Up
Down
Return

Four generations of the Ueki family

植木雨鼎   うてい

 植木雨鼎、諱は文剛、字は公貴、簡修と称して、雨鼎は号である。氷上郡山南村小畑の人、遯窩の長男で篤学を以って聞え、大阪の岡田南涯に学び、その他有道の士に就学し父祖の家学を大成し、医業の傍ら徒を集めて教授し、近畿知名の文人と往来し、殊に菅茶山と深く交り、茶山の著「筆のすさび」に雨鼎の詩話を載せている。雨鼎は最も詩書を能くし、一日百首の詩巻を作り、岡田南涯が序文を作った。文政八年正月讃岐の琴平、安芸の厳島に遊びて諸芸記行を著わし、これを猪飼敬所に見せ、敬所はまたこれを大納言日野資愛の御覧に供して賞賛された。京都の巌垣竜渓の師友十人が来遊して牧山十勝の詩を詠じている。天保九年四月十九日死す。年五十三。


植木環山   かんざん

 諱は友風、字は士雲、環山と號した。別に玉堂・班竹の號もある。通称は教之助という。本村小畑の人である。四世の祖玄郷名は重厚、字は三意・桂谷と號し後に遯窩と號した。幼い時か学を好む、家貧しく其志を就することを得ず、若林文平玄郷の志に感じて之を教え又資を投じて京都に遊学せしめた。修学の傍医を学び、後皈って醫を業とし余暇に教授し靜壽堂と號した。
 その子桑園、家業を襲ぎ四方に遊歴す。最も詩に巧みであった。その子雨鼎と称し又篤学を以て名高く広く四方に遊び有道の士に就きて研学し父祖の学を大成した。又近畿知名のLと往来盛んで殊に菅茶山との交りは最も深かった。環山はその長子である。弱年から京都を出て、猪飼敬所、巌垣松苗の門に入って学び郷に皈って父祖の業を襲ぎ、傍ら子弟を教授した。後、学半館を起し専ら教育に努めた。粟鹿池田侯仕官させようと招いたが之を辞退してその子退蔵に代り仕えさせた。性温雅で人に接するに障害を設けない、苟も来り学ぶ者は何れも諄々と誨えて倦まなかった。近隣に愚鈍なるものがあったが毎夕之を伴い皈って誨えた。家人はその効ないことを笑った。環山曰「否、天下に我家の葛石を蹴く者はない、慣れているからである、之も又慣れさせるのである」と。
 環山詩を好み、其の稿数十冊もあったが、不幸焼失した。又和歌を好み、源画をよくした明治十五年七十四才で歿した。
 環山の師友である文人墨客の京都から来遊するもの多く次に掲げるのはそれらの手になった牧山十勝の詩である。
篠峯晴雲。巌垣彦明、号龍渓、京都人ほか
 京都・若狭・丹後の十人。(省略す)
 山本・難波醇氏宅、屏風にあり。


 植木環山、諱は友風、字は士雲、環山また玉堂、班竹と号した。氷上郡牧山小畑の人、雨鼎の長子である。弱冠にして京都の猪飼敬所、巌垣松苗に学び、父祖の業を襲ぎ、医療の傍ら徒弟に教授した。遠近より集る者が多かった。後に学半館を起し專ら育英に従事した。東都の安積艮斎が学半館の額を書き、篠崎小竹が門柱に聯句を揮毫した。環山は性温雅にして、荷も来り学ぶ者は愚鈍なる者でも諄々教えて倦まず、最も漢詩を好み、和歌は野々口隆正に学びて詩歌を能くし、書は初め天真に習い、後に王義之を習って、書画共に美しく、需に応じて揮毫した遺墨多く、詩稿は数十巻に達したが、明治十六年閨秀詩人岸川湘烟女史(衆議院議長中島信行の夫人)が遊説に来て環山詩稿を見て歎賞して、終に成島柳北の校閲を経て上梓することを約して東京に持ち帰って火災に遇うたという。明治十四年三月五日歿した。


 年七十四。門人等が墓地に左の詩碑を建てた。
  甘伍寒山荊棘叢、参差翠葉飛蓬々、独将碩石同此操、穆々終全君子風。

植木環山氏、諱は友風、字は士雲、別に玉堂班竹の号あり、通称教之助といふ。氷上郡和田村牧山小畑の儒医雨鼎の子なり。猪飼敬所巌垣彦明の門に學び父祖の業を襲ぎ傍ら子弟を教授す。播州粟賀池田候より招かれしが辞して其子退蔵(斗南と号す)をして代わって仕へしめた。環山最も詩書を能くす。曾てかつて中島湘㷔なかじま しょうえん女史が和田に遊ひ其の詩稿を見て嘆穪成島柳北に校正せしめて上梓を約して持ち歸りて紛失せり。惜い哉。明治十四年七十四歳で歿した。

篠山新聞社『多紀、氷上人名鑑』篠山新聞社 昭和8
(国立国会図書館デジタルコレクション:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112553/133 コマ番号=232 2015/04/20)

植木致一(おきかず?むねかず?むねいち?)

