『蟻の咳払い』
八木秀次
修教社 1948年3月
再録『八木秀次随筆集』 玉川学園出版部 1953年5月
五十年前の大阪
船場は大阪の肺腑、大川は大阪の顔、天神祭にその盛装のすがたであつた。
堂島河岸の米相場會所の屋上で大旗を振る男がゐた。白旗と黒旗を右に三つ左に五つといふ風に振り廻す。生駒山の頂上でも二上山の頂上でも振つてゐる。兵庫から桑名の間、電信よりも早く合う相場の高低を速報する信號である。白は騰貴、黒は下落、旗振る數は何十何銭の騰落を意味した。これを見る方は望遠鏡でのぞいてゐる。新聞紙の相場欄にも高安と書かすに、黒ウロコ(▲印)と白ウロコ(△印)とで表はしてゐた。
夏の日の夕方の狭い木橋の大江橋や肥後橋には二三十人の人が西側の欄干にもたれて涼んでゐた。それは暮れ行く西の空を見ながら明日の米價を判定してゐたわけだ。土用入、土用二郎、土用三郎などの日、夕やけの西空に一片の黒雲が現はれても相場は上ると云はれた。勿論土用の天候は稻作に大關係がある。それよりも大阪から西を望んで天候の悪いことは兵庫への入津船の遅れることを意味した。瀬戸内海の和船運送には周防灘や播磨灘さへ難所であつた、相場というものは實際多數の人が上ると思へば上るものだから、この人々は天氣を見るよりも西を向いて人氣の向うところを見てゐたといふ方が適當だ。今なら外國電報やニユーヨルク放送で相場が影響されるやうなものだ。
九州の若松を出た石炭船の列が小蒸氣船に曳かれて内海をゆるゆると東へ進むとき、朝顔日記ならぬ明石の風待ちに一週闇も遅れたり難破したりした。その石炭を満載した小船が安治川口を入ると淡水の浮力が足りないため忽ちブクブクと、浸水沈没したなどといふこともある。
土佐堀川にいけすの料理屋船のほかに水屋の船といふのがつないであつた。各戸の井戸水が飲料に適しないとき水屋が一樽一銭二銭の飲料水を配達した。その水は大川の中央、浪華橋から上流、造幣局邊で汲んできたものであつた。寝屋川や堀川から來る水は必ずしも清くはなかつたが、大川の水に勝る清水はないと信じられ、中之島東端の剣先き邊りでは物洗ふ女たちが遠くから洗濯物をさげてきて賑はつてゐた。その附近に大阪城の築城石でできた木村長門守表忠碑が竣工してみると表面に一本の割れ目が著しく現はれたのは惜しいことであつた。それから二十年ほど後に天王寺の大梵鐘が竣工したときヒビ割れのできたのと同様、残念なことに思はれた。
堂島川では盛に水泳が行はれ、アツプアツプとやる水は透き通つた美しいものであつた。雑魚網を引く舟がすくひ上げると岸の人に賣つてゐた。もちろん大阪に赤痢の流行もありコレラの大流行した年もあつた。天満橋から浪華橋の間は川幅も廣く、天神橋から下流は夏の夕涼舟で川開きの賑ひが毎夜つづき、船中の三弦の音に打揚花火が景氣を添へた。天神橋から上流は八軒家に伏見通ひの爾輪汽船が發着して夕涼み氣分に合はなかつた。鰡釣も近頃と同じく盛であつたが、今のやうな濁水でなかつたから釣も心地よいものであつた。
二十一日は大師通りで大師雨、馬場町から天王寺あたり、ゾロゾロと一列の人が鬱金木綿の米袋をさげて績いた。體位向上の厚生運動といふ効能があつた。
郊外電車ができて半ちん(半額割引)の廣告で人を呼んでも『あんなとこ行て何になりまんね、早い話が五銭の電車賃だけかて損だつしやろな』と人が言つた。
出入りの婆やの娘にといつて主家の御寮人が簪を呉れても『そんな結構なもんさす身分おやまへんさかい勿體なうおます』といつて使はない。勿體ないといふ心は有がたい心だと思ふ。生馬の眼をぬくといふ都會にも随分お人好しも馬鹿も多く居た。舊家には忠僕忠卑などがゐて、一生を主家に捧げるのも京大阪に尠くなかつた。
この地方に他力信心に徹した男女が多くて、とてもかなわぬ心地がしたものである。高級僧侶が堕落してゐたある時代のこと、坊主はウソをつくから嫌だと言つたら、『坊さんはウソをつかれても阿みださまに決してウソをつかれませんよ』と年寄りに言はれて引さがつたことを思ひ出す。宗教的氣分は京阪氣分の一つであつた。
