湯川氏のノーべル賞受賞によせて
大阪帝大の創立より三年位前、たしか大正五年頃からのことであったと思う。毎年日本数物学会の年会が東京で三日間位開かれた機会に、核物理研究会というものを催して少数の有志の人たちが討議した。勿諭日本では誰も実験研究をしてなかったのであるが、外国で原子核物理学が芽を出したのに刺戟されて関心が喚び起されたのである。さて大阪帝大に物理学科をつくるという話で、長岡平太郎博士に奨められて自分が創立の任に当ることになった。そのころ日本の大学ではどこでも原子の問題といえば核の問題はとりあげられず、原子の外部即ちスぺクトルの研究に限られていたのであるが、阪大では新しい物理学を開拓しようという意気込みから、原子核の研究に取り組むことになり、当時理研にあって電子廻折のエキスパートとして自他共に許した菊池正上氏を教授に招聘し、直流高圧(六〇万V)の装置をとりつけて研究にかかった。更に理論の方の若手を一人入れることになり、かねて仁科芳雄氏が京都帝大にこの方の講義に来ておられ、その教えた中の俊才として知られた湯川秀樹、朝永振一郎氏の中からということになったが、朝永氏は理研におり、仁科氏が到底離さないだろうということで湯川氏を招くことになったのである。
当時湯川氏は母校京都帝大に止まり無給の講師をつとめていたが一週に三日は京大に残り三日は阪大で研究して貰うことになった。幸にして空席があって助教授のポストにすわり、その中にサイクロトロンができて阪大物理科は理研と並んで原子核実験の双壁をなすに至った。湯川氏の温厚な性格はどちらかといえば当初は光を放たなかったようだが、程なく菊池氏はその敏才を高く評価するに至り、阪大のホープと目せられるようになり、いわゆる湯川粒子の論文の出るや逸早く教授会をパスして学位を得たのであった。そして坂田昌一氏、武谷三男氏等の多数の精鋭が湯川氏の下に集って今日に見る素粒子研究陣の素地が培われたのである。母校京大で返してくれという話が出て、とどのつまり先輩を越えて教授に昇格して帰ることになったがこれには仁科氏等の尽力が与って大きい。また帝国学士院の授賞や文化勲賞には終始長岡半太郎博士の推挙があった。
理論物理学というものは無限に生成発展をつづけるものである。もしも現在の理論というものが最後の絶対的眞理であるとしたら、それから先革命的な研究をする必要はないわけであり。ニュ―トン物理学も実験上の相違点が出てくるに及んで相対論が現われた。ところがこれでも原子の中には適用できず量子物理学が出て来た。両方を調節しようとして苦心の結果が中間子理論となって現われ、さらにこの中間子にもμとπの二種があるということになった、理論は時代のものである。五十年とか百年とかの先を考えれば、その間にはまた新しい理論が出てくると思う。フレミングの回顧談にも「理論は何度も何度も修正される。しかし実験、観測で認められた事実は残る」といっている。素粒子研究の途上において、とかくあり勝ちな学閥的弊風がかなりの程度に超克され、このことがとりもなおさず斯学の発展に与って大きかったことを思い合わせ、科学技術の何れの分野を問わず実験を果敢に進めること、眞価を率直に認めることをこの機会に更めて強調したい。
八木アンテナについて
八木アンテナとか八木空中線列とかいうのは私自身がつけた名ではない。米英独の人たちがこの名であらわしたのである。この空中線系は大正十五年に私と宇田新大郎君との名で帝国学士院記事に「電波の最も鋭いビーム投射器」と題して発表したもので、普通の無線通信には久しい間用いられなかったが、各国の電波兵器に有用のものと認められ、現在日本駐留の米軍では超短波通信に盛に使用しているらしいのである。
大正十二年中、当時東北大学の学生であった西村雄二君が卒業研究として、針金を曲げて円形、三角形、四角形等にしたものの固有振動波長を(それは計算で出すことが容易でないし測定で定める実験をしていたとき、発振器としてはホルボーンの平行線発振器を用い、遠く離れた所に受波器を置いて、その中間に測定せんとする線形を置き、その電波吸収状況を観察した。
その時波長測定のため受波器の近くに自製の平行線型波長計を置いてこれを調整すると、ある所で波長計を置かないときよりも強い電波が受波器に到達することを認めたのである。
線形でも波長計でも、それが電波に共振する大きさ、またはそれ以上の大きさである間は電波を反射する作用があるから、電波が受波器に達するのを妨げて受波強度を弱めた。このように金属体は一般に電波の場にあって電波を反射するというのが常識であった。
ところが線形の寸法がある程度小さいと、それが発振器から来る電波を受けてその線形の中に電流が誘発されるとき、その電流の位相が起電カよりも進んだ進相電流である場合がある。この電流は線形から電波を再発射する。そして受波器の方に向って進行する電波は、発振器から直接受波器に向って進行する電波と位相的に相扶けて、その電波勢力が加え合されて受波器に送り込まれるから、線形は電波を反射するのでなく、むしろ電波が受波器へ伝送されるのを助けることになる。
この作用は針金を折り曲げた線形を用いず、一本の半波長タブレットに近いときに明瞭に現われる。すなわち長さが半波長以上のものはその中に流れる振動電流が遅相電流で反射器として働らき、長さが半波長よりも短いときは受波勢力を強める作用をする。これが導波器(Wave director)というものである。
導波器という名は谷恵吉郎氏が当時命名して呉れられた訳名である。米国ではこの導波器を送信用タブレットの近くに置き、反射器を送信タブレットの後に置いて、三エレメントで指向空中線として広く実用し、これをヤギ・エーリアルと呼び、しばしば発音をまちがえて、簡単にヤジ(Yagi)と呼んでいた。また導波器をパラシチック・アンテナ(寄生空中線)と呼んでいる。そして寄生空中線にもいろいろの長さやいろいろの形を用い、主タブレットからの距離も随分接近させることが多いから寄生という語が当るのである。
