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『技術人夜話』

八木秀次 河出書房 1953年

 人に雷同しないで自由にものを考えると強いてつむじ曲りをいうわけでなくても、しばしば、世間一般と違ったことをいう。そこでお前はとかく異説をとなえるといわれることになる。ところが、その異説が、めずらしいためか、あるいは自由人の気に入るのかわからないが、新聞や雑誌から、しきりに頼まれて困る。
 しかし、読者に満足をあたえるものが、書けそうにないので多くはことわるが、それでもここ数年間にやむなく発表したものが、かなりの量になった。
 たまたま、河出書房から、ぜひまとめてほしいとの依頼もあり、ここにその主なものを集めて若干書き加えてみた。この小冊子に何か一貫したものがあるかといえば、ただ、自由に物想う一人の男の話すことだということであり、永らく大学で暮した一人の学究が語る夜話として何かを汲みとってもらいたいと願うだけである。

昭和二十七年十二月 八 木 秀 次

水素爆弾の不安

戦争と原爆について

 はじめに簡単に結論的見解をのべ、後に詳しく解説しようと思う。


灼熱戦の展望

 もしも次の戦争が起るとすれば、どういうことになるであらうか。将来の問題というものは、意見の相違があるのが当然であるが、現在の米ソ関係はいわゆるコ-ルド・ウォ-ア、すなわち、冷い戦争の段階である。それは周知のとおりである。いわゆる熱い戦争の段階がいつくるかは、前にもいったように私にもわからない。しかし私は、熱い戦争も二つに分けて見なければならないと思う。
 原子爆弾をつかって、原爆戦をやる、というのが本当の熱い戦争、それは灼熱の戦争であって原爆をつかわない戦争は、いわば温い戦争、ぬるい戦争といえると思う。この二つの様相は区別して考えるべきだ。
 現在仏印あたりでやり合っているが、これは小競り合いで、つまりぬるい戦争である。機関銃を使ったり大砲をうち合ったりする戦争--この温い戦争は、今後あちこちで、起るかもしれない。現に東南アジアでは、それが行われている。しかし、本当に灼熱の戦争には入り難いのではないかと思う。米ソ戦が一九五二年に起きるとか、三年になるだろうとかいう憶測をするものもあるが、私には、不明だというほかない。国民ひとりひとりの意見が尊重される民主主義国のアメリカとしては、容易に戦争に入るようなことはないであらう。「リメンバ-・パ-ルハ-バ-!」つまり、「眞珠湾を想い起せ!」と、いつまでも、アメリカ国民の心に灼きついているほどの、あれほどの事件があったからこそ、対日戦に挙国一致起ち上ったアメリカであって、温い戦争が、どこかで、起っているというぐらいなことでアメリカが戦争--灼熱の戦争に踏み入るとは思われない。が、私見をもってすれば、冷い乃至は温い戦争の段階においては、どうもソ連に有利に、事態が進行するのではないかと思われる。
 ところで灼熱の戦争になったときはどうかというと、この段階においては戦線という考え--フロントというものが違って来ると私は思う。つまり原爆戦の段階、米ソが原爆、水爆をぶっつけ合うという戦争においては、私の考えでは、日本が戦場になるとか、べルリン附近が戦場になるとは思えない。戦場は本国直接であって、北極圏を通って本国と本国とがうち合うということになろう。もちろん、灼熱の戦争の段階においても、私のいう温い戦争は同時に行われるはずであるから、そういう意味での戦場は、交戦国相互の戦略に応じて、いろいろのところに展開される可能性は十分にある。しかし、決定的な戦局は、その温い形の戦闘において左右されるようなことはないと見るべきである。
 いま、一番熱い戦争、灼熱の原爆戦になった場合、日本やべルリン附近は、直接戦場にならないだろうといったが、しかし、むろん、日本でも、戦局に決定的な影響をもつような戦略拠点があるというような場合には、そこに原子爆弾が投下される可能性はある。が、そういう条件のない日本--東京などに好んで貴重な原爆を落すような不経済なことはしないであろう。


水素爆弾の効能

 水素爆弾の問題であるが、その専門的、物理学的なことは後の機会にゆずるとして、結論をいえば 水素だけの爆弾は、今すぐ、私はできないと思う。現在において、いわゆる水素爆弾として可能なものを考えるとすれば、長崎で使われたようなプルトニウム原子爆弾を いわば芯にして その囲りを液体重水素の皮で包む、そういうものならできるだろう。
 が、このような水素爆弾にしても、実用、ということになると、いろいろ問題があるように思う。誰も知っているように、水素を液体の状態に保って持運ぶにはいろいろ困難があるもので、その異常に低い温度や圧力に対してその容器がまた大変で、鉄製のタンクにでもしなければいけないと思われるから、重量もひどく大変なものとなるだろう。したがって、これを運ぶ飛行機が容易ならぬものではないかと考える。広島で使った爆弾さえも、B29にとってはえらく荷の勝つものであった。水素爆弾となると、想像を超えるほどの巨大な馬力のものでなければ駄目だと思うが、それが出来るかどうか、今のところ私にもわからない。
 ところで、そのような水素爆弾の威力であるが、よく、それが原子爆弾の千倍の力があるといわれるけれども、それは私は信じない。こういう説が出るのは、ウラニウム(またはプルト二ウム)から原子が割れるときに巨大なエネルギ-を出す。ところが実験室では重水素がへリウムに変るときには、もっと大きいエネルギ-を出すということである。それで、水素は単なる原子爆弾よりも強力な爆発力を示現するという意味であろうが、爆弾として千倍の威力をもつものができるかは別間題である。むろん単なる原爆より水爆の方が強力であることは私も認めるが、その威力は、百倍とはないと思う。
 利用価値から考えても、そんな千倍ものものを使う必要はないと思う。それは戦術的に見てそう思うのである。私にいわせれば、百倍ものものさえ不経済だ。せいぜい三倍か、五倍の威力あるものであるならば、それは、たしかに、都市攻撃などには効果的であろう。だから、ウラニウム(またはプルトニウム)と水素を組合せた水素爆弾をつくるということは、考えられる。
 それから、水素爆弾の暴威は、地球を破壊するであろう、とかあるいは、地球の自転を遅らせるであろう、とかいう説があるが、私は、これには信をおいていない。周知のように地球の直接の外側、囲りは空気で、その外囲りは水素の層で包まれている。そこで、水素爆弾が爆発すれば、それが、その水素の層に作用を及ぼし、いわゆる連鎖反応によって、その層が恐るべき爆発を起してゆく。そこで地球が駄目になる、という推定が行われるのであるが、これは物理学の進歩し>か知らない人のいうことである。
 地球の外へきは水素の層には違いないが、それはごく稀薄なものである。水素の層というよりも、空気圏外に、稀薄な水素が拡がっている、といった方が正しいだろう。水素のへリウムへの転換は太陽面ほどの高温で、しかも水素が濃厚でなければならぬ。だから、上空で水素が爆発したり、連鎖反応を起すということは考えられない。
 地球の回転速度が遅くなるということも、理窟にあわない。論者は、水素の層が爆発して、水素がエネルギ-になると水素層の目方が変る、減る。その結果地球の自転が遅くなる、というのだが、それは間違っている。なるほど水素も、物質として、エネルギ-に変るが、その変ったエネルギ-自体が、その元の物質の慣性的性質を直ぐに失うわけではない。だから、地球と一緒に廻っている水素の層の一部が、仮りにエネルギ-に変ったとしても、地球の回転に影響を及ぼすほどのことはない。このことは後にくわしくのべよう。