この時代と今日とを比べると、五十年に斯くも變るものかと驚かれる。
今から五十年後の大阪が今とあまり變らぬだらうと考へることはできない。五十年後に今日をふりかへつて見たら、何と野蠻未開で非文明な都よといふだらう。電車に乗つてみるがよい。交通地獄か焦熱地獄か餓鬼道か、郊外電車に電氣時計のあるのがない。人を貨物のやうに扱つて、すし詰めにしてゐる。不潔、非衛生の都、野蠻の様相は至る所にあらはれて人は恠まない。五十年後になつて尚ほこれをしも文化の發達した立派な都市生活だと思ふやうだつたら國民の進歩、國力の發展が充分でない證據だと謂はねばならぬ。
(後記。これが太平洋戦争より前に書いたものである)(昭和十六年・大阪學士會誌)
鰡:ぼら、鬱金:ウコン、簪:かんざし
戦災のあと
元祿二年の夏五月。芭蕉は奥の細道を石の巻に迷ぴ込み、宿かす家もなく、やうやうにして平泉にたどりついた。
三代の榮耀一睡の中にして、と藤原氏の昔を偲びつつ
偖も義臣すくつて此城にこもり功名一時の叢となる國破れて山河あり城春にして草青みたりと
笠打敷て時うつるまで涙を落し侍りぬ
夏草や兵ともか夢の跡
と書き残した。
終戦後ここに一年、都の焼跡に麥は刈られて今南瓜は花ざかりである。詩趣を味ふにはあまりに深刻な飢餓に脅かされて、われわれには涙も湧かない。
日本人は悲劇好きであつた。軍物語でも好んで敗戦を劇化し、芝居を観ても義太夫を聴いても泣かされねば満足できなかった。忠臣蔵は人の死ぬ場面ばかり、浄瑠璃には毒々しい悲劇が幅をきかせる。日本人のこの芝居氣が輕々しく戦争を好ませた傾きなしとはいはれまい。
この數年間、小さい戦争文學は現はれたかも知れぬ、しかし題材として大きい戦争は大文豪でもなければ手にあまる。今度の戦争のやうな絶大の悲惨事件は小さい戦争文學をいくつ寄せ集めても扱ひ切れない深刻さをもつものである。文士諸君如何ですかと問ひたくもなる。
武者小路寳篤氏が朝日(七月八日)に出された随想から一節をぬきだしてみると
「日本人はいつも樂観したい國民であり、いつも神に甘へたい國民である。現實の深刻さを深刻のままに静観することには耐へられない。」と。
そして「考へるのは面倒だ、どうにかなるだらう」といふ風な生活の仕方になれてゐるといふことである。
それは戦争遂行にも戦後の生き方にも現はれてゐる。そんなことでなく、誰か新しい「戦争と平和」を書いてもらひたいものだ。
ローマの僧ギボンは廢墟と化したローマの姿をながめて芭蕉ならぬ熱い涙をハラハラと流した。そして若い胸に深い感慨を秘めつつ筆をとりはじめ、幾十年を費してそのローマ衰亡史を書いたといふ。稿を終つたとき若かりしギボンは既に老僧正であつた。この一つの著述事業そのものさへ深刻な悲劇ではないか。
大日本帝國が日本國となるの記は將來幾十冊の書物となるであらうが、自分はいま敗戦の眞相を徹底的に明かせよといはれる戦争調査會の一つの部會を擔當して、劇としてながめる餘裕もなければ、その中に詩を求める氣分にも到底なれないのである。
まことや、大なる悲削は涙を乾かせるものと知つた。噫、
(昭和二一年八月。東北學生新聞)
夢を見たがる
ある家のあるじ夫婦が四五人の子女を集めて、家庭も民主化という時代になったんだから、お前たちの望むことを皆で相談して両親へ申出るがいゝと言ったと思いなさい。大学生から小学校二年生までの息子と娘とがいろいろ論じて両親へどんな希望をのべたか。
家計を一切僕たちに任せてはどうですか、というのから、ピアノを買いたい、オートバイを買いたい、写真機だ空気銃だとたくさん注文が出て、応接室をピンポン室兼麻雀室にすること、お父さんの書齋を子供の読書室とすること、庭に南瓜や芋を作ってあるのをやめてバラ、チューリップなどを作り文化的園芸をやること、できれば隣りの畑を買入れてテニスコートを作ること、家族一同の映画観賞日を定めるなどと盛んな申出でであった。五百円生活に苦しんで相当古着を手離した両親はたゞ顔を見合せて何も言えなかったと言う。
