた。言論派は少數の知識層であつて、理性、教育、論得を主とした。人間が本來享有した權利を少數者に奪われたからそれを取返すのだと考えると現状破壊は必須のことで、それは聖戰だということになる。新たな權利を得たいという場合は、今まで他人の握つた權利をこちらへ讓れということになるから、理論、研究、説得が必要だと考えることになる。もちろん數においては腕力派が圧倒的であつて、O'Connor, Taylor, Stephens, Lowery これに属し、理論派は Lovett, Hetherington, Vincent, Watson などがこれに屬した。その他にアイルランド問題を主とする人、勞働組合を輕靦する人 などいろいろの種類があつた。
一八三七年、選舉あり、議曾制度改革請願案を起草することを定めたが、その後一年以上もかかつている。起案は勞働階級にとつてむづかしい仕事で、案はロヴェットの筆になるものであつた。一八三八年、五月八日 People's Charter が出來上り、五月十四日 National Petition として議會に提出された。他方院外での議論はその通過を求めるため武裝することの要否がはげしく論爭された。
オーコンナーは北部地方で集會し、激越の言葉で腕力説を稱えて煽動した。請願についての示威訓練が至る所で流行した。
その間ロバート・オゥヱンはチャーチズムに反對であつた。それは彼が反議會主義だつたからである。
かくして常に理論派と實踐派という風に對立し、互に助け合えばいいのに常に反目相剋したものである。
一八三九年、請願の探擇を外部から助けるための方策についてロンドンで長期のゼネラル・コンヴェンションを開いたが、有力リーダーの間に意見の不一致が甚しく、反亂を可とするものと反對のものとが爭つた。
問題は講願が通過しなかつたときの所置であつた。そのとき最後の手段としてどんな方法をとるかの問題である。ゼネ・スト(Sacred Month)の外なしとすれば、そのためには武裝の必要があるという議論である。
六月十四日、講願が上程された、それには百二十五萬人の署名がついてあつた。七月一日、バーミンガム大會が開かれ大に気勢を上げた。政府は軍隊と警察とをもつて嚴しく警戒した。(Lord John Russell, Sir Charles Napier 指揮に當る。)
七月十二日、表決の結果二三六對四六の少數で請願は不採擇となり、議員アトウツドは悲痛な聲明を出して引退するに至つた。
七月十三目、ゼネラル・ストライキ案が提案されたが、勞働組合は不賛成であつた。
十一月三日、ウェールズで反亂が起つた。檢束されていたヴィンセントなどの同志奪還のためと稱してニューポートを襲つた。民衆は軍隊の警備していることを知らず、慘事の起ることが豫想されたにかかわらず、これを使嗾したオーコンナーは防止にも力めず無責任に去つてしまつた。
この反亂は悲劇に終り、その後はナショナル・チャーター協會ができて、出版物による論爭だけをつづけた。一八四一年、この年選擧あり、前年から檢束されていた者の釋放講願を出すこととなつた。
五月二十七日、提出されたこの請願に對して、政府側もホィッグ(自由黨)も賛成したのにトーリー(保守黨)は反對した。
然るに選學に臨んでは、勞慟層は自由黨を排斥して保守黨に投票している。即ち彼らは中間層に對して強い反感をもち、オーコンナーやオブラィエンなども自由黨を憎んでいた。これは一見ふしぎなことであるが、日本でも類似のことは絶無ではない。東洋で昔から遠交近攻ということばもあつて、敵と結んで同志を討つことが今も絶えない。一般に社會革命は保守を嫌うよりも自由を嫌う風があると説く人さえある。
勤勞大衆はチャーチストに投票せず、チャーチスト運動と政治とは別の事だと考えたのである。これも奇妙なことである。
一八四二年、大不景氣襲來し、中聞贋もまた改革を希望した。この改革論者はラヂカルと呼ばれ、コブデン、ブライトなどをも含んでいた。そこで普選聯盟ともいうべきコムプリート・サッフレーヂ・ユニオン(NCSU)が組織された。
オーコンナーはロヴェット、オブライエンを敵視し、ラヂカルを攻撃した。しかもオーコンナーはロンドンで開かれたNCSU會議に出席してロヴェットに花をもたせる挨拶を述べているが、ロヴェットは彼を信用しなかつた。
五月二日、第二囘チャーチスト請願を三百三十一萬人の器名で議會に運び込んたが、二八七對四九の少數で否決されてしまつた。この二度目の慘敗にも拘わらず、オーコンナーは豪敵じている。われに四百八十萬の味方あり、と自慰的に放言した。『これは階級鬪爭リーダーの陥りやすい有害の悪習で、味方に比して敵の如何に優勢であるかを省みない敗軍の將の言葉である』とM.ペーアは批評している。日本人にも耳の痛い言葉である。
この年、七月-八月選擧あり、大不景氣のためストライキが頻發した。勞働組合も一致協力したが、悲慘な事件が多かつた。そこで賃銀問題は一轉してチャーター要求へと變つて行つた。
暴力使用可否の論爭はげしく、オーコンナー派は優勢であつたが、その結果多數の被檢束者を出して指導者の力量の終末を早めてしまつた。この場合オーコンナー自身は急に態度を軟化して、大衆を説得せずして去つた。彼のこの進退は不可解のものとされている。
この後、チャーチスト連中の間では、ただ猛烈な悪罵の應酬ばかり續いて、チャーチズムは死滅期に逹した。
一八四三年九月、バーミンガム會議開かれ、オーコンナーが案を提出した。その案はチャーチズムを農業改革と併せ進めようという案であつた。彼は農業改革の實踐として、Chartist Coop Land Co.(後にNational Coop Land Co. National Land Co.)を作つたが、經營は不まじめであつた。
一八四八年、財政不始末を調査され、不正を曝露されて全く信用を失つた。
四月一日、彼は宣言を發表して、四月十日、議會へ請願を提出し、五百七十萬人の署名があると呼號して堂々搬入したが、委員がこれを調べると、署名は二百萬に足らず、同一筆蹟が多く、でたらめの名が多いと發表されて、喜劇に終つた。オーコンナーは二年間精紳病院にあつて一八五五年死去した。