植木致一氏は氷上郡和田村の儒医植木環山の長子なり。板垣退助の自由黨を起するや直に之に投し、片岡健吉、植木枝盛、河野廣中等と奔走す。郷里にては村長縣會議員となり公共の事に盡力し卅一年衆議院に擧げられ傍ら新聞事業に従事し卅九年五十九歳で歿した。

篠山新聞社『多紀、氷上人名鑑』篠山新聞社 昭和8
(国立国会図書館デジタルコレクション:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112553/133 コマ番号=231 2015/04/20)


植木致一小伝

 植木致一は匙水また鉄城と号し、氷上郡和田村の儒医植木環山の長男である。初め家学を修め、但馬の池田草庵に学び、明治二十三年立憲自由党に与みし、四月総理板垣退助を招きて政談演説会を開き、氷上自由倶楽部を組織し、同志片岡健吉、植木枝盛、河野広中等と奔走し、郷里に於て県会議員また村長となりて、公共の事業に力を尽した。三十一年衆議院議員に当選し、傍ら新聞事業に関係し、三十四年後重の英才田健治郎に譲って勇退し、明治三十九年八月十六日、五十九歳で歿した。資性忠実、財利に淡く、詩書画を善くし、その自由を尊重し民権を主張するに至っては、慷慨義奮、常に郷党の木鐸であった。大正十四年郷党の有志が頒徳碑を建てた。


植木致一(丹波新聞社編『氷上郡政界物語』丹波新聞社 1971)

 明治十四年十月国会開設の詔勅が下って中央に立憲自由党(板垣退助)立憲改進党(大隈重信)帝政会・中正党などが誕生した。
 氷上郡では植木致一(和田・元代議士)を中心の自由党(氷上自由倶楽部〉がそれぞれ党主や知名の士を招いて結成記念式をあげ、論客往来相ついでにぎやかな「政界の幕あけ」が始まった(中略)
 自由党総裁板垣退助の丹波入りも大した騒ぎだった。時は明治十六年の秋だった。「民家に告ぐ」という板垣退助のビラがはり出され若衆が太鼓をたたき芝居の触れよろしく「板垣来る、演説会をひらく」と大声で叫び歩き、和田、成松の演説会は立錐の余地なく盛況だった・氷上郡の案内役は後に代議士になった和田の植木致一で、沼貫の梅垣主税之亮や当時十七才だった谷垣芳太郎が従いて回った。
 天下の板垣大政客の旅のつれづれを慰めようと郡内の同志が和田で猪狩りをやったところ大物一頭を射とめ板垣を囲んで舌つづみをうち杯を傾けて自由民権の気焔をあげた。その時板垣は「四国海のない丹波へはじめてやって来て、みんなのような熱烈な同志と志を一つにして国家のために尽すことは本懐の至りである。殊に諸君が元気横溢のいのししを追われたがその勢はさすが丹波健児の面目躍如たるものがある。かかる勢のおもむくところ大猪を射とめた。これは今は野党であるわれわれが官僚を射落したことでやがて政権はわれわれの手に来る瑞祥である。不肖板垣退助は志をあらたに確かに中央の猪を射とめて今日の功名に応えん」との意昧を名調子で述べると植木は一同を代表して「自由党総理板垣伯爵を迎えてここに和気あいあいたる喜びを分つことは我々の終生忘れざる喜びであり、丹波の政党史を彩る又となき光輝である。総理の深慮と豪気は必ず近く政権の衝に当られるものと信じ、慈に杯を挙げて万歳を祝するものである」とのべた。
 植木は漢学者植木環山の子で字もうまく博学の志でのち和田の旅館四外楼の養子となる。
(中略)
又、年若くして政治に興味をもち、郡自由党の結成には東奔西走して同志をあつめ、その中心となり、県会議員にも打って出て郡政党初期の立役者だった。
同郷の横尾(敬)野添(靖)らとともに板垣退助を崇拝し、板垣の来丹には腰巾着となってよくつくし、和田の猪狩りを催して板垣を喜ばしたものである。
明治三十一年八月総選挙で植木致一国会議員当選。後在任、二年十ヶ月で田健次郎に譲る。