ある大都市では戦災復興が十年かゝるか二十年かゝるか、それともながく小都市となるか予想がつかない。そのとき市の従業員組合と労働組合とが一つになって待遇改善、危機突破資金支給を要求して市当局と争議に入った。平均月収壱千五百円を給せよといい、壱千円以上は出せぬと争った。当局の申分によると壱千円以上出しては市の財政が立ち行かない、増収を計る途も全く絶えているというのである。実際それがこの市の実状であると争議団側でも承認して争議はようやく収まった。
ところが市当局は新たに三四十名の有名人を招集して文化都市建設委員会を作り、市民の声として当局に對する希望案を出してもらいたいといった。
文化委員たちは幾つもの専門分科会を作りさらに二三十名の臨時委員を加えて大いに検討した結果、すばらしい文化建設案を得た。体育だの芸能だの宗教だの科学だのとまことに雄大な案を作製した。
市内に数箇所の文化ビルを建て、各々音楽堂、美術陳列館、図書館、演芸場、社交室など至れり蓋せりの施設をすること、数億円を投じて国際運動場から各種運動設備を完備した数十箇所の体育場を作ること、市営劇場、市営映画館を数十建設し経営すること、音楽、美術、体育の専門学校ならびに研究所を建てること、綜合大学、女子大学を作ることなど、国の事業としても新設増設を十分まかない切れないほどの夢想案が出来上った。
この答申案をひねくり廻しているのが前の争議で市の財政の極限まで給与を出させた吏員たちである。案に適応する予算を計算しながら、まだこんな資金を生み出す余地がどこにあるのかと自分らの眼を疑ったという。
人間は落ちぶれてその日の暮しにも困るとき、せめて夜中寝ているときだけでも、夏は北方の山地に、冬は南海の浜に豪奢な別荘を建て貴族富豪の生活をする夢を見たがるものだ。
民主時代だから市民の声を聞こうというとき、市民は市の実力も考えず生活の現状もかまわずに、戦前の隆昌時代にさえなし得なかった文化施設を市に要求するのであろうか。するかも知れない。しかし市は市民が構成しているもので、市の事業は市民の負担であることを考えたなら、市民再起のためまず衣食住から解決したいと要望するであろう。バラックさえ思うに任せぬ時に夢を説くのは虚脱に陥った人のことだ。
委員たちに言わせると『日本人はとかく現実にとらわれて永遠のことを老考えない、今日のような時節には殊に現在事情を重視してはいけない』と。これと正反対に『日本人はとかく久遠の夢を見て現実を無視し、その罰として敗戦の苦痛まで味わった、今こそ現実に即して物を考えるべきだ』と言っては誤りだろうか。
民主主義はめいめい勝手な要求ばかり出すことではない。各人が義務と責任とを自覚してこそ民主主義が健全に行われる。市民多数の声は果してどちちであろうか。
平和・科学・婦人
平和
恒久平和は可能か?日本人がこれから平和を考える時に、まず私達はなぜ今までの世界には平和が保てなかったかということを考えてみる必要がある。戦争の社会的、経済的根拠を論ずるのは私の任でないからさて置き、元来動物の世界で闘争をことゝし喰うか喰われるかの猛獣は概して孤独に棲み、これに反して平和を楽しむ牛馬鹿羊の類は共棲している。
然るに人類は共棲であるに拘らず、噛み合いか絶えない。人間は平和を愛する反面、絶えず戦争を続けてきた。
イギリスの世界帝国も、列国に先んじた産業革命を楯としたとはいえ、武力を背景に作られたもので、わが国の徳川三百年の泰平も内輪を見れば各大名は武力を擁し、その聞小競合は絶えていない。人聞には神的なものと悪魔的なものが共棲しているといわれる所以であると思う。いっぱんに真の文化人、思想家等は前者に属するものだが、その実際的勢力は微弱だった。