科学は資源である

 日本は敗戦の結果国土がせまくなり、人間が多すぎる上に、天然資源が足りないのは困ったことだと誰れもがいっている。まことにそのとおりであって、アメリカのような資源の豊かな国にくらべると、日本は石油も鉄も石炭も多くない。羊毛も綿もゴムもなく、塩も足りない。天然資源といえば主に、地下資源、すなわち鉱物類である。日本に有るものは水力だが、それはまだ充分利用されていない。多すぎるのは人間、すなわち労力で、これを充分働かせることができないと失業ということになる。
 私たち科学にたずさわる者は日本に頭の力がたくさんあると信じておる。つまり科学や技術の力をうまく働かせると、値のないものが値のある資源になるからである。その例を次に述べてみよう。
 私が子供だったころには、アルミニウムはほとんど使われていなかった。地球にはアルミニウムが沢山あるが、それをうまく取り出すことを知らなかった。今はボーキサイトという赤土から取るが、学術が進めば、もっと他の粘土からも取れる時が来ると思う。
 日本には銅が相当あって、銅山から、いわゆる硫化銅を掘り出して精煉している。ところが硫化鉄という鉱石は沢山あるが、これから鉄を取ることはむつかしかったため、日本には鉄の鉱山がないといわれていた。鉄鉱石はもと支郡大陸からもって来たのであるが、今は遠くアメリカから運んでいる。ところがその無用といわれていた硫化鉄鉱を焼いて、亜硫酸ガスを出させ、それから大切な硫酸や硫安肥料を造るのであるから、硫化鉄鉱は貴いものとなってきた。そして亜硫酸ガスを造った残りの滓は鉄を含んでいるから、これから鉄を取ることができる。このように無用と思って捨ててあったものも、研究すればとても大切な資源になり得る。
 むかしから石油はランプに使っていたが、軽い石油すなわちガソリンは、ガソリンエンジンが発達してから、自動車飛行機などに無くてならぬものとなった。
 むかし電球の中には炭素のフィラメントを使って光らせていたのであるが、今日ではみなタングステンのフィラメントを使っている。タングステンは硬い金属で、それを少しばかり鉄に入れると強い鉄ができる。またタングステンのカーバイドはその硬い鉄さえも楽々削ることができる。
 むかしは全く使うことのなかつたモリブデンだの、ヴァナジウムだのいろいろ珍らしい金属が重要な働きをして、最近はチタニウムという金属が重要となってきた。日本には鉄鉱石は少ないが、海岸に砂鉄がある。それに目をつけて砂鉄から鉄を取ることを研究したものだが、砂鉄にはチタニウムという邪魔ものがあるために精練がむつかしいというので、砂鉄はあまり利用されなかった。ところが近頃になってチタニウムが大切なものとなったから、今度はチタニウムを取る目的から砂鉄を重要なものと考えるようになってきた。
 むかし着物を作る繊維は、絹、木綿、麻、羊毛など動物や植物から取ったものばかりであったが、その後発達した人絹やスフは人造繊維といい、その原料は木材であるからやはり植物から造るものである。アメリカでナイロンができて絹よりずっと強いため、絹糸の需要が減少した。ある人がナイロンの発明家カロサー博士に、いったいナイロンは何から造るのですかと尋ねたところ、カロサー氏は石炭と空気と水とが原料ですと答えたそうである。ナイロンの他にビ二ロンだのアミランだの、日本でもいろいろ新しい合成繊維ができてきた。これと同じ技術でいろいろの合成樹脂すなわち、プラスチックというものができて、今やプラスチック時代となってきた。空気の中には極めて微量のネオン、アルゴンなどのガスが含まれている。そのネオンガスを集めてネオンサインを作った。水の中に数千分の一だけ重い水というものが含まれている。この重い水を集めてそれを電気分解して重い水素を取ることができる。重い水素は水素爆弾をつくる原料だということであるが、多分重い水素は爆弾以外の人生に重要なものを作るに役立つことだろうと考えられる。
 わが国は生産を復興するためには天然の材料の外に、多量のエネルギーすなわち動力が必要である。それで何よりも石炭の増産につとめたわけだが、そのおかげで生産は大いに増した。石炭という物質を燃やして動力を取るのもよいが、日本には多量の雨が降ってそれが河に流れるのであるから、水力電気を起してこれを動力に使わねばならぬ。水力の他に地熱、すなわち温泉に出てくるような地球内部の熱や、風の力や潮流の力を利用し、あるいは潮の干満や浪の力を利用すべきだという考えもあるが、なんといっても動力の分量は山から流れる水力が第一である。以上述べたように、ある時代に無用であったものも、科学技術の研究が進めば非常に大切なものとなることがわかる。だから現在この国に資源が足りないといっても、学問を進め、人間の頭を働かせることによって、新しい資源を生み出すことができるのである。
 ある時代に、ダイヤモンドや金を熱心に探した時代がある。それから石炭を探し鉄を探し石油を探して、ガソリンの一滴は血の一滴などといったこともある。今はウラニウムラッシュといって、ウラニウム鉱石を探しまわっている。ある専門家たちは、コバルトがどこにあるか、セシウムがどこにあるか、ゲルマニウムがどこにあるかと熱心に探している。そんなものが何に必要であるかはここでは省略しておこう。


文明の原動力”技術”