大正十四年頃、当時東北大学の講師であった宇田新太郎君が超短波研究を始めたときに、私は半波長より短い空中線が導波作用を呈することを話してその理論的実験的研究をすすめたところ、同君は非常は関心を持って研究を進め多くの実験を重ねて学会へ引きつづき数十篇の論文を発表した。
とくにパラボラ反射器または三角型反射器と一列の導波器とを組合せた電波投射器が最も鋭い音波ビームを生することを実験的に確かめたのである。
マルコニ氏が直線導体をパラボラ線上に立て列べた反射器にくらべて、われわれの反射器は僅々3~5本の反射導体を立てるだけで充分反射器の目的を達することを明らかにした。これを私は三角型反射器(Trigonal reflector)と命名した。近頃の直線導体から成る屏風型(Corner)反射器と呼ばれるものに似ているが、実はむしろマルコ二のパラボラ型を改良したものに相当するのである。大正十五年東京で第三回汎太平洋学術会議が開催されたとき、私は宇田君との共著として二篇の報告を提出した。一篇は「新電波投射器と無線燈台」と題するもので、後に外国で八木アンテナと呼ばれたものについて発表し、報告の後半には、アンテナ系全体を回転することなしに電波ビームだけを廻す考案を発表した。
他の一篇は「電波による電力輸送の可能性に就いて」と題し、数十本の導波器列を用いた実験によって電波電力輸送の可能性について予報したものである。
越えて昭和三年(一九二八年)米国の数ケ所で行った講演をI・R・E会誌に公にした。当時の講演の内容は前に汎太平洋学術会議で発表したもののほか、宇田君の研究と岡部金治郎君の磁電管発振の研究とを含んだもので、後に外国では超短波論文の古典と認められた。その印刷記事の中には電波ビーム廻転の無線燈台方式の記述は含まれていない。
八木アンテナの最初の発表には導波器の説明に第一図と第二図とを掲げた。すなわち第一図でeなる高さは送受両装置の中間に何物をも置かないとき受波器に入る電力の大さを示す。中間に一本の直線導体を>置いて、その長さをだんだん変化すると、それが半波長より長いときは受波勢力はeよりも低くなる、それは電波が途中で反射されて受波器に達するものが減少するからである。
これに反して直線導体の長さが半波長よりも短いときは導波器作用があらわれ、受波器へeより大きい電波勢力が受けられるのである。だから第二図に示すように各種の電波に同調する共振タブレットにSの開閉器をつけて、これを開閉すると反射器を導波器に変えることができる。それによって受波器の方へ流れる電波勢力を増減することができるわけである。
第三図は三角型反射器で、反射導体三本の場合と五本の場合とを示してある。これで電波は前方へ指向投射されるが、ビームは鋭くない。
主空中線の前方へ導波器を数本から数十本立てるときは、極めて鋭いビームが発射されるのである。この指向装置は受波器の方に使えば特に有効である。
一本の主空中線の周囲に、8~32本の導体を同心円上に排列し、開閉器を操作して導波器と反射器との切り換えを行えば、電波は反射器のある方向には出て行かず導波器の方向に発射されるから、切換えによってビームの方向を変え、あるいはその方向を順次廻すことができるのである。
上記の諸事実についての詳細は宇田君が大正十五年以後数年間に亘って電気学会雑誌に発表した「超短波長電波について」と題する十数篇の論文に記載されてある。
近年米国で八木アンテナが盛に使われるのはテレビジョン放送の到達限度の距離にある受像機には、画面が不明瞭でかつ附近の電波の妨害が強くて受像できないが、放送局に向けた八木アンテナを使えば放送電波を強く受け。附近の妨害電波を受け付けないから、明瞭に受像できるのである。かく受像機の方に使用するから八木アンテナの利用はその数が多く、これの改良型を作って売出している会社がいくつもあるのである。
バルクハウゼン先生との閑談
昭和十三年頃バルクハウゼン教授の来朝を請うて、講演を三題ばかり準備してくださいと依頼したところ、教授は四つの講演を用意された。その一つは専門の理論よりむしろ一般的のもので「科学と工学」と題するものであった。
その「Wissenschaft und Technik」が最も人々の気に入ったらしいので各地で四回講演された。ところが不思議にも講演後の質問は毎回教育に関することが多かった。勿論その講演には教育に目する部分が含まれてはいたが、大学ではもとより電気試験所でも海軍技術研究所でも教育的の質間をする人が多かったので教授はよほど驚かれたらしい。
あの人たちはなぜ自身の専門でもない教育の事をあんなに気にするのかと尋ねられた。私は「公職に居る人々は常に国家を考えるから、自然最も重要な教育上の事に関心をもつのです」と答えておいた。電気学会には工業教育調査委員会もあった頃とて、電気技術界にも教育について興味をいだく人が多かったのだろう。
むかし穂積陳重博士が言われたそうである「教育のことは誰でも論じたがるもので、また誰でも論じ得るものだ。だがそれが事を誤まるものだ」と。それはとにかくとして、バルクハウゼン教授はラジオ放送で次のようにいわれた。
「日本と独逸の教育には差異があるらしい。日本では或一つの理想を掲げて皆をこれに一致させようとして教育し独逸では各人が各人の理想を持つように伸びさせることを目標としている。この差異は樹木を見るとよくわかる。日本の庭園はどれも庭師の法則に従って造られるらしい。樹木は斯く曲りくねった形がよいとか、斯く刈り込まねばならぬとか定められて、みなそのように曲げて育てられるようだ。独逸では樹木は自然のままにのびのびと成育したのを美しいとする。」
この相違は各所での質疑討論にも現われた。日本人の方は「斯く斯くであるのが悪い」ということをよく言う。理学者は実地応用を心がけないからいけないとか、実地技術家は学問のための学問を理解しないで、役に立つことばかり重んずるのが悪いとかいう。