要するに人民の多数が戦争を嫌悪し、紛争の解決に武力行使を廃棄すべく、政治的にも民権が確立されることが平和確保の大前提であろう。今度日本が、このような亡国状態に陥ることになったのは、そも/\戦争とは、如何に怖ろしいものかということをわれ/\が知らなかったからだ。
これにはいろ/\の原因があるが、第一に、明治の開国以来はじめて、日本は、欧洲の列強というものが、それぞれ本土外に広大な植民地をもって覇を争っている有様を見て、そういうものに非常に魅力を感じた。これはどうしても強大な武力をもってどこの国と戦いをしても負けないように国力を強め、武威を四隣に輝かせねばならんと考えた。これがそも/\大それた願望だということには、その時だれも気づかなかった。
気がつかぬどころか次に起った日清日露の両役で国際状勢に恵まれ、思いがけない大勝利を博したものだから、ここで日本は大変な天狗になってしまった。その時のことを考えると無理もない話だけれども、そも/\これがいけなかったのである。
第一次世界大戦が終って、終始その全精力をこの戦争に傾けた欧洲各国はほとんど完全に打ちのめされて、もうつくづく戦争は嫌だと思ったが、日本はこれによって漁夫の利を占めた。日本は一躍戦争成金になってしまって、天狗がます/\天狗になり、まさに、これあるかな、と感じるようになったものだ、さっき言ったように、第一次大戦はじつに有史以来初めての大消耗戦だったので、ドイツは無論のこと戦勝国のイギリス、フランスなど列強の国力は疲弊の極に達した。そこでなんとかしてもうこんな怖しい戦争というものを、二度と再びこの地球上に起らせないようにしようという各国民の希望から考え出されたものが例の国際聯盟だった。ここでやうやく世界は戦争の惨禍を免れ、永久の平和にはいったかと思われたけれど、またそれが無駄骨になってしまった。
そも/\この国際聯盟なるものは、当時アメリカの、大統領ウィルソンがいい出したものだったにも拘らず、アメリカはついにこの聯盟に加盟しなかった。これは大変奇妙なことであるが、今もいったように第一次大戦で漁夫の利をえた日本と、アメリカとは、その時ヨーロッパ各国に生れた厭戦とか反戦とかいう思想が、それ程深刻なものとして感じられなかったのだ。
ところが、イギリスをはじめヨーロッパの各国は、戦勝国であるにも拘らず、もはや戦争という暴力によって、一国が他の国の領土を取り上げるとか、ある民族が武力によって他民族を治めて、それを奴隷化するというように他民族を未開人扱いにし隷属化することはとうてい不可能であり、結局のところ自分自身を不幸にするものだということを感じ始めて来たのである。人類とはそのように創られたものではない、これではいけない、もっと/\神聖なものであり、理性的でなければならぬということを深刻に感じてきた。あらゆる民族は人類としての平等の立場から地上に生きる権利を持つのが本当であって、お互いに他を征服し、圧迫し、これをくり返しているのでは、人類を破滅に導くほかないことが判ってきた。
しかし、かうした気運から生れたにも拘らず、第一回の国際聯盟は美事に失敗した。それは日本も、そして米国でさえもがヨーロッパ各国ほと、戦争に対する憎悪感が徹底していなかったことと、聯盟の善後措置が敗戦国の民主勢力の育成になくしてかえって復仇心をうえつけたこと、そして聯盟の秩序はいわゆる『持てる国』の利己的な平和となりがちであったから『持たざる国』の不満は刺戟された。これに乗じて日本では軍閥か跋扈し、ドイツにはヒットラーというファシズムの梟雄が現われた。それにまた、聯盟本部が武力を持たなかったことも原因の一つであろう。今度の国際連合が強力な武力警備を持つことになったのはこれに鑑みたからであろう。
このような有様で、アメリカは連盟に加盟しなかったし、また自分の武力的成功に野郎自大となった日本がナチスと共に大見得を切って聯盟を脱退したことは不幸な事であった。