 もうなくなられたが、物理学の先輩で寺田寅彦という先生は筆名を吉村冬彦といってたくさんの書きものを残しておられる。先生が災害ということについて書かれたものが、たしか岩波から出たと記憶しているが、その中には「災害は忘れたころに来る」ということが書いてあって、この言葉がたいへん世間のお気に入り、新聞や雑誌にしばしば引用されている。ところが私がいってよければ、この言葉はまったく科学的ではない。
 寺田先生は文学的な素質を十分に持っておられて、いわばこれは文学的表現であると思う。災害は忘れたころに来るというのは一つの格言、あるいは座右の銘といったもので、これは一種の独断である。私はよくこういういい方を一段論法といっているが、科学的に厳正に考えると、災害は忘れたころに来るとは限らない。このことは近年各位がよく経験されているように、一つの台風が来て、忘れないうちに次の台風が来る。「忘れたころ」というのは、科学的にどういうのかというと、これは非常にむつかしい。人間の記憶力をいろいろ研究して「忘れたころ」というのは、その災害の大きさがこれくらいなら、何ヵ年が忘れたころというのをちゃんと出して、その忘れたころに災害が来るということを証明しなければ科学としては成り立たない。科学者である寺田先生でさえも文学的表現としてはそういうふうにいわれると、これは多くの日本人の気に入るのであって、それほど日本人は科学的な国民でなく文学的な国民だと私は見ている。明治の先覚者福沢諭吉先生を、私ども明治に生れた者は第一人者として尊敬しているが、先生が明治維新以来の日本の行く道を示すうえに極めて独創的であったのは、ものの考え方が伝統にとらわれないで、合理的であったからである。ところで近頃ラジオでたしか「新しい道」という題だったかと思うが、何か薄気味悪い声を出して「天は人の上に人をつくらず:人の下に人をつくらず。福沢諭吉」ということをいっている、私はあれを聞くとあまり愉快でない、福沢先生に対する私の尊敬の念を何か多少割引くような感じを起す。というのは、自然科学者として地球の上に住んでいる人類を冷静に見ると、これは科学的態度だと思うが、人の上に人があって、人の下に人があるのが人間社会の実相である。これに対して福沢先生が「天は人の上に人をつくらず」といわれたのは人間としての願望というものである。人間が社会をつくって生きてゆくのに、人の上に人があり、人の下に人があるということはいけない、そういうことが動かせない状態では困るということから、われわれが一つの理想として考えることである。またお互いの間でそういうふうにやろうじゃないかという意味の教訓の言葉である。
 ところが戦後に民主々義ということが盛んに唱えられ、そのときには人間は平等であるということをいっている。多くの方は人間は平等なりという演題でよく講演される。ところが人間は平等であるか、この言葉は古くルソー以来世界中で繰返された言葉であるが、自然科学者として冷静に生物であり動物である人間というもののグループを見ていると、決して平等ではない。科学者としてただ見たところを卒直にいえば、人間はきわめて不平等である。体力にしても相撲取りになれる者もあればどんなうまいものを食ってもふとることのできない者もある。背の高いのも低いのもある。とにかく生れつきというものがあって人間は平等に生れていない。ことに精神の働きになると一メートルか二メートルぐらいの違いではない。天才があり鈍才があって、天才の頭の働きはわれわれの働きの何十倍、あるいは何百倍か計れぬほど優れており、とくにこのことは芸術方面においては著しく現われている。だから人間は不平等なりということになるが、それにもかかわらず人間は平等なりという演題で話をするわけは、われわれが社会をつくってゆく以上人間も平等として社会をつくろうではないかということなのでなる。これは自然ではなく人為であるかもしれない。人間がわざわざしたことが人間平等扱いだと思う。さらに高い立場から見ると人類という動物はお互いに考えて平等扱いしようという智恵を出す動物だ。これは自然現象だともいえないことはない。そういうふうに福沢先生の言葉でも、寺田先生の言葉でも、文部大臣の言葉でも、科学的という意味では必ずしも科学的ではない。しかし人生というものは科学だけではないのであっで、科学というものは人間の働きの一部である。
 ところが十一月三日は文化の日といって、日本は大いに文化国家になろうという。
  戦後わが国は今や文化国家であるから、こういうことがなければならぬという議論がよく出たが、私はそうは思わない。われわれは文化国家になろうというのである。終戦の八月十五日午後に、私は日本は完全に武装解除してこれからは文化国家として立ってゆくよりほかないのだという意見を出して、これは新聞に出た終戦後の第一声である。その文化国家という言葉が半年ほどたってからだんだんと世間のお気に召して、だれも彼もが文化国家という言葉を使うようになった。しかし私の科学者としての考えでは、日本の現状は決して文化国家ではなくて、非文化の極である。二十年後か三十年後かあるいは五十年の後にはぜひとも立派な文化国家になりたいと思うが、現在は貧乏のどん底にある、おちぶれた最低状態であると思っているからこそ、早く文化国家になろうと努力するのであって、現在が文化国家であるというのはおかしい。一体人間の文化とはどういうものか、これはいろいろたくさんあると思うが、昔から芸術、道徳、科学、そういったものが人間の文化のかなり代表的な面である。その眞理に向って専心努力をしている人間の働きは科学であり、美を目標として努力し活動しているのが芸術であり、善ということに対して人間は道徳を磨き育てているのであって、文化国家になる以上はそのすべてが十分に発展しなければならない。ところが文化国家という言葉に附随して文化とは芸能に限られるように世間では取扱っている。私にいわせれば、芸術とはいいたくない芸能である。しかし政治は腐敗している。経済は破綻している、生活は不安である。犯罪は盛んに行われる。風紀は乱れている。これでは芸能だけが幾ら盛んであっても決して文化国家ではないと思う。ことに私の関係している科学のごときは、人類の文化のうちではギリシア以来磨き上げて来た相当大きな領域であると思っているが、よく科学と文化とは別のものとして扱われる。そういう文化という言葉も了解できるであろうが、私は科学をも含めた人間界の活動が文化だと思っているから、演題に「科学を忘れた文化」という言葉を書いて、現在世間の方が科学を忘れておられないかしらということをいうのである。
 それでは私の立場からは科学とは何かということをいわなければならないが、科学とは何ぞやということは科学概論という学問で研究されているから、これは哲学の一部分というか、はしくれであるかもしれないが、ことに自然科学概論といった種類の書物でも読まれることをお願いする。ところで、私はその科学を研究し、その応用である技術ということに努力して来たのであるが、この技術はばかにならない。
 技術は人類の文化のうえに大きな地歩を持っていると思う。技術とは何ぞやということは哲学的に論じられていない。経済学者が経済価値の一部分としては技術論というものをやっているが、各位が簡単に技術を了解するために読まれる書物はまだないようである。技術概論というものはなかなか書きにくいものだと思うが、簡単にいうと科学の働きは発見、技術の方は発明という方がいいかと思う。科学概論の教えるところでは、科学の目標は認識であるということになる。それならば技術の狙うのは創造であり、その創造というのが技術の使命である。創造力のあるものは人間であり、それ以上のものは造物主という神様へ持って行くよりほかないが、この技術こそ文明、シヴィリゼーションの原動力だと思っている。そういうつもりで科学と技術を私どもは多年勉強していたが、これは人類の文化活動のかなりの部分だと信じているので、各位にそう了解していただければまことに仕合せと思う。


