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多武峰談山神社(妙楽寺)

談山神社
御祭神 藤原鎌足公
藤原鎌足公は推古天皇二十二年(六一四)中臣御食子卿の長子として
大和国高市郡大原に生誕され、幼名を鎌子と称した。中臣氏の祖は
天児屋根命にて代々神事を司どる家柄であり公はその二十三代孫に当たられる。
公は至誠一貫朝廷に仕え、皇極天皇の御代には中大兄皇子(後の天智天皇)と共に
当神社本殿裏山の談山に於て国家革新の大業を計り、ついに西暦六四五年
「大化改新」を成しとげられ、さらに近江大津京遷都などの国家事業に尽くし、わが国
の隆昌と安泰の為に偉大な功績をのこされた。天智天皇八年(六六九)藤原の姓を賜り
人臣最高の大織冠と大臣の位を授けられ、同年十月十六日薨ぜられた。
白鳳七年(六七八)公の長子定慧はこの多武峯の山頂に父の墓を造り十三重塔を
建て父の御霊を弔った。のちに大宝元年(七〇一)方三丈の神殿を建立し御神像を奉安
したのが当神社の創始である。当神社は古来鎮護国家の神、子孫繁栄の神
また全国藤氏一族総氏神として朝野の尊崇を受け現代に至っている。
旧別格官幣社 例大祭 十一月十七日

 

談山神社という神社になったのは、明治初の神仏判然令以降のこと。
12世紀末に書かれたと思われる『多武峯略記』をデータベースにした「多武峰略記データべース」(http://www.f.waseda.jp/guelberg/ryakki/ryakki.htm 2015/02/26確認)の「年表」によると、
・天智天皇八年己巳(669年)冬十月十六日辛酉、鎌足薨于淡海之第。
・天智天皇九年庚午(670年)閏九月六日、定慧和尚移大織冠廟於多武岑。
・天智天皇庚午(670年)閏九月六日、火葬大織冠於山階舎。
・天武天皇六年(677年)丁丑、定慧歸朝、移大織冠廟於大和國十市郡椋橋山。
・天武天皇治天下戊寅(678年)、定惠和尚歸朝。
・天武天皇即位七年戊寅(678年)、定慧和尚改大織冠墓所。
・承和八年(841年)自十月十日至十六日七ヶ日、始修維摩八講。
・嘉祥元年(848年)、賢基來住多武峰。
・延喜十八年(918年)、實性任岑分阿闍梨。
と、『多武峰略記』の記述でも時期は異説が色々とあるが、定慧(定惠)が摂津の阿武山に葬られていた鎌足(大織冠)の遺体を掘りだし談岑(多武峰)の十三重塔の下に埋めたのが始まりとしている。


 

道を挟んで向かい側の多武峰観光ホテルより

灯籠ヶ辻の石灯籠



元徳三年(1331年)の刻銘があり後醍醐天皇寄進といわれる石灯籠

転輪堂跡のそばにある石碑



旧聖霊院(本殿)

祭神の藤原鎌足を祀る。本殿と拝殿の間は中庭状で、東西透廊が両者を結んで枡型になっている。西透廊につながって西向きに楼門がある。

懸造りの拝殿



 

小雨模様の朝、雲が立ち込める。



拝殿から本殿を見る。



「嘉吉祭」については左下の説明を参照


十一月の「けまり祭」や、かつて十月に大和四座(円満井(金春)・坂戸(金剛)・外山(宝生)・結崎(観世))が維摩八講会で行なった「八講の能」は、この「けまりの庭」という広場で行われた。世阿弥の『申楽談儀』の最後に(附載、観世座の定)があり、その「定、魚崎御座之事」の一つとして一、タウノミネノヤクノ事。國中ハ申ニヲヨバズ、イガ・イセ・ヤマシロ・アウミ・イヅミ・カワチ・キノ國、ツノ國、コノウチニアリナガラノボラズハ、ナガク座ヲヲウベシ。コノホカノ國々ニアラバ、ユルスベシ。(岩波文庫 1960年)という定があり「八講の能」の重要視されていた事が感じ取れる。