日本が満洲から全中国に歩一歩、侵略を続ける。他方ではドイツがみる/\うちに軍国として復興し、ついに第二次欧洲大戦が勃発したが、その緒戦でナチスがしめした電撃戦を見て、日本はすっかり戦争の魅力の囚となって、対華侵略はとことんまで拡げることになる。三国同盟は結ぶ、そして自ら求めて太平洋全域に戦争を拡大して行った。
その結果たるや武力を盲信した日独が民主主義連合軍の武力の前に完膚なきまでに叩きつけられたのであるが、今度こそ私たちは目を醒さなければならない。今度こそ、私たちは平和がどれだけ有難いものかゞ判ったはずである。
さきに云ったように、人聞には神性と獣性の両面がある。言葉をかえれば仏様のような心と悪魔の心とである。平和を好む心は神性で戦争(特に他国の侵略)にはしるのは人間の悪魔性がさせる仕業だ。日本は長い間仏様の心を眠らせて、もっぱら悪魔の心に身を任せるという大きな誤りを犯していた。今度戦に敗けてやっと私たちを支配していた獣性を捨て去らねばならぬと皆の人たちが考え始めてきたことは大変結構なことだ。
しかし、それでもまだ、今までの観念が抜け切らないので、米国とソ連が戦争をはじめるだろうなどと勝手な憶測をして、喜ぶものがある。これが大きな謬りである、アメリカはもちろん、ヨーロッパでもソ連でも戦争を避け、平和を確保しようという気分が圧倒的に強い、特に一番その犠牲となる勤労階級の間に然りである。ソ連も思想による新世界の精神革命に重きをおいていると考えられる。国家よりも、人民のための人民戦線に重きをおいている。思想攻勢は武力行使とは別な問題である。私見を云えぽ、私は米ソは戦わないと考える。敗戦亡国の憂目にあって一番骨身にこたえたはずの日本人が今なおこんなことを考えているのでは救われない。私たちは武力偏重の思想を棄て去らねば救国の道はないのだ。仇打心理は地獄である。
世界平和の確立を目標とする国際連合が武力を備えることを以って、同胞の中には『それ見よ、やはり文では駄目だ、武力がなくてはならぬ』というものがある。これは連合の精神と機能に対する無理解から来たものだ。神でない人間の間には悶着が起る、これを戦争に訴えさせないために連合が最強の武力を備えるのである。この武力は文治のための平和維持のための武力である。こういう風に世界中の考え方が、変って来ているのである。殊に日本は、すべての武器を放棄することゝなったから、どんなにじたばたしても、今後再び戦争することはできない。これが現実だ。しかし武器をとり上げられたから戦争しないというのではなくて、人間の仏性の面を高める見地からわれ/\は進んで武装を放棄すべきである。
また新たな世界の新風潮として敗戦国も植民地化されることはなく、また従来の植民地、半植民地をも民主々義精神によって、その独立と解放を援助しなければならぬという風になってきたし、国際連合はこの理想を組織的に取り上げて制度化することゝなった、聯盟の委任統治に対し連合の信託統治はこれをしめすものである。植民帝国であるイギリスでは前大戦以来この風潮は表面化して来たが、今次大戦を経ていよ/\明確な形をとる傾向にある。高度の自治を許容する、あるいは自治領の地位を与えて植民地の地位を向上するだけではなく、進んである国々には独立の地位をも約束し、実行しなければならない。今まで通りではやって行けぬことゝなった。日本人の多くはこれを見て英帝国は老朽化したと形骸の一部のみを誇張するが、他民族を武力で押さえて行くわけには行かない。その進歩、独立を許さねばならぬという進歩的な面、これが肝要な点である。
世界の恒久平和を希う気持が普遍化して来たことは、人類の発達を意味する。これは単に経験から学んだだけではなく実に人間の神性から出たもので、今度の国際連合も全くこれから出てきたものである。アメリカ、イギリスをはじめ世界の各国はすべてこういう高い気持になってきている。日本はこれをよく理解しなければならない。人民の多数が、そして人類の多数が真に平和を翹望し、そのために力を合わせるならばかならず平和は維持されるはずで、私は恒久の平和の可能を信ずるものである。