発明発見と国民性

 私は教育学を専攻する者ではないからとくに教育学の研究として発表すべき学説をもっているわけではない。ただ工学と理学との研究に従事していた間に感得した所信というべきものを述べようと思うのである。専門の教育学者からは独断と認められるかも知れないが参考とされるなら幸である。
 私が技術者教育から工学研究へ進入した当時感じたことがある。それは純正科学と呼ばれる学問の使命や立場はかなり明確に理解されておるが、工学、農学、臨床医学などの応用的学問は職業数育の学課としては重要さが明らかであるが、科学としての立場はいささかあいまい不明瞭だということであつた。
 そこで私は工学を一つの眞の科学として打ち建てるにはどう考えるべきかと思案した。例えば自然法則が自然界を支配している有機を究めるのが理学だとして、その同じ自然法則が人工物の中を支配するありさまを研究してそれから導き出される「人工物の法則」を明らかにする学問が工学というものだと解釈してはどうかと考えた。例をもっていえば、天然の動植鉱物中の色素を研究するのが理学で、人工的に合成した色素、天然に存在しなかった色素の製法などについて研究するのが工学だとする考え方である。
 顕微鏡、飛行機、テレヴィジョンなどを研究するに、単に技術に止まらず科学というべきもののあることは疑いないことである。かくて天然か人工かの一線を画して理学と工学を区別しようとしたが、この考え方は結局失敗であった。学は複雑な性格をもつものである。技術なるものは自然の力と人間の力とを組合せた人類の活動の一面であって、人間社会に対する利用価値とか経済価値とかが問題の焦点になるものである。その技術に関係する事項のうち、学問的理学的部面に属するものを包括して相当多面的なものが工学と呼ばれておって、それは決して単純なものでないから一貫した定義を下しにくいのである。
 結局私は工学に学問形式を具えた定義を与えることに成功せず、禅問答のように一足とびに一つの単純素朴な理解に到達した。すなわちその考えは独断であって学問的価値はないだろうが教育と学術とにたずさわる人たちには参考として是非聴いておいて貰いたいのである。
 人類の文明は発見と発明との堆積であると思う。そして理学的研究の成果は発見であり 工学と技術の成果は発明として出てくると考えたい。
 自然界の実相を知り自然界を支配する法則を理解したいと欲する人間の本能、つまり眞理を求める欲求から自然科学また理学が発達してきた。これを宗教的の言葉を借りていうなら、神の創造した宇宙の眞相を見きわめて神の心を知りたいという人間の活動である。科学研究で発見するといっても発見される物や法則は発見される前から神の与えているもので、人間が研究して次第にこれに気付いて識るということである。
 他方に技術というものがある。古来人間は道具を用いる動物といわれて、この点で他の動物とちがっている。人間は技術を練磨して多くの道具すなわち文明の利器を作った。人間は発明能力を持っているのである。宇宙万物は神の創造するところとして、神に次で創造力をもつ者が人間である。その創造能力たるやもとより神の賦与したものであるが、この天賦の発明能力を発揚して神のまだ造り与えなかった新奇のものを造る。それが人間の「たくみ」すなわち技術である。原始人は水を渡るに泳ぐよりほかの方法を知らなかつたであろうが、船を造り、橋を架け、隧道を掘り、飛行機を造つて河海を越え、電波を発生して無線通信を行いラジオを放送した。望遠鏡や顕微鏡を作って肉眼で見えないものを見得るようにした。写眞機や映画も作った。神はそれらの利器を自然界に造っておかないで、人間に発明能力を授けた。
 工学は技術の学問的部面に相当し、学問としては発見認識を使命とする純正科学に類しておるが、むしろ発明創造を使命目標とするものである。では工学と技術は同一かといえばそこに差異がある。技術は実践を生命とする。たとえば新規のものでなくとも、既知のものでも組織を立てて多量生産するとか巨大なものを造り上げるとかのはたらきは技術のたっとぶところである。これに対し,工学の眞の立場は不可能であったことを可能にするところにあると思う。
 工学以外の他の応用科学の立場も同様に低い意味で発明を目ざす学問と考えることができる。したがって応用科学は人生に実利を与えることが大きく、重要なものであるが純正科学とはいささか違うのが当然である。昔は純正科学者が応用科学を指して、実利に関係があるから卑俗なものだと見下げる風もあったが、それは発明創造の意義を解しない偏狭の見解であると認める。
 発見と発明の意義、純正科学と応用科学の立場を私は極めて素朴ながら以上のように説明したのである。いずれも人類の文化を形成する活動であって、一は神を識る仕事、一は神に代って仂く仕事である。共に尊ぷべきことであり互に相扶けてこそよくその使命を達成し得るものである。
 実用を直接目的としない純正の学問が実は発明応用の最も有力な基となるもので、過去二、三十年間に現われた顕著な発明は、みな単に技術の熟練だけから生れたものではなく、理学上の発見の結果として生れたものである。熱電子放出の研究が眞空管の出現を促がし、それからラジオも無線電話も写真電送もテレヴィジョンもできるようになった。電子の詳しい研究から電子顕微鏡ができた。旧来の光線による顕微鏡では二千倍まで拡大し得たに過ぎないが、電子顕微鏡では五十万倍にも引伸ばすことができるから細胞や黴菌の内部まで見えることになってきだ。また偶然発見されたエッキス線が今日極めて応く応用されることは周知のとおりである。
 他方において、最近の基礎科学は技術進歩のおかげで盛に進んでいる。原子破壊や宇宙線の研究にも、天文学の研究にも、精巧で複雑な大装置を要するから、工学と技術の最も尖端的な成果を利用して躍進的に発展している。
 発見にも発明にも経験と練磨が大切であり、科学精神の滋養、発明素質の向上が極めて重要である。これを達成すべき科学教育は多大の忍耐努力を要する仕事である。
 日本人は模倣に長じて独創力に欠けているといわれる。日本人が模倣に力めたのも止むを得ざる必要に基くと考えることができる。しかし創造性の不足には国民性とも見られる一つの習性があってこれが原因となつている。私が幼時から見ていた日本人、即ち昔の日本人は、とても諦めがよくて批判力を尊ばす、理性判断をするよりも伝統を重んじ迷信に陥入り、まじめに考うべき重大事をも語呂合せや駄じゃれで解決しようとした。理性を欠いた感情と意志ばかりのような人間が多く、芸術的であり宗教的であるように見えながら実は芸術にも宗教にも徹する人は多からず、芸術宗教に使われる言葉を記憶してこれを振り廻す者が多く、新語、標語、独断的格言を好み、文字に感激する気風が強かった。
 察するに支那の文化が「科挙」の制度に禍されて、暗誦を尊ぶ風潮が盛だったのがわが国に伝わって、日本も言葉の国になってしまったのではないか。
 困ることは、暗記復唱の習慣は創造力の発達を妨げることである。近ごろ科学振興の重要性が称えられるに当って、誰かが「先ず国民生活を科学化すべきだ」と説くと誰も彼も同じことばを繰返し、科学振興は家庭婦人に通俗講演を聞かせるだけで容易に達成できるかのように考える。国民の智能が現在程度になっている以上、科学振興には専門家の研究機関を充実し新研究を奨励する方に重点をおくべきである。わが国で科学振興を妨げているのは家庭人の無理解もさることながら、政治家の不明や責任の地位にある者らの怠慢の方が罪が深いのである。
 国民情神の高揚には科学を打倒すべきだという人間が権力の地位にいたのも、智育偏重が悪い、理学偏重が国民を毒するといって、科学を排斥したのも遠い昔のことではない。
 最近になっては(昭和十五,六年のこと)科学は人類全体に恩恵を及ぼす、その恩恵を日本人のみに限らないのが宜しくないといって非難する者さえ現われ、広く知識を世界に求める学者の勉強を無用といい、古事記、日本書紀にかえればよいという者さえあった。実に驚くべき偏狭の謬見だと思う。
 健全な社会の建設にも生産拡充民生安定にも科学を欠くことはできない。さらに世界平和の理想を実現するにはとくに科学が重要な役割を果すべきだと確信するのである。科学や技術を専門としない人々も、とくに教育に従事する人は、発明発見の意義並びに重要性についてよく理解すれば必ずその成果が著しいと考えて敢えて所信をのべたのである。