4 以上、チャーチスト運動の最有力指導者で、最大多數の勤勞大衆から英雄と仰がれた Feargus O'Connor 個人の失敗を主として指摘した形となつたが、彼の雄辯もさることながら、その熱烈の意氣が大衆の渇仰するものであつたらしい。然しながら強大な資本主義體制と戰うつもりなら、冷靜沈着、緻密執拗などこそ必要素質であろう。いわゆる玉碎流の行き方は勞多くして效少きものとなり易い。この言葉は日本人の耳に快くないもので、直ぐに反動呼わりされる惧れがある。フェビアニズムはいつまでも日本人に理解され難いものだろうか。

(昭和二二、一二、九)

日本フェビアン協會創立主旨

日本フェピアン協會を作ると云ふから「至極尤だ、賛成する」と云ふ人が多いと思ふ。然し創立の主旨を念の爲一言する。
今、日本は改革を要する。それだのに、思想の混亂に基く勞働蓮勳の行き過ぎ、政治家の戸惑ひ、企業家の反動、そして柔順な大多數の國民が氣の毒な程無氣力な樣子であること等をながめて、我々同志は無駄のない、そして止まざる漸進的社會改革を一歩一歩と進めて行かねばならないことを痛感する。それには理づめな意見の交換をなしつつ思想建設をしたいと考へる。さて我々は目標を民主的であり、社會的であり、且つ世界的である協同社會におく。この目標に向つて我が國再建の歩を進める爲に、我々は黨派に關係なく、捨つべきは捨て採るべきは採らねばならぬ。
「冷靜に、理づめに、一歩一歩」と建設を進めるところに「フェビアン」の特徴がある。
ここに本會の活動を始めるに當り、現在我が國の各方面の情勢に鑑み、左記三項目を活動の墓準とする。
(一)議會政治の完成
(二)經濟民主化の徹底
(三)文化と生活の向上
六十三年前英國にフェビアン協會の出來た時には、ウェップ夫妻、ショウ、ウェルズ等はいづれも二十代の青年であつた。今日我が國で六十代七十代の老年が發起入となつて、此の運動を起すのは本當におかしい。けれども必ず我等に代って運動してくれる青年の參加があることを信じて居る。老年も青年も男も女も同志の人は來つて協會に參加せられよ。

昭和二十二年一月一日

日本フヱビアン協會規約(拔萃)


一、本會の名稱は日本フェビアン協會である。
ニ、本會の目的は漸進的社會改革の原理及政策の研究及普及を行ふことである。
三、本會は前項の目的を逹成する爲に、左記の事業を行ふ。
 (一)研究、調査及飜譯
 (二)出版、會報及トラクト(叢書)の發行
 (三)講演會、講習會、展覽會
 (四)演習(研究指導)
 (五)其他本會の目的逹成に必要なる仕事
四、本會の趣旨に賛成する者を以て會員とする。
五、新たに會員にならうとする人人は本會會員の推薦に依り入會を甲込むこと。そして理事會は入會の認否をきめる。
六、支部は理事會の決議によりて設置する。