科学
アメリカが科学で勝ち、日本が科学で敗けたということは、もっと根本的に考えて見る必要があろう。果して日本は科学が劣等であったために敗けたのだろうか?日本の敗因は、それよりも、もっと奥深いところにある。つまり日本人が、科学そのものよりも、生産力を含めて全般の能力が米国人と較べて劣っていた点にあるのだ。科学そのものよりもその科学を進め、科学の効果を百パーセントに活用する人間の精神すなわら科学精神が劣っていたのである。この点は科学者はもちろんのこと、もっと一般の人たち、すべての者がよく考えて見なければならぬことだ。
今度の戦争を支配したものは科学だという理由から、我々は真の科学の効用を誤ってはならない。科学は決して戦争のための武器ではない、元来平和的なものだ。
現在の地球上には持てる国と持たざる国とがあるが、そういうような国家間の不公平とか不満とかを科学の力によって解決し、本当の極楽浄土を創るということが科学の真の役目だ。
原子爆弾を使って戦争を終結させるということは、たしかに一つの重大な仕事ではあるが、これは科学の目的ではない。科学は人類の平和に貢献するものてなければいけない。さっきもいった通り、人間社会には、まだいろ/\の不公平があって、たとえば、ペニシリンなどというようなよく効く薬を、アメリカなどではどんどん使って病気を癒しているが、文明国でない国はそうじゃない。また、今度評判になったアメリカ軍の使用している空中から撒布する殺虫薬は非常に効目があるが、害虫と同時に、これは必要な益虫をも殺してしまう。科学の発展は目醒しいものがあるが、今日到達した程度の成果は今後発展すべきものゝ百分の一にも達していないのではなかろうか。
例えば日本は今日の観点からするならば資源はまことに貧弱で持たざる国である。またある資源はあっても今日の資本主義的利潤追求の経済方針では、採算がとれないから捨てゝ顧みられない。しかし今後科学がこの方面でさらに発達をすれば日本は日本だけの資源、食料で優に八千万の人口を養うだけでなく、かつよき生活を樹立することは決して夢想だとはいえないのである。
かういう風にまだ/\社会には研究の足りない面や、不公平の面が多々ある。科学はこうした欠点やら不平等を克服し、真に万民幸福な民主々義的社会生活を営むことが出来るように研究を進め活躍するのが本務なのである。
科学者の立場から云っても、殺人機械の発明に腐心するより人類の生活、文化向上のために身を挺して努力することの方がどれだけ生き甲斐があるかはいうまでもないところである。
このためには、たゞ一つの国だけで科学を進めるだけではなく、諸国家間の逆境をなくすためにあらゆる国家が相堤携して研究して行くべきものだ、科学のサービスは、国家を戦争に勝たせるためではない。そんなことは大変な邪道である。人助けをするのが科学だ。特に我々日本人はこの点をしっかり考える必要がある。
婦人
今、世界のリーダーの立場にある国々の人々は、なんとかして、世界を永久に戦争の惨禍から救い、平和を確立しようと希っている。我々は是非この気持を理解しなければならない。
婦人は元来平和的なものである。進んで戦争をしようという女の人の事を、だれも聞いたことはない。だから今度敗戦後の日本で、婦人參政権をはじめすべての面で女性の地位を高め、女性の発言を重視するようになってきたことは、非常に慶賀さるベきことだ。戦争を好む女性が存在しない以上は、女性の地位が上って、また日本が好戦国に帰って行くなどというこことは考えられない。これは一つのキイポイントだ。日本はこの機会をしっかり捉えなけれけば嘘である。日本はこれから武よりも文の国にならなければならんということがいわれている。まさに女性は武よりも文のものである。
