西塔(比叡山縦走)
2012年6月ほか
釈迦堂
正しくは転法輪堂という釈迦堂は、文禄四年(1595年)に園城寺が豊臣秀吉によって
寺門派の建物を山門派の手に渡すというのだから、園城寺とってはひどい仕打ち。移築されたとはいえ、元亀二年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ち(元亀の乱)により、それ以前の建物は瑠璃堂以外は焼かれてしまったのだから、この鎌倉時代の建物が比叡山で最も古い建物となっている。
横川の中堂のように新しくなく、根本中堂のように人が多いわけでもなく、落ち着いた気持ちにさせてくれる良い場所だ。根本中堂と同様に一段低い内陣に安置された本尊は当然釈迦如来で清凉寺式の立像だという。
鐘楼
右の上がるとミロクの石仏や相輪とう、左に下ると奥比叡ドライブウェイを渡って瑠璃堂へ。
釈迦堂の北側の一段高い平地には元亀の乱で焼かれてしまったようだが弥勒堂があったようで、これがその本尊だったらしい。
相輪?(そうりんとう) 820年に最澄が創建したのが最初で明治28年に改修されたと書いてある。
五重塔・三重塔の先端に付いている相輪の下に柱を付けたもの。下に写経した法華経、大日経などが納められているらしい。
横川の根本妙法塔も似たような性格。埋経のパターンの一つと言ってよいのか?
瑠璃堂
花頭窓が禅寺を思わせる瑠璃堂は、室町末期の建築という。焼き討ちを免れた唯一の建物。たしかに、西塔からちょっと離れている。
恵亮堂
ここには真盛の
にない堂。
常行堂と法華堂をつなぐ廊下の下をくぐる。「にない」は「担う」。弁慶が担いだという話もある。
常行堂は本尊阿弥陀如来で常行三昧の場、法華堂は普賢菩薩を祀り法華三昧を修する場。
右下の写真は常行堂の後ろ。ここが興味深いのは、鎌倉時代末に光宗という黒谷にいた僧が書いた「渓嵐拾葉集」の第三十九に「常行堂摩多羅神事」、第六十七に「怖魔秘術事」という記述があり、前者第三十九によると円珍が唐からの帰りに摩多羅神を感得してここに祀ったという。円珍の唐からの帰途というと新羅明神の話もあり、新羅明神が本命の感じ。摩多羅神は「後戸の神」で常行堂のこの後戸の辺りに祀られていた(いる?)はず。後者第六十七によると、「山門常行堂衆夏末ニ常行堂ニ於テ大念仏ト申ス事アリ。仏前ニテハ如法ニ引声ス。後門ニハハ子ヲトリ無前無後ニ経ヲ読ム也。是山門古老伝ニ天狗怖ト申シアヘリ」で常行堂の天狗
釈迦堂に向かって、左が常行堂、右が法華堂。
真盛が学んだという南谷南上坊跡。親鸞はお隣さんの聖光院にいた。親鸞は13世紀、真盛は15世紀で二人が出会ったわけではない。
聖徳太子の伝承は比叡山にもあった。
天台宗と聖徳太子信仰の関係は調べ甲斐がありそう。
女人禁制だった比叡山に不思議と弁天さんは数か所に祀られている。
浄土院
最澄の廟所で、延暦寺のなかでも特別な聖地。十二年籠山修行の場。
掃除地獄と言われるだけあって、他と比べると総てが格別に手入れされている。