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引っ越しました

2005年2月、武蔵野市の東端から吉祥寺駅の真北へ引っ越しました。

この先は「Life in Kichijoji」へ。


国土情報ウェブマッピングシステム(試作版)

http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html
に、昭和49年(1974)と平成元年(1989)の写真に我が家を発見!!

CKT-74-15 昭和49年度 東京 1/8000 C26
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckt-74-15/c26/ckt-74-15_c26_18.jpg
CKT-89-3 平成元年度 東京南部 1/10000 C4
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/89/ckt-89-3/c4/ckt-89-3_c4_13.jpg

2004年06月06日 21時01分02秒


中央線(Chuo Line)に残る遺構

外郭環状線予定地点の架道橋

外環道路はもう完成前に役割を終えてしまっていると言ってよいでしょう。国も都も、もう地上に作ることは諦めていますし、都が地下に建設する資金の回収は難しいでしょう。そもそもこれからは人口も交通量も減って行くのは確実なので、出来た頃には交通量は減少に転じていて通過する車にとっても高い料金を払うだけの恩恵は乏しくなりそうな計画です。更に外側の圏央道も含め、北関東方面と神奈川県方面を行き来する東京通り抜け車両は間違いなく減少する(すでにしている?)でしょう。
ここらの住人にとって車はやむなく使うもので、実際、私の車も最初の3年目の車検までの走行距離は600Km、その多くは自動車販売店との定期点検のための往復の距離という有様です。
さて、中央線の西荻窪駅と吉祥寺駅の間は高架になる時点で既に外環道路への対応ができていました。それがこの架道橋で、地上に外環道路を作ることを前提としています。銘板には昭和40年3月20日着手、昭和44年1月13日竣工と表示してあります。どういう形で決着するにしろ、この鉄橋が意味を成す可能性はもう無いと言えます。それでも塗装は一定の周期で塗り直さねばならないようで、JRにとっては迷惑な幻の計画といったところでしょう。

外郭環状線予定地点の架道橋

外郭環状線架道橋の銘板



中央線を走る103系電車

103 series train

床の色がなんか野暮ったくてかわいそう。天井の扇風機も今やお懐かしい。
お仲間として、東西線乗り入れ開始時からの301系というのもあります。この電車も2003年には困った子ちゃんのE231系に切り替えられてしまいます。


103 series train

103 series train



E231系は嫌いだ!

JR東日本はE231系という電車が好きで、これは、今や総武線各駅停車、常磐線、山手線(Yamanote Line)、東北線(いわゆる宇都宮線)、高崎線を走っています。相模鉄道の10000系もこれの仲間になります。京浜東北の209系は親か兄といった位置づけでしょう。
この電車の「乗客にとっての」特徴は、車体の幅をホームに出っ張るくらいにまで広げたことで、通路部分を広げ思いっきり乗客を詰め込んでやろうという思惑が見え見えだということ。たとえば、中央線快速電車の201系のサハ(運転室の無い車両)は定員144人ですがE231系では162人と1割以上余分に乗せられる勘定になっています。この「定員」の根拠とか、「なぜあの幅のシートに7人も座らせようとするのか」とかいう話は別のところで取り上げてもらっていいですよね。
もう一つは、クッション性の悪い座席。ロングシートの座席は、発車・停車の度に体が左右に重心が揺れ動くが、シートが固いとこれの繰り返しで30分も乗っていると尻が痛くなります。中距離電車に使うのはもってのほかで、3扉の211系に揃えるのが正しいのです。
この電車の困った点はもう一つ、窓にカーテンの類がないので、遮光ガラスで若干日差しが和らぐだけで、総武線や中央線のように東西に延々と走る電車の場合、いくら席が空いていても夏に南側の席に座るのは、訳知らずの人ということになります。
この電車、技術的には最新技術のてんこ盛りなのだが、肝心のお客様を忘れた困った電車なのです。


地下鉄ともっと仲良くなりなさい!