旧常行三昧堂(権殿)


かつては十三重塔をはさんで反対側に法華三昧堂もあった。
妙楽寺は平安初期の四代座主實性の時には天台宗寺院で、『多武峰略記』によると延暦寺無動寺別院であったから、延暦寺西塔と同様に常行三昧堂と法華三昧堂があるのは不思議ではない。川村湊著『闇の摩多羅神』という本の130頁以降に、ここの「延年舞」についての記述がある。摩多羅神は「後戸の神」で、この常行三昧堂でも後戸の内側に祀られていた(いる?)と思われる。この摩多羅神が能の「翁」の源流かと推察され、それを裏付けていると思われる白色尉の面が伝わっている。
2012年から、ここで5月に「談山能」が行われている。
しかし、後戸の前には行ってはいけないようだった。


旧山王宮(比叡神社)
天台宗の妙楽寺が、藤原氏の氏寺で法相宗大本山の興福寺に度々攻められた原因を物語る日吉山王宮。


龍ヶ谷

藤原鎌足の墓所がある御破裂山や、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の"謀(はかりごと)を談"したという談山(かたらいやま)への登山道の脇にある「龍神社」と磐座。
右下の説明のとおり、この湧水は寺川の水源の一つで、寺川は川西町の北西端で大和川に合流する。多武峰のすぐ西を水源とする冬野川は西の飛鳥へ流れて飛鳥川に合流するので、多武峰の西隣、西口地区が分水界ということになる。もっとも飛鳥川も寺川が大和川に合流したすぐ下流で大和川に合流する寺川と同じ大和川水系の支流。


十三重塔

談山神社といえば、この十三重塔。
五重塔や三重塔は仏舎利を入れた舎利容器が心礎の下に埋納されるが、ここでは阿武山古墳から改葬された藤原鎌足の遺骨が納められているはずだ。
享禄五年(1532年)の再建。


旧講堂(神廟拝所)


談峯龍神像


十三重塔の前に講堂があるという変わった配置だが、十三重塔の位置が先に決まっていたという事と、地形の制約からだろうか。『多武峰略記』に延喜十六年(916年)講堂が修理されたと載っているので、それ以前に建立されていた。
神仏分離令で本尊の釈迦三尊像は阿部文殊院へ移された。講堂の内部は昭和54年に修復された壁画が美しい。



総社とは、ある地域の神社の祭神を集めて合祀した神社。平安時代に国司が国府の近くに建立し参拝して廻るのを簡略化・お手軽化したものが広がったが、後に衰退した。岡山県総社市の備中国総社が有名か。
拝殿の「けまりの庭」側には、大和七福神の福禄寿が顔をのぞかせている。



閼伽井の手前にある滝


閼伽井

閼伽井は仏に備える水をくむ井戸のこと。



旧南院に建っている多武峰観光ホテルの名物料理が「義経鍋」で、その由来を書いたものが食卓に添えられていたが、こういう伝承は『義経記』などに載っている話だろうと思ったが、後で調べたら『吾妻鏡』に載っている事がわかった。もっとも南院の十字坊たちが、義経鍋のように五種類の肉(牛豚鶏猪鴨)でもてなしたとはもちろん書いていない。



文治元年(1185年)十一月
○廿二日辛丑
豫州凌二 吉野山深雲一 。潜向二 多武峰一 。是爲レ 二 請大織冠御影一 云々。到着之所者。南院内藤室。其坊主号二 十字坊一  之悪僧也。賞二 翫豫州一 云々。
○廿九日戊申
叉多武峯十字坊相二 談豫州一 云。寺院非レ 廣。住侶叉不レ 幾。遁隠始終不レ レ 叶。自レ 是欲奉レ 二 遠津河邉一 。彼所者人馬不通之深山也者。豫州諾レ 之。大欣悦之間。差二 悪僧八人一 レ 之。謂悪僧者。道徳。行徳。拾悟。拾禅。樂達。樂圓。文妙。文實等也云々。

 『国史大系 吾妻鏡 第一』

     吉川弘文館 1976年