これに反してバ教授は「長所を認めなさい」という。各人の天賦の才能に応じて専門をきめるのがよいという。数学的の才ある者は数学に、理学的の者は理学に、工科的のものは工科にという。技術教育についても、普通一般の者には基礎も応用も一様にやらせるがよいが、特別に才能あるものは、一般のことはできなくても特長を捉えて、特別に待遇してやるがよいという。
これに対してある大学の教授が質問していうには、「日本の大学生を見ると、在学中は平均してドイツの大学生に比し敢えて劣らない。然るに卒業後の一生を通じての仕事を見るとやや劣るらしい。その原因についてバ教授は何か心当りがあるか」と尋ねた。すると教授は「私は僅少の日本人学生をもっただけだからその点は判断を下せない。けれども若しも私の推量をいってみるなら、ドイツでは学問の自由が尊ばれ、学生は自分の勉学のプランを一切自分で勝手に決めるが、日本ではその修学の自由が足りないためではなかろうか」と答えた。これを多くの聴衆は名答だと評した。
次に質問者は「教授は各学生の素質に応じて彼れを(例えば理科を)撰ばせ、またはこれを(例えば工科を)撰ばせよとか、とくに優れた者には一般的要求を免除して特別待遇をせよとかいわれたが、学生の素質をそんな風に判定する法があるかどうか」と尋ねた。
それに対しては「それは教師が学生に半年から一年も接触して居れば容易にわかる。自分の子供の素質才能などもある年齢になればわかるではないか、その判定はさして困難と思わぬ」と答えた。
質問者はそれ以上追求しなかったが、明らかにこの答では充分満足しなかったと思われる。その後私は教授に話した。「あの質問は実はあの言葉通りの問いだけと考えてはいけないでしょう。それは質問者自身も気付かず、従ってその心持をいい表わし得なかったけれども、私がこれを分析すると、実は学生に向って「お前はこれに適しない」とか「お前はあれには向かない」と宣言したり、「甲の者は凡庸だ。乙は天才だから特別に遇すべきだ」というようなことは、ひと通り判定できるとしても、日本人の間ではそんなことを宜告し実行することができない。誰しも自惚をもっている。天性の優劣を論じて自分を劣等だと承認することを厭う。教師もその判定を宣告することを躊躇する。それを敢えてすれば不平が起り、同僚の間からも不公平の非難を受ける。すなわち質問者の心の中には『そんなことを決定することはとてもむつかしい、劣等の判定を下してそれで衆人(同僚や本人やその父兄や世人一般)を納得させることができにくい。これをどうすればよいか』というところに問題があるのだ」と私は説明した。
日本人は勝気で痩我慢が強い。実力はどうでも面目を尊ぶ。大和魂の一つの誤った現われである。これを始末することが容易でない。西洋では一般に人の判断を認め教師の判定に服するらしい。
「科学と工学」の講演は教育を主としたものでないのに、質間が主として教育についてであり、また他の題目の講演の時にその講演内容と直接関係ある質問が甚だ少く、全然別個のことを質問する人が多かった。教授は私に「あの質問に答えるには先ず以って別題目で二時間ぐらい話してからでなければ説明できない。しかもその別講演をするには相当時間をかけて準備しなければできない。今日は一言もあんな問題に触れなかったのに、あのような厄介な質問をされるのは困る」といわれた。
日本人の質間にこの傾同のあることは、先年来アメリカから講演者の来るたびに私の気付いていたことだから、バ教授の第一回講演のとき質疑討論に入る前に私は立って「アルプスの話をする人にヒマラヤのことを質問しないよう、それを尋ねたところで「存じません」と断られるばかりだから」と聴衆に注意した。にも拘わらず、講演事項とは別種の質間が盛んに出る有様であった。
なお一つ私が教授にいったことがある。「先日来の質疑を聞いていて、私は質問に一つのタイプのあることを発見しました。それは講演者から解説答弁を聞こうとするのでなく、質問者自身の説を述べようとするのである、しかもそれを意見開陳という形とせず質問の形をとってやる。自説を十ぺージも書いた人もあった。その説を述べ立てて、「どうですか」とこれに同意を促がすのである。つまり自説の裏書きを求めるのである。そのためバ教授から「一体御質問の主眼はどの点なんですか」と反問されて答えることができない。尋ねるつもりでなく自説を押し売りする行き方ですね」と。
教授は夫人をかえりみて、「なるほどそういった風の質問が多かったねえ」といわれた。はじめから質問とせずに自己の意見として発表した方がよかっただろうと思う。東洋的の謙遜態度で「御高見を伺う」というのはよさそうたが、西洋人にはわかりにくい。「君以て如何となす」という文句もあるが、自説に確信がないのかといわれそうだ。
教授はまた「大学が入学試験をする必要はない、高等学校が入学資格を検定すればその方が確実じゃないか」という。日本の入学試験地獄の現状を説明するのは面白くない仕事であったが、学校長の内申だけでは上級学校で信用しないことも説明しに(く)いことであった。ものの眞相を了解させることはむつかしい場合があるものだ。国民性が違うんだから、外国の人にはわかりません、というほかはない。
甲の役所にいる人が乙の役所に転じたい場合、また丙の会社から丁会社に移りたい場合など、新に招聘する方と本人との間に相談が纏まっても、元の勤め先が離して呉れない場合が屡々あるという話を聞いたバ教授は、「ドイツでは本人が行くといえばそれまでだ。足どめはできない。それを振り切って去ってはどうして悪いのか」という。
「日本ではそれを慎むのです。利害を考えても、どこかへ不義理となると後日の仕事に悪影響があるかも知れんと心配するからです」と説明したら教授は「それはめずらしいことを聞く、日本ではそんなのを人格の欠点とでも認めるのか。一体そんな話をいろいろ聞いていると、日本の社会ではよほど情実(悪い意味ではない)が尊ばれることを知った」といった。外国でどうだからとて、わが国でも必ずそのとおりでなければならぬとはいわれぬ。人情にも習慣にもそれぞれ特色があることだろう。