これは、どういう意味かというと、
中央線の緩行線には中野から地下鉄東西線が三鷹まで乗り入れていますが、地下鉄にパスネット・カードのようなプリペイド・カードで乗って、JRの駅で精算しようとすると、自動精算機はこうしたカードを読みとれないのです。その結果、駅員から、このような紙をもらって出ることになります。地下鉄のプリペイド・カードには出場記録が書き込まれていないので、そのカードでまた地下鉄に乗ろうとするときは自動改札を通れなくて、駅員にこの紙を見せてカードに出場記録を書き込んでもらってようやく使えるようになります。この手間は、要するにJRの駅でパスネットなどJRが参加していないカードへ出場記録を書き込むことが出来ないから発生します。
一方、西荻窪から東西線に乗って大手町とかで降りて精算する時も、人手で精算しています。このとき、地下鉄の乗り越し分は払いますが、JRの定期券には出場記録が書かれていません。従って、帰りに地下鉄に切符を買って乗ると、JRの駅では定期券を自動改札に通すだけで地下鉄の切符は出さずに出られます。
こういうのを見ると、”JRは相変わらず親方日の丸で「民鉄」ではないのだな”と感じます。E231系もそうですが、駅員を殴ったり、機械を壊さないでくださいと宣伝するにも、実態が顧客満足という発想からほど遠いのですから、身から出たさびのようなもの。みっともないから、早々に自動精算機が対応出来るように改造すべきなのですが、JR東日本は非接触型ICカードSuicaが売れているので、今更磁気カードの読み取り装置に金をかけたくないご意向のようで、結局しわ寄せはお客様に来るのです。

2002年08月13日


西荻窪界隈

マイナーだが西荻窪案内を。

駅南通り

駅を南側に出てピンクの象が下がっている仲通りを抜けた先のこの通り(実際はなんと呼ぶべき通りか、いまいち不明)が、私的には西荻窪で一番面白いと思います。武蔵野市民が普段通る道筋ではありませんが。
ずっと南まで歩くと五日市街道に出ます。一本東の通りは五日市街道から西荻窪駅の下を抜け青梅街道に出る道のため、車が多く、あまり人通りが無いのですが、この道は、一方通行ではないのに人が多く、車は遠慮がちに走ってもらうお約束が成り立っています。時々、訳知らずの車が入ってきて白い目で見られます。


ダンテ

店名の由来は、開店時にダンテ(Dante Alighieri)の『神曲』が手元にあったので、「ダンテ」と名付けたのだと店の人が説明していました。
そういう事を言える雰囲気があるコーヒ店です。
コーヒー自体は500円からで、ドトールコーヒーほど安くありません。それでも、やはりちょっとは”より”おいしくて、あとは場所代と思いましょう。
30年前、夜はいつも満員に近かったと思います。
かなり立派なオーディオ装置があり、ほとんどジャズしか流さないので、ジャズ喫茶の雰囲気で溜まっていられました。
駅のそばでも、西荻窪ならあまり地代も高そうには思えないので、ゆったりと続いていって欲しいお店です。

2021年8月末で閉店



西荻の道

(Q 問題を出します)
車で走って来たとして、どこへ向かって走ればよいのでしょうか?
(A 答)
今、こちらを向いている車が走っている道へ入るのです。
センターラインが先の方で波線になっていること、道路に書かれた矢印がちょと首を右に傾けている点に注目しましょう。
左上に小さく進入禁止の標識が見えるように、左折はできません。左は一方通行の出口です。
幸い、正面のイタメシ屋「ポモドーロ」に車が突っ込んだという話は聞いていません。



西荻窪界隈に限ったことではありませんが、路側帯(Road side belt)の役割はなんでしょう?
一応、交通法規のどこかに、「歩行者は、歩道や路側帯がある道路では、歩道や、路側帯の外側を歩く」ことになっているようです。しかし、ここを歩く人は、どうやって路側帯の外側を歩けばいいんでしょうね?
また、「車は路側帯に入って駐車する場合、車両の左側に歩行者の通行のため0.75mの余地をとること」などという決まりもあるようです。車が路側帯の外側にはみ出して止まってもよいとされていることに、まずびっくりさせられますが、人は75cmの隙間を歩かされるということで、呆れることが多い法律と現実の乖離です。
結局、この白いペンキを塗る会社が儲かるだけですね。



境界線の損得

武蔵野市としては辺境の地に住んでいる事による損得の色々

都区内の料金で中央線を降りることができる。
JRの料金体系は名古屋や大阪のように200Kmを越えると都区内は何処で降りても均一料金で、中央線ではその境界線は西荻窪駅と吉祥寺駅の間にある。
西荻窪の店の折り込み広告が来ない。
新聞の折り込み広告は新聞の販売店に依存している。販売店のテリトリーは行政区画に従っていて我が家は西荻窪から配達してもらった方が近いが、吉祥寺の販売店から配達してもらっている。
折り込み広告も、武蔵境の店の広告など不要なのだが入ってくる。逆に西荻窪のスーパーマーケットの広告がないので不利になる。
宅配のピザなどは行政区画とは無関係に店からの距離で配達地域を決めているが、これが商売としてまともなやり方だろう。
ADSLが遅い。
電話局は吉祥寺にあり、ここらは末端なので局までの距離が遠く必然的にADSLも遅い。