伝聞・誤聞

 近ごろある農村で青年男女と座談会をやったことがある。そのときいろいろ質問応答するうちに、アインスタインという学者が原子爆弾を発明し製造した云々という人があったから私は、アインスタイン博士は理論物理学者で何一つ実験もしないと思う。まして現物を造る仕事に従事しなかったと信じている。
 と話した。別の人から日本で原子爆弾の最高権威は湯川秀樹博士だという話が出たから私はこれも否定した。湯川博士も理論物理学者であって日夜頭と鉛筆とで原子に関する数学的理論を研究しているが、原子物理の実験には仁科、菊池その他数十名の有能な研究者がある。しかも原子物理の研究は必ずしも原子爆弾の研究ではない。日本では原子爆弾の専門家というものは無かったといっていいのである。
 アインスタイン博士と湯川博士を原子爆弾研究の中心人物と誤信している人が少くないらしい。新聞記者にもそう信じている人があった。そしてこれを訂正する人はない。本人たちも一々自分はそんな研究はしないといって歩くわけにも行かず誤聞はそのまま伝わってゆく。大壇博士という若い化学者は原子爆弾研究の犠牲となったと信じられている。私はその眞相を知らないがこの説を信じない。戦時中私は研究動員会議に関係して日本の戦時研究の大体の様子を聞いていたが、大壇という人が原子爆弾に関する仕事をしていたとは聞かなかった。これも虚報だと思う。
 日本の新聞にも外字新聞にも私がレーダー(電波探知器)の最初の発明家だと書かれたことがある。私は近ごろ世間に知られてきた超短波というものについて、二十余年前に研究し米国で発表した。当時の研究の一成果であったヤギ・アンテナを米英で軍用に採用し特に最も多く電波探知器に活用したのである。それを見て日本軍でも使いはじめ、それで私は陸海軍の研究者の仕事を批判したり相談をうけることになったから、よく事情を知っている者だが、レーダーそのものの発明者ではない。超短波技術の初期開拓者の一人ではあった。だからそこに多少の誤伝がある。
 大正年間に日本で超短波の研究を始めたとき人の質問に答えて、これは一般の無線通信に使えなくても他にいろいろ用途を考えているといったら、当時外国のインチキ発明家のいう殺人光線のことかと思われてその噂が立ち迷惑したことがある。
 もちろんその後数年にして殺人光線を自ら調べることになったが、最初はそんはことを考えなかった。後年テレビジョンとレーダーとに超短波が無くてはならぬものとなり、また、医療方面にも使われ、最近では超短波の面白い新応用がいろいろ現われてきた。
 物を初に考えたのと、その物を最後の形に造り上げたのとではその間に大きなへだたりがある。小さいなりにも木で舟というものを最初に作った発明者はそれだけで充分尊敬に値する人だが、その人を現代の数万十ンの巨船を建造する造船技術の権威だとはいわれない。それには他に多数の人の創意工夫や努力が費されてある。物を改良完成することは着想に劣らぬ功績である。私の知る範囲だけでもこんなに眞相の誤り伝えられるものがあるのだから、世のあらゆる方面で類似の誤聞虚報がそのまま広まっていることだろうと推量する。
 ニュートンがリンゴの落ちるのを見て万有引力の法則を発見したというのもウソなら、ゼームス・ワットが鉄瓶の蒸気を見て蒸気機関を発明したのもウソらしい。世の中には個人の功名手柄について実に誤伝が多い。同様に個人の罪科についても誤伝のままとなってることが多いだろう。古語流に言えば「実相門を出でず、虚報千里を走る」ということになる。


研究界と技術界

 人間一人の能力には限りがあるから、世の中は分業になっている。その全体の均衡がとれると健全な社会ができる。芸術、宗教など社会人一般に関係することは暫く措いて、工業に直接関係ある事項について考えてみると、科学と技術、経営と労務、製造と販売、資金と材料、発明と規格というように、いろいろの活動面が関係するが、その中でには工学と製造技術との関係だけを取り上げて考えてみたい。
 抽象理論的の研究や実験的の基礎研究から、新応用の研究、発明研究、現場技術の改良、その試験など、少しずつ性格のちがった研究、発明、改良、進歩が必要で、それらが互に境界を接して発展してこそ有効な活動ができる。その発展の足並が揃わない上、遅れた方の活動は無用となるばかりか、進んだ方も遅れたものから支援を受けるどころか、むしろ邪魔をされて、いわゆる手足まどいに悩まされることになる。
 労働者がよく働こうとしても経営がまずかったり、その逆であったり、資材があっても金融ができなかったり、規格が立派で反って発明を妨げたり、製造力は充分でも営業面が無能であったり、すべて均衡が失われては生産増強も経済復興もだめである。バランスが大切である。
 無線機器の製造でも、ある部分品が極端に劣悪であると、他の部分が相当優良でも意味をなさなくなる。その場合に優れた所にばかり力を注いで、それで劣った部分の欠点を償おうといっても、それは骨ばかり折れて効果はない。速かに劣った所を改めることが必要である。日本の無線学界は一見かなり隆盛のように見える。学会へ発表したいという研究論文が多すぎて、印刷できない論文が何百もあるという。ところが、その研究業績なるものを急いで公表しても日本の無線技術界に直ぐに役立つことは稀で、いつになったら技術進歩の推進力となるかわからないものが多いのである。数学理論的解法の練習問題が流行し、それは研究者が勉強家である証明にはなるが、いわゆる諭のための諭に終るのである。
 工学の研究としては、むしろ実験的研究が主体となるべきものであって、さらに発明考案の研究や実際技術の改良や機器性能向上の研究や、いろいろの研究課題がある。それら種々の研究が盛に行われるときにこそ基礎の理論も数学的研究も有効に利用されるものである。研究界と技術界との間に広い間隙ができていて眞に意義ある工業研究が欠如していては、技術は研究の恩恵に浴して進むことができず停滞するばかりである。
 日本の学術界の一特徴は、研究活動と実地技術とがつながらないで各々別の方向を向いていることである。米国では基礎の理化学も電子学も音響学も金属学も盛であるが、工学研究も理論ばかりでなく実験的実際的の試みが盛んで、その結果どんどん新技術が生れているのである。日本の実地技術家がもう少し技術進歩のため研究的であることが要望されるが、私はそれよりも学界の人々が自己満足本位の研究から脱してもっと実際問題に近く研究力を向けることを望みたいのである。学会の出版物を、実地家が待ちこがれるような内容で充たすことができるなら、学会は工業界からの支持も充分得られて論文を印刷できないようなこともなくなるだろう。見ても見ないでもいいような印刷物を出していては学会の会員からさえ歓迎されなくなる。
 私はしばしば一般の雑誌出版業者にいった。執筆者だけ満足させて読者を満足させないような雑誌を出していては事業が衰えますよと。学会は一般の営利出版業者とはちがうから、会員の研究発表機関として雑誌を出すこと、すなわち執筆者のために出版することも必要ではあるが、多数会員さえありがたがらないものであっては工業界がそっぽを向いてしまうのもやむを得ないだろう。
 これは学会編集委員だけの責任ではない。学術研究者の非常識と日本学界の畸形不健全性との現われに外ならないのである。この傾向は戦前でも顕著であった。そしてそれも敗戦の一因であった。今日復興活動の切に要望される時代に、なおこの畸形状態が著しいのは心細いことである。


