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宇治川左岸

(あがた)神社



「闇夜の奇祭」として知られる県祭(あがたまつり)が5日から6日未明にかけ、宇治市宇治のJR宇治駅周辺であった。好天に恵まれ、約12万5千人(市観光協会のまとめ)の人出でにぎわった。ハイライトの梵天渡御(ぼんてんとぎょ)は、今年も県神社と奉賛会が分裂して行ったが、2年ぶりの勇壮な姿を家族連れなどが楽しんだ。梵天は、白い奉書紙を球状に束ねたみこしで、深夜の渡御が最大の見せ場となる。大阪や兵庫などの担ぎ手がつくる奉賛会と県神社が神事や運営で対立、2004年から双方が独自に実施している。昨年は新型インフルエンザで中止した。 県神社では6日午前0時前から渡御の儀が始まり、周囲の明かりを落として、暗闇の中で梵天への神移しが行われた。その後、地元信者が梵天を回転させて揺さぶる「ぶん回し」をし、神社と旧大幣殿前を往復した。一方、奉賛会は5日午後11時、梵天渡御に出発した。担ぎ手が宇治神社御旅所前でぶん回しを行った後、宇治橋西詰めまで練り歩いた。橋近くでもぶん回しを力強く披露して、周辺は熱気が立ち込めた。
(京都新聞 2010年6月6日より引用)

縣神社の大弊神事
6月5日~6日未明に行われるが、道に神を祀り地域内に災禍、疫病が入り込まない事を祈る神事。
宇治神社では6月8日に還幸祭と夏を前に大弊で疫神を集め宇治川に流してしまおうといった趣旨の神事が続くようだ。


平等院

浄土院


救世船乗観音という船を漕いでいる珍しい観音様を公開していた。


通圓は宇治橋東詰めにあるお茶を売っている店。
その初代はこの説明にあるように源三位頼政に仕え、宇治川の戦いで討死したという。



通圓

通圓

【おまけ】
宇治橋東詰の「通圓」。
冷水玉露と羊羹のセット。


不動堂


源頼政の墓。鵺を射落とした話もあるが、それで大出世したわけでもなさそう。なぜ老齢の身で反平氏の挙兵に身を投じたか、なんとなくその気持ち、わからなくもないといったところ。
能の鵺(ぬえ):旅の僧は芦屋の里で何者とも知れぬ陰鬱な相貌の舟人に出会う。僧との問答の末男はついに自分が鵺の亡霊であると明かし、帝を苦しめた罪により源頼政に退治されたときの有様を仕方話で物語る。詩情味豊かな鬼能。(鵺とは顔は猿、手足は虎、尾は蛇という化け物)
能楽協会の能楽事典・曲目データベース(http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/program/detail/203/53//)より。


扇の芝


平等院の庭に扇の形に刈り込まれた芝があり、そこが源頼政が自害した場所というのは能の話で、平家物語ではそこまでは書いていないようだ。
能の頼政:宇治の平等院をたずねた旅僧は一人の老翁と行き会い、あたりの名所や宇治川の合戦の様を教えられる。老人こそは源三位入道頼政の亡霊。夜半に本体を現した老武者の霊はのときの合戦と自害の様子を再現する。
能楽協会の能楽事典・曲目データベース(http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/program/detail/273/85//)より。

鳳凰堂

鳳凰堂の屋根の鳳凰。けっこう獰猛そうな感じ。



鬼瓦


浮島の十三重石塔


鎌倉時代の僧、叡尊によって建てられた。高さ15メートルで日本最大。
叡尊は宇治橋が流失したのは宇治川での漁業が原因として平等院で魚供養の放生会を行い(橋寺放生院の説明では放生会は橋寺で営まれたとかいてあり、その方がもっともらしい感じがする。)、宇治橋を再建した。
その時、この十三重石塔も建てられた。
現在のものは1908年再建と書いてあり、橋寺放生院が管理している。


浮島の上流側の端。
浮島やそのすぐ下流の「橋の小島」の左岸側は川というより導水路のような感じで、灌漑用水として引き込まれていたように思われる。ここらは嵐山の渡月橋あたりの左岸と似ている。

渡月橋から上流を望むのと似ているが、もう少し静かな雰囲気。