下町化について

東京でも山手線の内側やその東側に住んでいる人々には、武蔵野市などは感覚的に東京の範囲を超えていると感じる人もいる。一方、ここらの住人の感覚から言って、中央区や江東区、墨田区、台東区、江戸川区などには、間違っても住宅地があるとは思えない。(さすがに、「人が住むところではない」とまでは言わないまでも、結構それに近い感覚がある)
住宅地とは、ある程度の広さの一戸建ての家が何区画も続いている地域であって、そこに町工場や倉庫や商店街があってはいけない(但し、商店街に近いのはそれなりに好ましい)。一戸建ては塀があり、門と玄関は若干でも離れていなくてはいけない。マンションとかアパートの類の集合住宅、コインパーキングも好ましくない。こういう定義でも文京区の小日向や小石川あたりには該当してしまいそうな一画がありそうだが、ここらも絶滅寸前のような感じがする。
まあ、はっきり言って、お互い「あんな不便(下町→山の手)/あんな環境(山の手→下町)のところに住むなんて」と思っているのではないだろうか。
ここで、軽率にも「山の手」という単語を使ったが、これがどこを指すかはかなり流動的且つ曖昧で、地理的な意味づけではない。感覚的な線引きは歴史的に時の経過とともに西へ動いていると言える。この節のタイトルの「下町化」とは山の手が下町化することによりこの境が西へ移動してくる状況を指している。
まず、「山の手」とは住宅地でなくてはいけないという暗黙の前提がある。これを認めてもらえれば、それが西(あるいは南西)へ後退しているということである。
その原因は、商工業地域が拡大してきたということもあるが、相続税対策で土地を細かく分けて売ったり、アパートを建てたりせざるを得なかったという住宅地の住民側の事情もある。土地の価格が落ち着いて来て少しはこの西進は収まるかもしれないが、このあたりはもう波打ち際という状況にずっとおかれている。


中央線への呪い(3)

中央線沿線の住民に一種特徴的な傾向がありそうだという説は読み物として面白いしあたっている部分が多々あると思う。
ただ、冷静に見なくてはいけないのは、それが本当に「地域的な特徴なのか」という点だろう。率直に言っていわゆる都市近郊住宅地として、この地域は日本でも最も初期に発展した地域の一つである。ここの現在の住民にはここで生まれ育った人の比率が他の都市近郊住宅地よりも多いはずである。多くの日本の都市近郊の宅地化が進んだ時期には、ここらにはここを故郷とする人々がすでに多く存在していたのだ。生まれつき中央線の便利さがあたりまえで育っているから、典型的な住民は車にあまり価値を見出していないし、ここに住んでいることに取り立ててプライドがある訳でもない。すべては生まれた時からあった、あたりまえの事なのだ。遅れて宅地造成された私鉄沿線の住民がアイデンティティを求めて何かと差別化する種を持ちだそうとするのは滑稽で品のないことにしか思えない。
この生まれつき「持てる者」であることが中央線の最大の呪いに思われる。ここの雰囲気として、ハングリー精神や上昇志向が不足しており、反面、芸術・精神的な関心への包容力が大きいのは、競争社会でのハンディキャップとなる。一般的に二代目、三代目の弱さをこの地域に生まれ育った人達は抱えているように思われる。
現在、この地域に特徴的なのは、住宅地としての歴史の古さからの当然の帰結としての「高齢化社会」だろう。実際、選挙の投票日の午前中などは、こんなにここらには老人が多かったのかとびっくりさせる位、投票所への道を老人がぞろぞろ歩いている。都市の高齢化社会を先駆的に現出しているのがこの地域なのだ。


中央線への呪い(2)