電気通信学究の繰言

 昭和十一年秋電気通信学会大会に特別講演と求められて回想と題して自分の述懐を語つたものである。十七年後の今日なおこれを再録する必要を痛感するものである。
 常に私らに意義ある精神指導を与えられた長岡半太郎先生がいわれた。「学問の歴史などお前はやるな、新しいことを研究すべきお前らは古いことを考えないがいい」と。もちろん科学史を調べることは大切で有益だけれども、未来を拓くべき者は未来を考えて働けという教訓と思ってその教えを守ってきた。その自分が今日過去を回想して話そうとするのは専ら将来に処せんがためである。
 電気の応用は通信が最初で、強電流の電力応用はずっと後に発達したものだ。山川義太郎先生のお話に、当時の卒業証書には電信学を学修して卒業したと書いてあったさうだ。電気学会ができたのは私の生れたより前だが会員は電気通信の人と物理学の人とであったに違いない。ところが後に電力事業が世界的に発達して電気通信は圧倒された形であった。学校の卒業生もほとんどみな電力事業と電機製造業とに向ったから、逓信省では通信技術員の採用を確保するため学生に給費して予約したものだ。大学では電気通信専門の講座もなく通信学の研究もほとんど無かったようである。
 外国ではどうかというとかなり様子がちがっていた。英米でテレフォン・エンジ二ヤーといえばパワー・エンジ二ヤーよりも一段学問のできる技術家と認めていたらしい。日本では時の勢で電信電話を軽んじたけれども、取扱う周波数を考えてみても電力は五〇サイクルか六〇サイクルの単一で一定であり、回路も平衡三相か単相の簡単なものだが、通信では周波数も広いバンドであり、電信方程式や電話方程式の難かしい理窟から考えねばならぬ。電圧の高い点は電力の方がむつかしいが、電気通信学は独米あたりで軽視されていなかったのである。
 日本の学校に通信研究がなかったばかりでなく、逓信省も外国技術の輸入に日も足らず、外国に無いことを日本でやろうなどいうことはもとより問題にされなかった。大正年間に電信電話学会ができたそうだが、うわさに聞くだけで、私など大学では会の雑誌も見られず会員になる途もなかった。つまり逓信省部内の技術員教育のためのもので私らの考える学会ではなかった。大正八年東北大学に電気科ができたとき、電信電話学会に宛てて、会誌を大学図書室へ寄贈して貰いたいと申込んだところ、寄贈を断わられた。それは省内のもので大学電気科などにやる必要は認められなかったのだ。
 一方大学がどんなありさまだったかというと、大学では外国雑誌は金を払って買うが、国内で日本語で出る雑誌を買うことはならぬと莫迦なことを定めていた。もちろん数年後になって学会からバックナムバーを揃えて寄贈してくれたので大いに感謝しているが、こんな時代もあったことを話しておく。
 電信電話学会、照明学会、電気学会の三学会は連合して大会を開いた。その何年目かに若い人人から三学会合併の希望が出て多数の賛成を得た。私も大賛成で署名したところ、私の年配の者は多く不賛成で私は例外だった。年長者には会長、副会長希望者が多すぎるから会を三つに分けておく方がよいということであった。三学会の幹部たちは合併請願を握りつぶすわけにもゆかす、委員を挙げて長期間検討したが合併の必要が認められないといって黙殺してしまった。私が合併に賛成した理由は、当時照明学会も電信電話学会も厳めしく学会と称しながら、年一回の大会さえも独立で開く力もなく、電気学会の寄生虫のように連合で辛うじて体面を保つものだったから、電気学会の一部分で沢山だろうというわけであった。
 しかるに近年の電信電話学会の活動は目ざましく、春の連合大会のほかに単独で秋季大会を催し、多くの研究発表があり、雑誌内容も豊富で英文雑誌も出し、ポケット・ブックも出せば邦文外国雑誌その他の出版も盛である。役員が新進気鋭であるのみならず会員全休が活動的になった。眞に隔世の感がある。これは通信学に限らず、先輩学会たる電気学会を見ても二十年前には研究らしい研究も出なかったのだからやはり隔世の感である。二十年前には、日本人のくせに研究するとは生意気だといった先輩もあって、研究を嫌い冷笑した。それを同情的にいえば、先輩に研究能力がなく、内心苦しいところがあってわざと後輩の研究を冷評したといえるのである。その時代に新奇の研究をすることがいかに厄介だったかを二、三紹介したい。私は高圧放電と高周波に興味をもち無線研究の助手を探したが高工出では通信方面の希望者は一人もなかった。みな発電所か発電機メーカーへ行きたがる。それで電機学校へ手紙を出して何千人かの中からやっと一人を得て研究を始めた。それから四、五年もたって一大学生は「先生が無線など研究されるのは私たちの不幸だ。われわれが卒業しても無線方面で就職できる所は一つもないから」といった。私は彼をなだめて「大学は国家に須要な学術を研究する所となっている。無線電話でもできるならそれは須要なことだから就職先の有無にかかわらず研究するのさ」と弁解した。大学だからそんな勝手をいっておれたが専門学校では思いもよらぬ事であった。当時送信は火花式や弧光式で、受信機を組立てるにバリコン二箇を要した。受信用コンデンサーは陸軍の標準型で一箇七捨五円だったが、真空管もなく、鉱石検波器に直列につなぐ乾電池数ポルト以外に高い電圧はないのに、バリコン容器の表面には厚さ二センチもあるエボナイト板の二十五センチ平方の磨き立てたものを使ってある。これより小さいバリコンはなく実に重いものであった。当時の七拾五円は大金で、十年後にラジオ受信機が眞空管入りで三、四捨円で買えたものである。その頃米国では受信用バリコンは二弗であったから日本のもの一箇の代でアメリカ物十数箇を買って使えた。鉱石検波器は一箇四捨五円であったが後年には何十銭で得られた。そして感度は前のより宜しい。あるときバリオメーターを註文して三拾円ぐらいなら納入されると思っていたら見積書が来て千弐百円とある(昭和二十五年の金にして弐拾万円ほどの見積りである。この見積書を出したメーカーの名はとくに秘しておく)あんまり高いから註文を断ったら、目盛板だけでも拾円以上かかりますといった。また送信機用に硝子板と錫箔とを積み重ねて高圧用固定コンデサーを自製した。それと同じ物を作らせ工賃を含めて式百円ぐらいと思い見積らせたら驚くなかれ一万何千円といってきた。
 こんな禁止的値段を吹掛けられ、大学内部の障碍にも耐えつつ苦心惨憺して研究した結果を学会に発表しても褒められはせず論文がむつかしいと苦情をいわれる。故鳥潟右一博士が私に同情しつつしみじみ述懐されたことがある。「日本の学界では何か発表しても、良いとも悪いとも誰一人ウンともスンともいわない。しかも蔭では悪口をいっている、困ったことだ」と。
 私たちは幸運にも斎藤報恩会財団から同僚三教授の共同研究に対して二十一万円の研究費(今なら数千万円に当る)を約束して貰って通信の研究を進めた。電気に関係のない財団がそれほど研究を扶けられたことは私たちのためばかりでなく日本の電気工学のために有難い方話だと思って、数十名の者が盛に研究したが、はからずも電気学会から迷惑がられようとは意外であった。電波に関して、アンテナに関して、無線回路、増幅器、受話器、眞空管、電気音響学などについて数多くの研究諭文が学会へ送られた。当時電信電話学会はまだ研究発表を歓迎しないので電気学会へ出したのである。するとあるとき電気学会の役員会で相談の結果、私へ一つの通牒が来た。学会誌の内容が偏するから発表を遠慮してほしいというのであった。強電流関係の論文が少いところへ弱電関係のむつかしい論文が出るため退会者が続出して困るというのである。
 当時退会者は出たが入会者はそれより多かった。第一次大戦時の好景気に電力飢饉といったほどの電力の繁栄期があり、大正九年の恐慌から十年間だんだん世の中が不景気となって電力事業苦悩時代に入った。そのとき電力技術家が退会したのも当然である。その人たちがその頃の雑誌を見ると眞空管発振とか増幅とか自分らに無用の事ばかり書いてあると思ったから、そして放送事業はまだ起らず何のためにこんなわからない事を書いて出すかと不満になって退会したわけである。