衆議院議員列伝

植木致一君
君は兵庫縣選出の代議士、嘉永二年四月十三日を以つて丹波國氷上郡和田村に生る、家農を業とす、父を環山君といひ儒を以て稱せらる、君夙に家塾學半舘にあつて嚴父の教を受く、丈久二年負笈京郡に出で碩儒岩垣月洲氏の遵古堂に入り漢學を修むるもの七年、其の蘊奥を究む、明治五年豊岡縣教員傳習所に入り業を卒へて郷に歸る
明治七年より十八年に至るの間、家塾學半舘に於て後進の子弟を薫陶す、是より先五年より七年迄兵庫縣氷上郡和田村成章小學校教員兼校長となり教鞭を執る、十八年五月兵庫縣會議員に當選し、二十年氷上郡蠶絲業組合組長に推され、二十三年満期退任す、同年兵庫縣茶業組合曾議員となり、二十五年十月氷上郡和田村長に選ばれ就職し、廿八年四月氷上郡和田村曾議員に當選し、同五月氷上郡各町村組合會議員となり、廿九年七月郡制施行に付解職
三十一年六月第十二帝國議會解散の厄に遇ひ、同八月臨時総選擧の時に當り君縣下第三區より推されて衆議院議員に當選し現に政友曾の一員として其の職にあり
君又貧民救恤或は公共の爲に褒賞を受領せしこと屡々なりといふ


山崎謙 編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所 明34.3
(国立国会図書館デジタルコレクション:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778032/219?tocOpened=1 2016/08/09)


植木憲吉

植木憲吉 住所 東京市牛込區新小川町三丁目 本籍 和田村和田 同明治十九年八月生
日本合同工船株式會社、日本竹林株式會社社長
東洋漁業會社専務、蟹共同販賈會社取締役
   経  歴
日本毛皮會社取締役、日本水産株式會社、大阪製罐株式會社取締役
故元代議士植木致一氏の次男、目下、米國のニューヨークに居る
米國ニューヨークに在留の所近々歸朝の筈


篠山新聞社『多紀、氷上人名鑑』篠山新聞社 昭和8
(国立国会図書館デジタルコレクション:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112553/133 コマ番号=170 2015/04/20)

以下は、関東郷友会機関紙『山ざる』昭和五十二年四月、八号より抜粋


植木憲吉小伝

前文

 日本の水産業界は近年著るしく波が高い。ことに本年に入って十ニカイリ領海宣言二百カイリ専管水域説などで、水産業界は大変な変革を迎えようとしている。
 戦前、戦後にかけて北洋漁業、南氷洋の捕鯨事業において一躍世界の海域に覇を競った今日の『日本水産』育ての親氷上郡出身の植木憲吉翁が、この現状を知られたら如何なる感慨を漏らされるのであろうか。翁は本年十三回忌を迎えられるというが、翁とともに日本水産業界に大きな足跡を残された実弟伍鹿氏に、翁の思い出についてメモ様に記して貰ったので、ここに掲載して翁の生前を偲ぶこととする(松山記)
 なお、憲吉翁の詳しい事項を知りたい方は
 『植木憲吉自伝・日本水産』その他がある。法名は「天徳院心洋憲道大居士ー昭和三十八年四月二十四日逝去」

果断の見識 「兄憲吉を語る」 植木伍鹿

 ご依頼の兄、憲吉については丹波新聞社発行芦田確次編集「氷上新人物風土記」1和田の巻ーに記載されてあるから、この本を読んで頂ければ結構である。私は弟として見た兄の秘められたエピソードといったものを書いて責を埋めたいと思う。
 そこで弟の見た兄憲吉についていえば、
一、性豪直、数理的頭脳明晰である。従って事を処するに速断、速決、何事もその場で処理して問題を後に残さない。
一、内心頻る情に厚いに拘わらず、理論正然、少しでも理に合わぬ事はとことんまで追求、上でも下でも決して妥協がない。
一、このため公私の別なく、感情は別にして一応事に望めば常に「大の虫を生し小の虫は殺す」という言葉をよく使い、父の最後に残した「艱難汝を玉にす」との言葉を好んだ。
 そのため唯ひとりの弟に対しても厳しく、一生を通じて直接物質的恩恵は受けていない。かりに受けたとしても精神的な面が多かったようだ。但し姉妹などには誠に優しかった。