『鉄道ピクトリアル』2001年10月号の特集は「シームレス交通」だったが、この観点で中央線を見てみよう。
「シームレス交通」とは要するに乗り換えの便がどれだけ良いかということである。
まず、東京駅の中央線ホームは、他のホームと比べて高い位置にあり、エスカレータにただ突っ立ったままだとホームに上るのに1分はかかるというとんでもない場所にある。エスカレータが長いので、乗った位置と降りた位置がずいぶんずれてしまうのも利用者を惑わす。まあ、総武快速・横須賀線の地下ホームも結構遠いし、京葉線にいたっては、同じ東京駅という名前を冠するには犯罪的に遠い(有楽町駅の方が近い)が、これらに比べて相対的にましというだけでは慰めにもならない。
次の神田駅はシームレスな乗り換えという点では、本当は、山手線の内回りや京浜東北線の北行きと階段の上り下りなしに乗り換えができることが望ましいのだが、両者がペアで同じホームに着くところに割って入るのはむづかしそうだ。
御茶ノ水駅 33/1000の標識御茶ノ水駅は、最初に挙げた特集でも触れられているように大変良く出来ている。中央線快速と総武線各駅停車の上り、下りがそれぞれ同じホームの反対側に着くので乗り換えの便がとてもよい。特に強調したいのは、これより上り方面は、中央線は神田駅へ、総武線は秋葉原駅へと分かれるのに立体交差にしてこのような乗り換えの便を確保している点である。しかも、これら駅の東側は中央線の下りから見ると勾配を上ってきた途中のような、秋葉原駅から来た総武線から見ると下り勾配の途中のようなところに駅があり、運転士としては止まりにくい場所ではないかと思われる。秋葉原駅への総武線の勾配は33/1000もあり、ちょっとした山越えの傾斜になっている。こういう位置に乗り換えが便利の良い駅を作ったのはエライエライと言えると思う。
四谷駅は、このエライお茶の水と比べると中央線快速ホームと総武緩行線とが別のホームとなっているなんにも考えていない困った駅である。
快速は止まらないが、代々木駅での総武線下りと山手線内回り(渋谷方面行き)との同ホームでの乗り換え、新宿駅での総武線下りと山手線外回りの、総武線上りと山手線内回りの同じホームでの乗り換えという組み合わせはすばらしい。総武線上りと山手線外回りだけは階段の上り下りがあるが、それ以外の組み合わせは代々木駅と新宿駅の2駅をうまく使って、すべて向かいに乗り換える電車が来ることになる。
中野駅は営団地下鉄東西線が折り返したり総武線(中央緩行)へ乗り入れたり、総武線も約半分はここで折り返す、といった駅なので乗り換えの不便さは救いようがない。中央線快速から三鷹方面の緩行に乗り換えようとすると総武線のホームへ行けばよいのか東西線のホームへ行けばよいのかちっともわからない。地下通路に各ホームの階段の位置に次の電車の発車時刻が表示されているが、これなどは、中央線下り快速ホームを降りたところに「次の下り各駅停車」といった形でまとめて表示する位の親切さがあってしかるべきだろう。

ここから、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺と四谷と同じ単細胞的な駅がつづく。実はここが、これら駅の利用者にとっては中央線への呪いの重要な根拠となっている。1960年代に中野ー荻窪、荻窪ー三鷹が順次複々線高架化された時に、当時の国鉄はここに中央線快速電車と各駅停車が走る事しか想定していなかったのではないかと思う。ところが分割民営化されたからか、新宿ー八王子間の利用者を京王線の特急と争おうなどという魂胆を契機に、特別快速だの通勤快速だの、中央特快・青梅特快だのが出来て、更には土曜・日曜には高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪には快速も止まらないだの、これらの駅の利用者には迷惑千万なことをやってきた。
先にも書いたが中央線沿線の住民は一般に自分の住まいよりも西には興味がない。自分よりも都心から遠くに住んでいる連中が自分達よりも都心に早く着くというのは気に食わない。それ以上に、そういう不便をかけるのに各駅停車から快速に乗り換えるのにいちいち階段を上り下りせねばならないなどというのが許しがたい。京王線でも特急や急行、各駅停車の乗り換えはホームの向かい側に止まっている電車に乗るか、同じホームで待てば済む。中央線は快速と各駅停車がそれぞれ別の島になっていて、この程度の利便性すら考慮されていない。
同じ島に快速と各駅停車を止まらせると、朝は上りの島だけ大混雑し、夕方は逆になるので分散化したという説明を聞いたことがあるが、これは後付けの言い訳だろう。京王線も小田急もそういう理屈は振り回していない。反省をしている気配が感じられないのは、千葉の方でも総武線快速と各駅停車について同様の迷惑をかけていることでもわかる。
当初このような運用形態になることを想定していなかっただろうが、それならば変えた時点で中野駅や三鷹駅の前後で立体交叉させるなどして、あたりまえの利便性を確保すべきだろう。
ちなみに中央線の旧国電区間は赤字国鉄時代から黒字である。
もう、話は西荻窪駅も吉祥寺駅も通りすぎた。これより西は視野に入らないのでシームレス交通の話もここで終わることになる。