逓信大臣主催の招待会があった。バ教授夫妻のほかドイツ大使も来賓として来ていられた。大使が私にいうには、ドイツの放送を日本にいるドイツ人が直接聴きたがる。短波放送をきくことを許して呉れるよう逓信大臣に頼んで下さいと。私はその言葉のまま通訳しておいた。これを聞いてバ教授がいわれるには「外国の放送聴取を禁ずのはスパイを恐れてのことだろうが、不正を働く人間は許されようが許されまいが聴くだろう。ことに短波は目につくようなアンテナも要らない。一人の悪人を恐れて九十九人の善良な人間の便益を禁止しているわけだ。しかもその一人の悪人が聴いていないとは保証できないんだから結局何のための禁止かわから(な)くなる。発信は禁じてもよかろう。それを取締ることもできる。受信を禁ずるのは無意味だ」と。日本では果して無意味かどうかわからない。思想宣伝放送などもあることだから。しかし教授のことばは一応尤もではないか。とかく取締りにはこの類のことが多いものである。
「国内で最大の工業家は最大の研究機関をもつものだ。日本では大資本家の三菱とか三井とかの研究所が最大だろうと思って来て見たら、日本の資本家は研究所をもたぬ。それでは十年もする間に他の資本家に圧倒されると思う。」と教授は語る。
「研究によってのみ工業は成功すると堅く信じている。日本の工業会社はなぜもっと研究しないのか」と尋ねられると説明も与えぬわけにはゆかない。私は説明した。
「日本は金利の高い国であった、従って株式配当も一割以上数割に達したものだ。今でこそ金利は下ったが配当はまだ八分以下では承知されない。高い配当だけが事業家の目標である。研究は金ばかり食って、配当を増すよりも減ずると思っているから、よほど金が余らなければ研究に費やすことを考えない。外国のパテントを買って模造するのが配当増加の捷径だと思っているのだ」と。
教授は「日本も二等国でなくなってるのだから、それでは宜しくない。ドイツでは小さい会社で大研究所をもってるものが沢山ある。研究によらないで工業が成功するものか」といった。また「当然会社研究所のやるべき問題を大学や官立研究所でやっていることが不思議だ」ともいった。
なぜ日本では研究を事業成功の唯一の力と考えないのか。それは日本では事実そのような力とならないからだ。なぜその力とならないか。周囲の事情がこれを許さないからである。株主も研究を喜ばないかも知れぬが、会社内部でこれを許さないものがあるのである。研究を職務とする者の外はすべての人が研究を不生産的と考えているのだ。
ある程度以上に徹底して研究に努力すれば必ず引合うのだが、それまで徹底させないでこれを阻止する。若しも会社内のすべての人がバ教授のように、或はドイツ人やアメリカ人のように工業成功の途は研究の他にないと信ずるなら、必ずそのとおりの結果になるのである。
人々にこの信念ができていない。二等国三等国の状熊にあるのである。技術家の中にもこの信念をもつ者が少い。甚しきは研究家で居て、自らそんな効果のある研究は出来ないもんだという者さえある。研究論文というものを書いて自己満足し自己宣伝する気はあっても、それ以上の意義を認識しない研究家なるものがあるのだから心さびしいことである。
万年暦
アメリカから万年暦の創始者エドワーズ氏夫妻が日本へ来た。氏は多年自己創案の万年暦を欧米諸国に宣伝して、多くに人から「それは面白い」「それは有益だ」というコムプリメントを受けてすこぶる得意となり、文明諸国の議会で承認採決されることを望んでいる。この人の案では○月○○日はどの年にも必ず○曜日と定まっているから一枚の小さい暦で永久に使えるというのである。
氏は一週間七日の曜日をやめることは考えていない。五十二週間は三百六十四日である。そこで大の月(三十一日)を四ヵ月と小の月(三十日)を八ヵ月とすれば十二ヵ月で三百六十四日となる。六月末と七月初めとの間に一日を入れて、この日はどの月にも属せず、何の曜日でもない日とすべしというのである。四年毎の閏年にはこの日を二日取ればよい。こんなやり方をするならむしろ躍日を全廃して一ヵ月を三十日とし、十二ヵ月のほかに年末に五日の名無しの日を置くとか、あるいは曜日を存置して四週二十八日を一ヵ月とし、一年を十三ヵ月とすることも考えられる。一ヵ月二十八日は端数のようだがむしろ太陰暦の一月に近い。
世界の天文学者の間には、昔から世界暦の運動があって各国にその団体支部があるようだ。天文学者が理論的に考える限り、宗教上の慨習である七曜なんか重視しない。ソ連のように五日毎に区切ることも考えられる。現行の暦が二月は二十八日であったり、七、八月が続いて大の月であったり、極めて非合理的であることはだれでも知っているが。世界中の習償を改めることは至難である。一時代の大混乱を忍んで改正するからには、もっとも合理的で理想的な世界暦にしなければならぬ。エドワーズ氏の万年暦は一つの妥協であるが、それでも改訂に当っては世界中に大混乱を起すからその実現は期待できない。
世界暦協会の○○○女史は独身の老婦人で盛んに世界の名士をかついで運動しているそうだが、エドワーズ氏は日本に来て幾つかの大学で講演し、どこかの大学から名誉学位をもらいたいと希望しているとか。日本の眞面目な大学は学問的の講演とは認めないだろうし、学位贈与のごときは思いもよらない。とはいうものの戦後乱造された数百の新制大学の中には学問的判断カも低く、学校広告のつもりで外国人といえば学位を贈ろうとするのも絶無とは断言できまい。
古来民主主義において注意すべきことは衆愚の政治にならないように各人がものをよく考えることだといわれる。アメリカは自由の国だから何事についても随分勝手気ままな論が行われる。それが日本に通用されて大急ぎで六・三制を実施し、対面交通を命令し、サンマータイムを決定した。暦の改訂のごときはとくに慎重の研究を要する。科学の教えるところを無視して単に一般国民や代議員の多数決で事を決めると、時として文化の逆コースをたどるおそれがある。
ロジックあたま
君の話は理窟に合わんよというところを、君の話はロジックに合わんよなどという。ロジックは日本語で論理または論理学、理窟っぽいの意である。私はいま三段論法がどうのとむつかしい話をするつもりではない。
