文應皇帝外紀 抜粋
宮中戸障。夜半一時。齊開共合。宮女之中。
有臥而不能起者。問之。日。有物抑我。故胤不能起
也。問者日。無。女日。争奈不起何。天曉自起。上
皇大恐。集群臣議焉。臣僚皆言。高僧徳行。可沮
茲怪。時南京睿尊有戒行誉。三年。上皇召尊。安
居宮中。以壓怪魅。尊率二十沙門修密法。九旬
之間。鈴聲接響。爐壇凝煙。而魅如前。尊不告而
南歸。四年。上皇召東福普門。問日。師居此宮。
能止魅乎。門奏曰。外書猶言。妖不勝徳。衲子之
居。何怪之有。上皇語侍臣日。門師者烈丈夫也。
因茲勅門叉安居宮中。門分慧峰二十比丘。禅宴
殿臺。群僚偸眼。門心修秘法。只其二時粥飯。四
時禅坐。叢規整粛。亦無他事。自從門之居。宮怪
止縮。臺閣宴如也。上皇因此傾心禅宗。謂門日。
宮魅之弭。依師之徳業。兼宗門之霊妙也。願捨
此宮爲禅苑。
『續群書類従』 第八輯上 傳部二
続群書類従完成会 1927年
文應皇帝は亀山上皇のこと。東福普門は東福寺第三世住持の無関普門で、この件の功で南禅寺開山となった。日本初の仏教通史である『元亨釈書』の著者として知られる虎関師錬も東福寺住持から南禅寺住持となった。彼が書いたこの『文應皇帝外紀』は、南禅寺創建の由来を権威付けする意図が感じられる。
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