 鳳秀太郎先生が電気学会長に就任されたときの演説に「学会は今まで会員数を増すことを重視したけれども、これほどの学会になったんだから今後は数を増すより質を良くすることが肝腎だ」と述べられた。大正昭和の不況時代に強電流界で落伍しそうになった人が、弱電工学がこんなにも発展するとは予見する能力もなく、それを毛嫌いしてこれから遠ざかりつつ強電の方でも落伍してゆくとすれば、強いて退会をとめることは不可能だった。米国の諸学会でも退会激増で赤字に悩んでいた。これを心配して論文発表を控えようとは見当ちがいで、考えてみれば一種の悲劇だが深く咎めはしない。
 通牒を受けた私は学会の役員会に出掛けていった。「強電論文が尠いのに弱電論文も尠くしようとは訳が分らない。大学では欧文刊行物を出しているから学会が迷惑がるなら大学で出す。それでは学会が淋しくなってすまない気がするのである。諸君は米国AIEE誌を受取るだろう。それを篤と見てもらいたい。世界の電気応用が弱電方向に突進しつつあることが解る筈だ。なお一つ考えてほしい事は、学会で毎年研究補助金を出すが、一件五百円出しても一年後に論文の出ることを予期するだろう。私どもは二十一万円以上の研究費を受けている。電気学会は学会中で裕福の評がある。その豊富といわれる基金よりも多い研究費だから、論文が三百も四百も出るだろうが悦ぶべきことと考えている。」といったら、成程尤もだ。強電方面に勧誘してその方の論文の出るよう勉めるべきだったということになった。
 学会だけでなく雑誌オームにも明らかに私どもに対する非難が出た。それで私はしばしばオームに投書して「弱電工学の弁」「再び弱電工学に就て」「電気学会とは何ぞや」など書いて弁解したものだ。
 大学での私の担任は実は強電流工学だから、助手や学生に継電器、避雷器、コロナ放電、衝撃電圧などの研究をやらせて学会に発表させた。それらの論文も弱電工学だと思って嫌われた。そういう人は電気工学とは三相交流の接続と四線図と発電所記事ぐらいに限りたいのであった。発電所記事といっても機械のネーム・プレートを写したような、某々社製、三相交流何K・V・A電圧何V、電流何A、廻転数六〇〇R・P・M、力率〇・八など何ぺージも列記してある。そんなのを面白く有益と見る人たちに対しては、私どもがさぞ迷わくをかけたことであろう。ところで会の編集幹事がそっと私にいうには、「実はあんな話になったが、君の方でパッタリ論文を出さなくなると二ケ月もすると記事がなくなって困るのだから出してくれ」というので、東北大学からは続いて出した。私だけは遠慮してピッタリ止めてその後は欧文で外国へ出すことにした。ある会社の技師に大学へ講義に来てもらったら、その人が学生たちに「この大学はヴァルブ(眞空管)大学だ。あんなガラス玉をつなぎ合せて何ができるものか」と話されるので教育上困った。ところが数年後その会社の人が「私の社に眞空管のわかる技師がいなくて困る。何とか一人世話してもらえまいか」といってきた。神戸高工の名校長広田精一先生は誌上で堂々と東北大では弱電工学ばかり教えているかのように非難攻撃されたので、長文の書面を出して弁明したら、また長文の書面で申しわけを寄せられたことがある。
 学会の幹事でもやる若手は理解があるかと思ったらとんでもない批評をしてくれた。例えば東北大では学生の卒業研究なんかを学会へ出して原稿料を稼ぐのは見苦しいといった。私にいわせれば教授の論文にもくだらぬものは沢山あり学生の論文にも有益なものはある。それはたいてい三、四ベージの短いものだが、研究費も随分かかり一年近い苦心勢力が籠っている。研究の全部を出すわけではく、とくに独創のあるものを出すのだから、原稿料かせぎとしてはこんな引合わないことはない。もしつまらぬ論文と認めるなら学会誌上に討論として意見を出せばよい。それにオームなどの雑誌に匿名で悪口を書く。誰のどの論文がと名指して見当はすれの攻撃を出し、しかも筆者は覆面で匿名の投書である。私はこれを掲載する雑誌の編集者も少しいかがわしいと思ったから、久しくその雑誌には筆を執らないことにしていた。
 筆者の署名について今一つの話は、論文の内容を評価せずにただ名前によって買被るのも実力不足の証だということである。私は随筆的のものをペンネームで書いた時代がある。「有閑電気学」という随筆を某誌に一年ばかり連載したとき、雑誌社では教授とか博士とか肩書をつけた本名でないと読者が読まないといったが事実そうらしい。読んでも批判できず肩書で名著と思うらしい。外国誌を見て翻訳や解説するだけなら毎日でも書けるが、苦心して自分でなければいえないことを書き自分でなければ下せない判断を述べても他人の受け売りと同様にしか認めない。読者がそれだから学界に論文が多く出ても討論する値うちもないものが出る。それを批評する人もないと、いつまでも向上進歩のないものを出す。すると読者の方では何か訳のわからないものを書き立てる筆者を学間ができて立派な業績を挙げているらしいと決めてしまう。その結果二種の全く相反する判定が下されている場合が尠くない。「抜かぬ太刀の功名」という諺があるとおり変な研究発表でもしなければ無力を曝露しないのに、進んで拙劣を披露していると認める人のある他方には、刀を抜いて振り廻しているのを見れば剣道の達人だと感服している人がある。外国の大メー力ーが何か新しいものを造ると、まるで自分が発明したようにその効能を吹聴して頗る得意の人たちが現われる。これは明治時代の遺風で、他の人も同じことをやるから遅れずに速く外国物を喝釆するという気風があった。その影響で、あるとき私どもの研究の結果外国品の欠点を指摘した論文を出したら、委員から手紙で「現に実用されている装置を欠点ありというのは不穏当」といって返して来た。その外国メー力ー自身が欠点を知っていて後に研究改良を加えて発表しそれを売り出した。
 確信欠如の風潮の話の序に話そう。奨学資金の委員であるお歴々が、毎年受賞候補者を申し出て委員会で銓衡する。ところが自分には「どの人の業績がいいのか分からぬ」といって心当りの候補者名を申出さない委員が多い。少数の委員だけが候補者を出すと委員会で審議して相当数の委員がよかろうとなると、大勢すでに定まったと見るやほとんど全部の委員が宜しいという投票をする。いわゆる見ず転というもので、委員として推薦権発言権だけを握っていて誰も推薦せず、賛成投票だけするという不見識ぶりである。
 以上いろいろ恥かしい話をした。それは過去の事で現在はそうではない。過去を語ったわけは、若い人々は現在だけを知っていて、十年前も二十年前も現在と大差ないと考える傾があるから、時代の変化の速さを示すために話したのである。明治維新後の人がどんな苦心をしたとか、大正時代はどんなであったと聞いても想像はつきにくいものである。時勢の変り方も科学技術の進歩もどんなに激しいかをよく意識しないと、二十年前も今日と同じく隆々としていたように感じ、放送もあった国際電話もあったような錯覚を起す。したがって今後の十年二十年にどんな変化を起すだろうかの洞察も覚悟もできないで、のんびりと夢のように過すうちに、時勢に取残されることを恐れるのである。長い回顧を述べたのは以下の私の本筋に入るためで、これだけ話しておけば以下はもっと簡潔に話すことができる。
 以上の経験から判断し得ることが二つある。
 一つは日進月歩を特色とする電気の専門家が案外保守的で、急激な進歩を予想するに拙であり、むしろ進歩を希望しないことである。したがって新方面に進む者にブレーキをかける事実がある。電気に限らず一般に技術家に保守性があるのは実に不思議なことである。第二は電気応用は十年十五年間に激烈に変化することで、それは一般世間の素人も認めるところである。然るに電気技術者の中に、もう研究問題がないという人があるのは驚くべき事で、それが無線研究者にさえあった。
 右の二項を前提として次に私見を述べようと思う。