それについては、こんな話がある。私が戦争の末期、東京で或る女性の集りの席上で、「特攻隊員の若い有為な青年達がこんなにも沢山死んでゆかれるということは科学者の自分としては、全く忍び難いことだ。なんとかして生命を捨てないでかならず敵をたおすことの出来る兵器を創り出したいが残念なことにまだそこまではいかない。これは全く我々科学者の責任で、私たちはこの点に実に恥入っている。」という意味のことを私がいうと、それまでざわついていた席が急に、しーんとなった。その時、私はなんともいえない気持になったが、私が今になって、そのことについて思うのは、あの時期に日本の婦人がもっと、はっきり高い声で、「私たちの夫や子供をこれ以上もう殺さないようにしてくれ。」ということをいってくれたらよかったということだ。あの時女の人たちが、そんなことをどん%\発言したなら、あるいはもっと、なんとかなっていたかも知れない。恨めしいことだが、昔のことをいっても仕方がない。だから将来のために私たちはこの機会を逃さないようにしなければならない。
女性の参政は時期尚早だとか、日本の家族制度の見地からみて、そう急に女性の地位を上げるのは不適当だという声をとき%\きくけれど、それこそ大間違いだと思う。婦人の地位が高められて、女性の発言が認められたことは、この上ない結構なことなのだ。平和国家を建設する為には、まず平和の使節である女の人たちを大切にしなければならない。
(昭和二十一年六月・時論)
消極的罪悪
永年貴族院の勅選議員であった某私立大学の総長が私にいわれたことがある。
世人は、今まで貴族院を何かと批難するか、過去数十年の間、衆議院こそいろ/\あやまちを仕でかし、多くの罪を犯した。貴族院は常に衆議院のあやまちを正す役目をしてきたが、たゞの一度も悪いことをしたとはないのだと。
私はこれを開いて、ものゝ考えかたにいろ/\あるものと驚かざるを得なかったのである。積極的行動によって悪事をするだけが罪悪というものではない。これに対して消極的罪悪というものがある。為すべきことを為さぬことが大きな罪悪である場合が多々あるのである。
世人が貴族院に対して満足しなかった点は貴族院が積極的罪悪をおかしたということではない。消極的罪悪に陥ることが多かったというのである。翼賛政治会や大日本政治会に属した議員も多くあったが貴族院の任務であるところの、政府や衆議院の大失策にブレーキをかける働きを盡さず、いたずらに拍手ばかり送ったのは顕著な事実である。
政府にも議会にも、官公庁にも、国民にも、消極的ざい悪は数限りなく多い。しかもその害の及ぶところは極めて甚大である。まさに云うべきことを云わず、まさに為すべきことを為さぬ、この無の責任風潮を日本人一般の風としたのは「謙譲の美徳」という東洋道徳の影響もあったであろうが、むしろ「保身の術」と称して、封建時代から被圧迫民族の習性となった、きょうだ卑屈の利己的性格からきたものと思われる。
民主主義、民主化が合言葉となった今日、二種の弊風が各方面に現われている。その一つは自己の意志を貴ばず、もっぱら云わず行わずの態度をもちつゞけるものである。他の一つは極端に自由解放を求めるのあまり他人の意志を貴ばず、多数者をじゅうりんして少数意見を押しつけ、専断し強制し命令しようとするものである。
例えば、労働組合の健全な発達を切望する私たちの目に、いろ/\不健全性として映ずるものがある。それらは多数者の消極性と、少数者の積極性の行き過ぎに原因していると判断されるのである。もしも世人が消極的ざい悪に陥ることを恐れて、積極的に云うべきことを云い、行うべきことを行うならば、この二つの弊風はかんたんに消滅するのである。
封建社会の道徳にさえ「義を見てせざるは勇なきなり」というのがある。民主社会の人間としては、意志の自由尊厳を確信する心さえ強ければ、消極的ざい悪をおかさないだけの勇気が当然湧き出なければならんのである。悪いと感じつつ、他から強制されたり、自分の意見をふみにじられながら、ふら/\と悪に引きずられるような過ちをおかすはずはない。同時に他人の意志をふみにじることもできないはずである。
(昭和二十二年九月・青信倶樂部)