私のドイツでの先生バルクハウゼン教授夫妻が来朝されたとき、私は先生を案内して各地で講演してもらうついでに名所旧蹟をたずね廻った。そして日本の名所といえば神社仏閣が多いことを今さらのように感じた。名高いお寺は山上の不便な所にある。立派な神社に行くと車を降りてから砂利敷きの参道を長くザクザクと歩かねばならない。
教授夫人は脚が達者でなかったからとくに気の毒に思って「いつも参拝には難儀させますねえ」といった。すると教授がいわれるには、外国にだってお寺を山上の不便な所にもってゆく風がある。お参りするのに骨が折れるほどありがたく思うからだ。一体貴いものは得やすくない、そのため得がたいと貴いと感じることがある、それはまちがいだけれどもね。「逆は必ずしも眞ならずさ」と論理学や幾何学の初歩に出る言葉を使われた。逆、すなわち「得がたいもの必ず貴い」は眞でないのである。ロジックの頭がはっきりしておればそんな誤解をすることはない。高等学校の出来のわるい一生徒がやってきて、論理の問題に、雪は白しということを与えて「白きものは雪なり」は正か誤かというのが出た。それは誤だそうですがどうもわかりませんといった。そりゃ逆だもの必ずしも正しくない、「白くないもの雪にあらず」なら正しいじゃないかというと、どうもわかりません、よく考えましょうといって帰った。
良い品は高価なのが常だとて、高ければ良いとは限らぬ、といえば、高ければ良いのは常識だといわれる。なるほど世の中の多くの場合そうだ。安かろう悪かろうという言葉さえあるから。だが理屈をいえば、高いもの必ずしも良いとは限らない。ところで世の中では良いものは高いというのも必ずしも眞でない。だから話はめんどうになる。そこで常識といって確からしいところをつかまえて世の中は通ってゆくのである。
雪は白い、だから白いものみな雪だとならぬことは小学生にもよくわかると思う。それを成年になる頃に論理学という学問を教えて、その練習問題などというとわからなくなるのである。世上のいろいろのまちがいを見ていると、こんな単純なことが理解できない場合が実に多いのである。
日本人がデモクラシーを誤解するとか、迷信が流行するとか、外国人に「わけのわからぬ日本人」という印象を与えることのうち、ロジックがはっきりしておれば正される場合がかなり多い。だから私は論理の練習問題のような話を十一、二歳の子供に聞かせることが有益だろうと思うのである。
善でなければ悪、美でなければ醜、可でなければ不可というのが一般の考らしい。法律では有罪でなければ必ず無罪、そのどちらかである。日本人は法匪といわれるそうで、日常のことに法律のようなものの考えかたをするから頑くなな人間に見えるのであろう。
正と邪、曲と直、理と非理、相対するものはいろいろあるが、人を百人集めたとき、六十人が善人で四十人が悪人とハッキリ分かれるものではない。賢明な人が十人、愚鈍な人が十人あれば残る八十人は賢と愚の中間に属する。寒くない日も暑いと限らず、広くない室必ず狭いともいえない。富豪でないからとて貧窮でもなく、親切でない人必ずしも不親切ではない。優と劣の間、巧と拙の間、老若の中間、新古のどちらでもないものはいろいろある。明暗、勇怯、高低、そのどちらでもない場合を認めないのは窮屈で、敵味方のほかに中立あり、愛しないのは憎いのではない。有と無の間には中間が考えられないから有罪か無罪かになるが、ジャーナリズムではしばしば中間の存在を認めないで善でない者をすぐに悪として取扱うことがある。ものを誇張する結果、白でなければ黒と表わすようになるものらしい。こんなつまらぬことが世の中をめんどうにする。そう考えて、注意して見直していただきたいものである。
神輿の運動
神社の祭典に、あばれ神輿というのがあって、群衆の中を無鉄砲によろめき廻ったり、若い衆のけんかを起して女子供を怖れさせることは全国各地にめずらしくない。
ある年、奥州一の宮といわれる塩釜神社の祭りに、有名なあばれ神輿が町のある営業の家に突き込んで家屋家財をメチャメチャにした事件があって、警察と町当局との大問題となった。
被害者側では悪意による暴行だといい、神輿の世話方は不可抗力だといって争った。この事件の鑑定に東北大学の一物理学者が呼び出された。この学者は神輿の運動を力学的に説明してやるといった。神輿のような重い物をただ一人の力で動かせる人間はない。これをかつぐ各人はみな神輿の重量の何十分一かを担い得るに過ぎない。のみならず各人は神輿を重力に逆らって垂直に押し上げるばかりでなく、前後左右に互いに水平方向に押し合っているのである。しかも各人の心には何らの統一もないのである。
すなわち八方でたらめに多くの力が働くときに物体がどちらの方向に動くと保証することはできない。よって神輿はすべての人の意志に全く無関係な方向に運動し得るものだから、それが米屋の軒にぶつかろうが酒屋の店に飛び込もうが、それは全く不可抗力であると鑑定して、この事件を解決した。物理学上ブラウン運動というものがある。液体の中に浮遊する肉眼に見えないような微粒子を顕微鏡下に見るとき、その粒子が絶えず不規則な運動をつづけて止ることがない。これは分子が四方八方から突撃するため粒子が動かされるのであって、その運動は完全にでたらめであると言われる。これをブラウン氏の運動という。
前記の物理学者は神輿の運動をブラウン運動のように説明したのである。しかしここに問題となるのは、各分子は意志をもたないが神輿かつぎの各人は意志をもっている人間である。それならばこそ神輿は本宮から御旅所へ予定の道筋に沿って運ばれる。だから神輿の運動は粒子のブラウン運動と似た部分もあるが、類似でない部分もある。この差別を認めない学者は物理学だけ知って社会人事の複雑性を解しないものだと評する。それは果してそうだろうか。この学者が物質界の物理のみならず、それ以上に人事世事を解する達人であったればこそかく鑑定したのかもしれない。