中央線への呪い(1)

この一帯が開けたのは中央線があっての事というのは疑いの余地がない
もしも中央線が甲州街道沿いに建設されていたらここが逆に京王線沿線になっていた?
そもそも、ここに住むという事にならなかっただろう。
ここらが東京郊外の住宅地としてほとんどの土地が建物で埋めつくされたのは1960年代でそれまでは駅から徒歩10分ほどの距離でも結構畑があった。
昔を辿ればきりがないが、武蔵野・三鷹あたりが開墾されたのは振袖火事で焼け出された人達が引っ越してきてからだと小学校の地域の歴史で教えられている。江戸時代はお寺が住民基本台帳を管理していたから、ここらのお寺の創建はその頃が多い。
次に人が増えたのは甲武鉄道開通後かもしれないが、それでもここらは都心に住む人の別荘地だった農村だった。その次に人が増えたのは関東大震災後で、おそらくその次は戦災だったのだろう。都心で災害が起こる度に、密集したところは怖いと思うのか住民が増えた。こうした新しい郊外移転派がそれ以前と異なるのは、基本的に東京都心と結びついて暮らしていた点で、その点、東京駅まで直通の中央線沿線は、東京の郊外住宅地としては有利だった。
実際、この一帯の宅地化が一通り完了してしまった時点(60年代あるいは70年代)でも、世田谷の小田急や京王などの私鉄沿線にはかなり畑が広がっていて、のどかだった。
この優位性は、各私鉄が地下鉄と相互乗り入れするようになっても基本的には崩れていない。なんといっても東京駅まで直通なのは強い。新幹線は東京駅始発だし、羽田・成田空港へのアクセスも、ほどほどに便利な位置にある。
それほどまでにご縁の深い中央線だが、身近であるがゆえにそれだけにかえって文句が多い。それは、中央線は人身事故などでしょっちゅう全線が止まり、部分的に折り返し運転すらせずに利用客に迷惑をかけているというような単純な話ではない。


武蔵野東端の憂鬱

先日、iMacが壊れたので西新宿のサポートセンターへ出張修理を頼んだら、「お宅の区域は立川の管轄です」と言われました。ちなみに西荻窪駅に掲示してある電車の所要時間は、新宿まで14分、立川までは18分となっています。

車で来る場合、新宿からは青梅街道を走ってくれば比較的簡単に着くのですが、立川からだとまっすぐ来られる道がありません。
そういえば、新聞も「多摩版」ですが、はっきり言ってあきるの市で何があってもあまり興味はないのです。
吉祥寺に支店があったのでシティバンクに口座を開設しましたが、儲からないらしく閉鎖され、口座は勝手に立川支店へ移されてしまいました。私は生まれてこのかた、立川の駅で降りたことがないのにです。まあ、シティバンクは、吉祥寺に残ったATMとインターネットバンキングで事が済んでいます。
東京マツダも井の頭通りの店が豊田の店に吸収されてしまいました。そこへ出向く気は全くありませんが、私が電話すればこちらまで来てくれるので許してやっています。
シティバンクや東京マツダは、勝手に引っ越ししても今までのところこちらに迷惑は及んでいないので、「こういう営業体制が可能な時代になったのだな」位で済んでいます。しかし、営業のテリトリーを行政上の区分けに従って単純に分ける発想は営業効率を悪化させているのになと思います。


住民は東を向いている

朝の中央線の混み具合の差を見れば、住民の大多数は通勤・通学・買物に東の都心方面へ向かい、下り電車で通勤・通学している人たちが圧倒的に少数なのは、一目瞭然です。
武蔵野市の東端に住んでいる人にとっては、後ろ目に吉祥寺位までは視野に入っても、それ以上西は視野の外なのです。


武蔵野東端の憂鬱

東京の行政区画についてあまり詳しくない人にはピンとこないでしょうが、武蔵野市の東端のすぐ北も東も南も杉並区、最寄りの駅も杉並区の西荻窪駅なので生活の実態は杉並区に依存している部分がかなり多いのです。

2001年06月02日 16時59分02秒


武蔵野市の東とは

ここは中央線の西荻窪と吉祥寺の間です。杉並区とは200mも離れていないのですが23区の外です。

2001年05月28日 12時58分42秒