 大正の初期に私は外国から「電気之友」へ投稿して「研究とは何ぞや」を論じ、学問を輪入するぱかりでなく自ら研究すべきだと説いたが現在は研究流行時代になっている。田中館愛橘先生が「この頃は研究が多くて、良い研究とつまらない研究とを吟味する研究の研究が必要になってきた」といわれるようになった。これは世界中の傾向で、ある国では研究報告が多すぎて眼を通すこともできないから研究を十ケ年ばかり禁止せよという研究中止論が出ている。今では日本も研究が盛だからツマラナイ研究は引込めといったが宜いかもしれない。私たちは十年前に電気学会からそういわれたわけである。
 日本では立派な有意義な研究がまだ乏しい。七、八十年もの永い間西洋の眞似をするだけで楽々社会の成功者顔ができたものたが、今はその状態を脱却して世界の文明のリーダーに加わらなければならぬ。それには今後の人は一層苦労しなければならぬと思う。
 応用技術には規格や定石があって、これに従って仕事をするのは当然であるけれども、進歩とは定石が一部から破られてゆく事である。だから定石の破れることを嫌ってはならぬ。研究は規格の変更を来すもので、標準が定まった現在、新研究は困りものだと考えるのはまちがいである。研究は技術の革命を起す力がその生命である。多く行われている骨の折れない研究というのは、XYZなど幾つかの量の一つを変えたとき他の量がどんなに変るかの関係を、表や曲線で示す程度のものである。圧力を変え温度を変え電圧を変えて性質や諸量に及ぼす変化を明らかにすることは技術上必要なことではあるが、その型に嵌った研究だけでは本当の研究ではない。ある量の測定法や測定器の研究も無用でない。しかしその程度の小手先上手、世渡り上手の才人が研究のまねをしているだけでは技術の革命的進歩はない。研究者はさらに一段苦しんで貰わねばならぬ。
 統計で見ると研究論文の数は多くてまことにめでたい。たが質を考えるとあまりめでたくはない。質の向上しないには深い原因がある。電気工学界は批評の貧困に陥っているのである。批判が行われないのである。皆が利巧で世渡り上手でいうべきことをいわず、いえば憎まれるから互にお座なりの挨拶を交している。論文を出せば結構というだけで研究者の助けになり力となるような批判をする者がない。それで質の同上するわけがない。この風潮のために研究者もいい気になって、稀に質間一つ受けてもムキになって防戦の態度をとる。討論が出れば顔色を変えて極力反駁撃退しようとする。名誉心功名心に駆られて研究し論文も書くのだから研究を楽しまない。それ故なるべく苦労の少い仕事で手柄を立てようとして褒められたい気持ばかりが強い。人からもっといい智恵をかりて次にはもっとよい仕事をしようとは考えない。
 外国の消息については人に負けまいと急いで勉強し、消息通になり物識りを誇ろうとする。物識りすぎるのは近所迷惑なものと知るべきである。誰かがある研究をしていると聞けば同じ問題を研究する。競走のように同じ方向に駈け出し自分独自の方向には進まない。あまり物識りばかりで独自のものを持たぬ人を長岡先生は「西洋で編纂家と呼ぶが研究など出来やせぬよ」と評された。
 もっと虚心坦懐に互に批評批判して磨きをかけて向上すれば、単純な数式崇拝からも免かれ眼界が広くなって、理学工学の広い素養を身につけ楽しく研究できるだろうと思う。研究はだんだん共同的のチーム・ワークとなるが個人の名誉欲が強ければチーム・ワークはできない。
 今日は社会活動の一環として研究するのだから他の事業と関連した共同が肝要である。かくして工学研究の眞の目的を心得て独創的の研究に努めることが急務である。
 この独創的状態になることはいうべくして難かしいことである。どんな方法で日本の電気工学研究をそこまで高め得るかと問われても答は容易でない。その方策としては研究者に研究テクニツク、すなわちわざを教えることや計算法を教えることも大切だが、それよりも研究者に、ある精神、ある信念、あるスピリットを与えることが肝要だと思う。研究の意義目的方針を明らかにすれば素質のよい研究者は大いに向上するだろう。問題の捉えかたがまず違ってくることだろう。人に信念を吹き込むことは口でいうほど易しくはない。当人も自発的に想を練らねばならぬ。私はその人の形造る信念に次の一ケ条を加えて貰いたいのである。この一ケ条は私の独断があるが信条の一つである。それは「学問技術は連続的でなく飛躍的に進歩する」ということである。学問は規則に従って進むものではない。某オーソリチーがいったからとて必ずしもその道に沿って進まない。孔子が斯くいった、釈迦が斯くいったといっても予測したコース以外の方向へ飛び出すものである。それが不連続的に飛躍するものだと私は信じている。
 電信は前世紀半ばからあった。人がその針金を無くせよといっても有線電信の研究ではある程度細くできるだけである。全く別方面でファラデー、マックスウヱル、へルツと、電信技術者でない人々の研究から電波による無線電信ができて電信に革命を起した。二極真空菅がどんな革命を起したか、光電管がどんな新技術を生んだか、結晶のピエゾ電気、磁歪、ケル効果、そんな意外なものから技術が飛躍的に進歩する。一見実用的でない基礎理学の副産物として技術が飛び進むのである。ところがそんな躍進はいつでも外国人がやらせるので、日本人がやったことはない。これは反省を要する点だ。日本で研究が盛んだと自分でほめていてもこのありさまは何たる事だろう。
 東北大学の応用電気研究グループ(後の電気通信研究所)の研究に特色があった原因の中の一つとして、その図書室にある雑誌を見ると、Comptes Rendus,Naturwissenschaften, Nature.Phil. Mag. Proc. Royal Society. Proc. Phys. Society. Journal de Physique et Radium.Zeitschrift fuer Physik. その他理科の物理図書室にあるほどの基礎理学の雑誌が並んでいる。これは他の電気工学教室にはないことである。研究には機械も金も必要だが、研究員がこれらの図書を痛切に必要と感じ、近刊の到着を待ちわびているという学風が他所と違う特長である。基礎学問との接触が足りなくても差当り目先の電信電話の研究には差支えないけれども、眞に将来の問題を見通す眼が曇ると思われ、大いに考慮を要すると考える。つまり研究が常に第二線第三線に留まって第一線に出られないではないか。研究が世界の学界の第一線に出ているかどうかは国内からは判りにくい。外国の側に立って本国を振返って考えると自分らの研究が第一前線にあるかあるいは人の後について第三線にうろついているかが判るはずである。電子顕微鏡、ブラウン管などは古いことだが、近時改良されたブラウン管、陰極材料、金属管、その他新奇のものはみな最初は外国で出来た。日本は後からまねをしたのである。オリンピック・スポーツに優勝するように学問技術も最先頭にありたいのが私どもの止むにやまれぬ希望であり念願である。これを必須要件とすれば従来のやり方を勇敢に改革しなければならぬ。私どもは外国の研究型を模した。次代の研究者はもっとスピード・アップして進んでもらいたい。それには研究信念をしっかり持つこと、その信念に私のいう一ケ条を取入れることを望むのである。
 研究は飛躍する。油断はならぬ。技術は理学を原動力として進むのである。小革命を続けるのである。学術がある軌道に沿って、権威者の定めた公式によって進むなど考える者は頭が老化しているのである。若い人はそんなことを信じてはいけない。今後がどうなるなど適確に予言できるものではない。予想外の事が起っているのである。それを起すのが諸君の仕事であるべきだと私は信じている。
 以上で私は過去の事実に鑑みて将来も躍進的に革命的に進むと断じたわけであるが、その反対に沈滞して安定してしまうとは断じて考えない。私の予言よりももっと爆発的に激しく変るかも知れない。そうだとすれば容易ならぬことで、しかもそれは有り得ることである。だから学術研究者の態度心構えは決して今のままであってはならぬ。古いオーソリチーを買い被ってはいけない。若さが尊いのである。年少気鋭の人達の発奮を切に望む。最初に話したように私どもが僅少の研究費で禁止的値段のものを買わされ、周囲から圧迫障碍を受けながらやった時代にくらべて条件は整っている。人手もある、生来も優れている。量のみでなく質的にすぐれた研究を成しとげて貰いたい。切に要望する次第である。