軍隊のように訓練された神輿かつぎなら予定の運動から脱線することはあるまいが、統制の度が少なくなればなるほど、あばれ神輿となって右往左往し、あるいは逆行することもある。無統制の極限はブラウン運動となる。これは物質界のみならず人間界にもその例は多い。
人間の一人の力で負担し得ない重い仕事は当然多人数の団体で担われねばならぬ。社会の多くの事業が委員会や調査会の会議によって運ばれるのも当然であろう。その成果の良否はメンバー各個人の訓練と統制の適否によって定まる。いわゆる烏合の衆は個体を知って全体を思わず、自己の利害ばかり考えて他を顧みない。この種の衆に事を託すれば、祭の神輿のように誰もの思わぬ方向に走るかもしれない。今日の世相、神輿の運動に似たるものそれ何ぞ余りに多きや。
(昭和十一年)
洋行帰りの嘆き
評諭を書くものは建設的の提案をするよりもとかく泣きごとをならべ立てる。実行案を樹てるには独創力がいる。それを実行するにはさらに実力が要る。単に評論することは立案や実践よりもやさしいからせめて興味ある文章とか卓抜な見解を示すことが出来ればいいわけだが、それも出来ないとなるとついつい泣きごとをいい愚痴をこぼすだけになる。
外国旅行から帰った人は、外国社会のよいことをあれこれとひれきして日本社会の劣ることをなげく。近ごろ米人や英人が日本をみて帰国してからこっぴどく日本の状態をののしる話が出ているが、これと反対に日本人は礼儀止しいのか、海外視察談といえば外国のよいことずくめである。そしてとくに日本人の不作法をなげく人が多い。多分日本人が特別に劣等感をもっているためだろう。昔、中野正剛はロンドンから通信を送って、大英博物館は文化的の施設かと思ったら英国人は未開国を侵略した掠奪品をならべ立てて得意でいると批評した。杉村楚人冠は、米人がぺッぺッと所きらわずツバキを吐く、日本人はあんなことはしないと書いた。こんな無遠慮な人もあったのだ。先日坂西志保さんは新聞で日本の男女が公衆の中でいちゃつくと書いてなげかれたが、昔から日本人は外人が公衆の中で平気でいちゃつくのに顔をそむけたものである。敗戦後の日本人は西洋を見習っていちゃついているのである。ストリップ・ショウも日本の発明でなく西洋の眞似である。早大の野球選手がはじめてアメリカに遠征した時、帰ってから野球試合の最中にも水泳中にも口をモグモグさせるので、人々がなにをしているのかと思ったらアメリカからチューインガムをかむことを覚えてきたのであった。日本人の子供が西洋人の子供と道を歩いていた時、西洋人の子供がキヤンデーをだして日本人の子供に食べろといった。日本の子供は歩きながらものを食べないと答えて断わったら、西洋人の子供は、ぼくらの国の習慣だ、かまわず食べろといった。いまでは坂西さんが日本人は人前で平気でものを食べるといって嘆かれる程に、日本人の風習になってしまった。フランス留学から帰ったある学者は、久しぶりにみた日本の社会にあきれることばかり多いのを嘆いて、フランスはよいことばかりのように話しているが、半年も落着いて母国をみているうちに、国運の衰えつつあるフランスに比べて、敗戦のどん底にあるとはいえ、復興途上にある日本のよい点も少しは見えてくるかもしれない。
日本は貧乏国である。そして日本人は説法好きだ。そこで尊いお金を使って洋行したからにはなんか有益なお土産をもたらさねばならぬと考えて、自国人にいろいろ結構な教訓を垂れようとするらしい。それが行きすぎると西洋にはバンパンもいなければおめかけという女もいないなどという。どこの国の人も他国を見て帰って、外国を手酷く批評しながら、自国の事をクソミソにののしる事をしないのに、日本人だけが好んで自国に酷評を加えるというのは先天的に卑屈の根性がある為ではなかろうか。
光源氏のスポーツ
東北大学の中村善大郎教授の追悼会が仙台の西本願寺別院で催されてから会衆が別席でお茶を戴いていた。アーサー・ウオレーの源氏物語の英訳の話が出ていた。小宮豊隆君であったと思う。「僕はちょっと読んで見たが光源氏の遊びをスポーツなんて訳してあったスポーツはおかしいね」と言った。
人々は「ホホー」と珍しいような呆れたような顔をした。
私は思いだした『西鶴などに出てくる島原あたりでの遊蕩は英語ではスポーツというんだと』と私自身がウォレー氏から直接教えられたことがある。
話は遠く一九一四年欧州大戦の勃発に遡る。戦争のために留学地のドイツを立退いた私達はひとまずロンドンに落着いた。大学での自分の研究場所も定まり、仕事も緒についた頃タイムスに小さな広告を出した。日本でよろず案内に相当する数百件の小広告が虫眼鏡で見るような細かい字で何頁もべた一面に出るタイムスの第一頁に『人事』という欄がある。この欄は料金も他より高く、世間で『苦悩欄』というかアゴニーコラムと俗称する欄で「母危篤すぐ帰れ」とか「工面できた安心せよ」とか「A君よ永遠にさらば!」などとおよそ人世の苦悩らしい文句の並ぷ所である。この欄に「日本の一紳士は日本語を研究しつつある人には無料で援助する意志がある」と出したものである。
あの広告は貴方ですね、感動させられましたよ」と英国人臭い御挨拶をしてくれた淑女もあれば、遠くスコットランドのある学会の人で「怪しからん広告を出すものではない」と詰問的の手紙をくれた人もある。真面目らしい申込みの三件だけ相手になることとした。
一人は偶然にも自分と同じ専門学会の正会員であるというから日本語はまだ少しも知らない人であったが面会して見た。かつて印度にも濠州にもいたことがあるという初老年配の一見探検家風のあから顔の独身紳士であった。元来英国の学会でメンバーと言えば日本では学位に準ずる肩書きと考えたほどであるから専門学のわかる人かと思ったら何も知らない。しかし正会員は二セ者ではなかった。植民地の役人でもしているといかがわしいのを推薦しても充分調査せずに会員としたものらしい。この人とは滞英中交際した。今一人はモリソン夫人といって特製の文人らしい書簡箋の手紙で独棲の郊外の小屋へ来てくれとか、ピカデリーのライセアムクラブ(女ばかりのクラプ)で会いたいとかいう女手紙であったから、年寄り達は相当警戒せよと言ってくれたが会って見るとかつて日本にも来たことのある老婦人であった。世界一周の時の写真と記事とをしばしば雑誌「スフェーア」に掲載したこともあり、日本語を学ぶよりは日本事情について記事の種をとりたい希望であったらしい。この両人には英人風習を教えられたり、ロンドンと近郊とで歴史上の遣蹟やいろいろの社会施設などを見せてもらった。