日水ブラザーへ

 私の日本水産転入問題が起ったとき、兄も私も反対したのだが、川村啓三社長の懇切な説得があったため日本郵船から入社したわけであるが、人社以来仕事が急に増大して蟹工船を主体とする北洋漁業の発展、南氷洋捕鯨工船出漁など仕事上、兄の船長、弟の機関長という兄弟コンビの呼吸が合って、会社運営上非常に好都合であったが、他方重役や社内間でも日水ブラザー商会の悪口もささやかれたりして苦労したものであった。


対米戦争には反対

 日水では以前から九州戸畑に船員養成所を設けて、海軍とは特別の関係があった。従って顧問として二・三人の中将クラスの軍人がいたが、兄は戦争に対しては最初から徹底的に反対していた。初めから敗けると決っていた対米戦争だからだが、一商社の反対など力の及ぶところではなく、日水の船舶大小百隻余が第一番に陸海軍に徴用されてしまった。
 対米開戦に当っては、開戦二、三年から極秘裡に研究されて、北方漁業、南方真珠貝船団などに特別海軍通信兵を漁夫に変装させて乗込ませて、同方面のあらゆる通報任務を命ぜられていた。米国との開戦、真珠湾攻撃と共にこれらの地域に強制出漁していた漁船、特に南方の真珠貝漁船は全船沈没させられたが、前々から周到な準備と訓練を受けていた船員は奇蹟にも等しく全員救助された。


やむなく丹波へ疎開

 大平洋戦もいよいよ終局に近づき敗戦の色濃くなった。海軍部内に対陸軍、対上層部門との意見の対立が激しく、われわれ民間の意見までが参謀部で聞かれるようになり、兄も特別会議に呼ばれた。意見を述べよといわれた兄は平然として、「軍人は国家、国民の番犬であらねばならぬ」と叫んだため大変な騒ぎとなり、「軍を侮辱するも甚だしい」と強硬な言を吐く者も出て一時はどうなるか案じられたが、兄に好意、信望している将校などが仲に入って一応その場を収めたが、そのことなどから私など兄の身辺を危ぶみ丹波へ疎開するよう進言した。そして実現した。


陸戦隊救出に成功

 話は前後するが真珠湾攻撃の後、北方アリューシャン群島守備の海軍陸戦隊は引揚げ不可能となった。もちろん日本海軍の空軍も軍艦も潜水艦も近寄れなくなって全員全滅の危険に頻したとき、海軍軍令部の懇望によって救出を図った。芝の水交社の一室にたてこもって、兄らと一緒になって、北洋漁業関係者と相談して多数の小漁船を漁夫の手で操作して悪天候と濃霧の裡に北千島へ無事引揚げたときの感謝は忘れない。


政治家で大成期したが

 兄憲吉は労働問題にもなかなか理解があったようである。若いとき下松造船所や大阪鉄工所を買収したが、それらの経験で苦労したのもである。日水の船腹も増大するにつれて、船員対策は会社の大事な仕事になって来ていた。当時海員組合副組合長の米窪満了氏(商船学校先輩、後の初代労働大臣)に紹介したところ、たちまち意気投合、その場で私(当時日水船舶部長)と鈴木九平君(後の日水社長、当時捕鯨部長)の私的顧問に就任して貰い、社業発展に寄与された。しかし米窪氏は当時は革新派社会党の重鎮であったため、憲兵隊より狙われていた事もあって、好意ある海軍将校の助言を容れて、終戦直後の第一回南氷洋出漁図南丸に朝日新聞記者として乗り込ませて姿をかくさせたりしたエピソードもあった。
 そんな事から米窪氏が片山内閣の労働大臣に就任された当時、私たち兄弟が、労働委員や海上航行審議会委員に任命されて船員法や安全法などの改正の仕事を手伝うようになった。


 ところで憲吉兄は、父が政治家として最後を病気と貧之の(ママ)しみを見せつけられて成長したから、政治には足を踏み人れなかったが、兄の親友の高崎達之助さんが政界に入ったとき、一緒に政壇に立って思う存分優れた頭脳と果断の見識を発揮して欲しかったと今日でも惜しいと思っている。ことに今日の水産業界の現状は日本の食生活にも重大問題を投げようとしているとき、兄の様な人物がいてくれたらどれほど心強いかとつくづく偲ばれる昨今である。