今一人の手紙には『自分は大英博物館でビニオン氏の下に東洋美術の分類をやっている者である。日本文を読むことを助けてもらいたい』とあって漢字十字ばかり書いてあった。これがウォレー氏である。
面会して見ると生真面目で物静かだが多少偏屈らしいところのある同君は漢文は棒読みにてきて仮名交りの日本文よりも解釈し易い様子であった。 「近頃まで坪内士行君がいたのだがツェッぺリンが怖いのかイタリアへ行ってしまったので困っていた」と言って浮世絵の落款の文字や木版本の草書の読みにくいものなどを出して来て尋ねた。「いつか東洋へ行きたいから日本語の会話も習いたいが、差当り日本文を読みたいからと国華の記事や、ある時はスウェーデンポルグの哲学など単行本を持出して訳を求めた。迦陵頻加はカリョウビンガと発音すると教えるとそれの立派な絵があると言って極彩色の版画を出して来た。当分唐詩選をテキストにしようと定めたが私にとって幸いな事には大英図書館には日本語で書いた唐詩選の絵入りの解釈本などもある。同君は唐詩を見ただけでほぼその文字はわかるのであるが、日本語の説明文の方がかえってわからない、故事にいたっては私が説明して始めて了解し得た。
西鶴物や枕の草紙などを持ち出してくる日もあって、私も解しかねる事が少くなかったが、「心にくき」だの「雅致」「風流の道」「現金な奴」などを説明するには骨が折れた。現金で思い出すが、いわゆる「現なま」の英語がとっさに口に出なかったときに「ドイツ語のバールゲルドだが……」と言うと「そんならキャッシュだ」と言ってくれる。そんな風で細かい意味を説明するにはドイツ語もフランス語も役に立てば引張り出さねばならなかった。
ある男が遊里に出入して遊蕩に耽溺している事の説明に「ドイツ語でならば多くスピーレンした男という言葉があるが英語では適当な言葉を知らない」と言ったところ、ウオレー君は「その酒を飲み女に交わりただれた生活に陥いるのはスポーツというのだ」と言った。
スポーツといえば体育運動、運動競技ではないか、というと、それもスポーツだが日本の茶の湯でも支那の長夜宴でもスポーツだと言った。同君の説にしたがえば光源氏はもとより丹治郎や世之助は本当のスポーツマンである。
スポーツ精神、スポーツマンシップは日本に輸入せられてすこぶる神聖視されている。日本では何でも儒教的の精神修養に持って来なければ承知しない。柔道、剣道、弓道はみな「道」であって、「術」ではないという。茶の湯の遊びでなくて茶道であり、和歌道があり、書道がある。この流儀で英国流のスポーツマンシップを受け入れたのだから日本人の気に入りやすく本国以上に神聖なものに祭上げてしまった。商業的実利に真剣である英国人は競技は大好物だが、スポーツのことだもの勝敗が定まってしまえばそれだけで後はサッパリとして深くこだわらない。スポーツマンの心境は利害に超然としてもっばらフェーアプレーを尊しとする、スポーツはお殿様気分で楽しむだけのものさ、というのが英国人の考えらしい。日本人のように負ければ涙を流し、勝てば狂喜乱舞するのはあまり東洋的で英国人のスポーツ精神とはおよそ似てもつかぬものである。
試みに英語の辞書を開いて見るがいい、スポーツは戯れで道楽を意味する戯れ事にもいろいろある中に、アスレチックススポーツというのが戸外運動で、常に曇りがちの英国では戸外運動は一つの快楽である。すべての英国人はスポーツマンといえば馬に乗って狐を追いかけたり、婦人と交わって酒を飲み賭博で暮す人種と思っているのではあるまいか。
近頃わが国にも職業野球団ができてスポーツを考え直す者もあるらしい。帝大新聞で「スポーツマンシップというような学生用センチメンタリズムや応援団的心悸亢進」という戸板潤氏の文句を見た。これは日本での事だ。学生スポーツマンが職業人化するそうだがこれもスポーツが本来修身や体育よりも娯楽を生命とすることを諷するように思われるのである。
(昭和十一年二月)
天狗のわび状
南伊豆の下河津村の村長さんは古いお寺の住職である。この寺に伝わるものに河童の壷というのがある。むかし一匹の河童が命を助けられたお礼に献じたものと伝えられる。
ある日この壷を見せてもらったが、高さ一尺あまりの形も色もよい壷で、底に祖母懐と刻んであるから尾張の瀬戸で作られたものである。この壷の口に耳を近よせると松風の音が聞えるという。試に耳をすますとたしかに弱く磯の松風らしい音がする。私が音響学的に考えるに、壷の内面はよく仕上げられて形は均整がとれている。人が自分の耳を押えると耳の中で血液の流れる音が聞えるものだが、よくできた共鳴器を耳に近よせても同じ音が聞えるのでサラサラと松風の音と思われるのである。壷の口の縁で静かな空気の流れが極微音を立て、それが壷の共鳴で強められることも考えられる。
河童の壷の話でいささか伝説的の気分になっているとき、伊東市へ行って、ある禅寺で天狗のわび証文というのを見せてもらった。市の南部にある古い寺で、白ひげの立派な老師は高邁の素質をあらわしておられた。
和尚の話によると、むかし北伊豆に天狗が住んで旅人をなやますため全く通行する人もなくなった所があった。屈強の士がこの天狗を捕えたところ彼は罪をわびて、証としてその持っていた一巻を差出したというのである。
その巻物はかなり長尺で、ひろげてみると一面に細字の文章らしいものが達筆で数万字書いてある。しかし一字も読めない。隷書のような、一字として何の字と判読できない、それが毛筆のたて書きで数千行も続いて、どこが文の区切りかも明かでない。
大槻文彦先生から、これは朝鮮の諺文であろうという鑑定書が来てあるが、ある朝鮮人学者は、そうではない何だかわからぬといったそうだ。蒙古の文字か西蔵文字か安南文字か私にはまるで見当がつかない。梵字でもなさそうだ。
この巻物を大切に持っていた天狗とは果してどこから流れて来た人間だろう。昔の事としては文化の低いものと思われない。巻物は経文のようでもあり、同じ文句がしばしば繰り返されている。中には漢字のくずしたものと見える形もあるが漢文とも詩ともわからぬ。正に天狗のわび証文らしく怪奇である。
誰か有識の学者に見てもらうよう大切に保存されたいと老師に希望して寺を辞した。自信ある方は調べていただきたい。私はこれを音楽の楽譜だろうと思っている。野蛮人の持ち物らしくない。その音楽は単純ならざる器楽で、かなり手の込んだ長曲ということになる。伊豆の下田はアメリカからぺリーの来たところ。大平洋に突き出ている伊豆へは海を越えていろいろのものが渡ってきたとみえ珍らしいこと面白いことが多い。河童にせよ、天狗にせよ、とにかく古い日に生きたものの手から渡されたという文化的産物に接して、私は心に孤独を打消してくれる温かいものを感じたのである。
古代にも文化は流れ伝わった。今の飛行機やラジオやテレビの便利な時代に世界中の文化が交流するのはた易いはずである。それだのに、鉄や竹や紙やいろいろのカーテンでさえぎられて、人間の高い精神文化が自由に交流融合しないのは残念なことである。
(昭和二十七年)
私の人生哲学
大空を仰ぐと無数の星が見える。世界最大の望遠鏡で見るとどの方向にも星雲が見えるそうである。その星雲の一つはみな銀河系のようなもので、幾万の太陽系の集団だという。遠い星雲から地球まで光がとどくのに一千年以上もかかるほど遠いのもある(とい)われている。宇宙は実に広大であるが、その星雲よりもっと遠いさきの方はいったいどうなのであろう。空間の広さは無限で--相対性理論では有限ということだが--とてもわれわれの心で想像することはできない。
時間は、何億年前に始まって何億年後に終るか、時は無始無終だという。時の初めも終りもわれわれの心で想像することができない。私が中学生だったころ、一高の生徒だった藤村操という人は、この無限の宇宙や無限の時を自分の五尺の小体をもって知りつくすことはとてもできないと歎いて、華厳の滝で自殺した。天地自然はもとより人間が造ったものではなく、人間の力の及ばないえらいものだと驚歎してしまう。科学が自然を征服する、などいう人があるが、科学者はそんなえらそうなことをいう気にはならない。
人間以上の偉大な力がある。われわれは自然の深い恵みをうけている。ありがたいことだと私は常に考えている。私は十四歳のとき父に別れ母の手で育てられたが、未亡人になった母は深く仏教に帰依して毎日仏を拝んでいた。私も天地の恩、社会の恩、人の恩を感じて、報恩の生涯を送りたいものと考えていた。極端に気の弱い子供であった私は、このころから少し勇気をもちはじめた。
讃岐の庄松という無学だが絶対的に仏に帰依していた人の話を聞いて、その他力信仰に感動したこともあるが、親驚上人の歎異抄の中に「善人なおもて成仏す、いわんや悪人においておや」という文句を見て少なからず驚いたものである。悪人だって救われて仏になれる、善人はいうに及ばす、というのが私どもの考えかたである。ところが仏の慈愛はとても大きく、善人は成仏させられる、悪人はなおさら救ってやろうとして成仏させられる、というのである。神仏の絶大無辺の慈愛の心を信じる人のいうことばには、私たちの及ばぬものがあると大いに感服している。近年、科学映画の慈悲心鳥というのや、あげは蝶というのを見るたびに、造化の奥深さに心を打たれ、身の引きしまる思いで自分の傲慢な心を戒めている。私どものように理化学を研究する者よりも、生物を研究される人の方がもっと強く神秘を感じられることだろうと思う。
私は京都・東京・仙台で三人のフランス生れのカトリックの神父からフランス語を習った。仙台のジャッケ師の人格に数年間接することができたのは仕合せであった。三人とも私に宗教の話をされたことはないが、この神父たちの神に奉仕される様子から、ジャッケ師の生れ故郷の人たちはどんな人柄だろうかと思い、渡仏したとき師の出身地方へ行ってみたほど、師の心は汚れがなかった。私は早く父に別れたので一そう老師をなつかしく思ったのかも知れない。利己ばかり考えて、その日その日を暮す人は地獄にいるように心を労して、とかくしかめ面をしている。気が弱くてもののできない自分なんかは、一生御恩がえしのつもりで人のため世のために働き、犠牲になってもよかろうと思ったとき、急に勇気が出てきた。それ以来世間で、弱いもの、困っているもの、苦しめられているものを何とかできないかと考え、わずかでも社会をよくする仕事に働く人の手伝いでもしたいと念願している。
近ごろ人のいうヒューマニズムの考から、強い者勝ちの社会を改革して、おだやかに漸々と社会主義の世に移りゆくことを希望するようになった。英国の労働運動や社会主義研究の先輩シドニー・ウェップ氏の夫人ビートリス・ウェップ女史が英国の貧民窟の様子を悉しく調べられたことを読んだり、河上肇博士が貧乏物語という本を書かれたのを見たりなどして、社会で恵まれぬ境遇というものを無くし、勤労階級の不幸をなくしてもっと合理的にしたいと考えたりした。したがって私は闘争を激化したり破壊活動で流血革命をやることなしに、世人の理解を深めて漸進的に着実に、地獄のような強食弱肉の社会から、もっと住みよい和やかな社会にしたいものと熱望している。
私は弱い者のために希望を述べたり、力の小さい方の味方となつて論じたりするものであるから、とかく強者の気に障ることが多いようである。強者--たとえば政府当局--には逆らわない人が多いから、私などは常に無遠慮で気が強く烈しい説を吐く人間と思われるらしい。いうべきこともいえない者のために言行するのが、御恩報謝の道だと思うからやめることができないのである。憎まれることは不利益である。しかし憎む人よりずっと多くの人のためになると思えば、自分の損は我慢できる。