高月町渡岸寺・東物部・西物部・唐川・西野・磯野・落川
高月町渡岸寺
渡岸寺観音堂(向源寺)
寺伝ではその昔、聖武天皇の天平八年(今から約一、二五○年前:736年)当時都に疱瘡が大流行し死者が相次いだので、天皇は除災の祈祷を僧泰澄に勅せられました。泰澄は勅を奉じ、祈願をこめて十一面観世音を彫み、一宇を建立して息災延命、万民豊楽の祈祷をこらしてその憂いを絶ったと伝えられます。以来、病い除けの霊験あらたかな観音像として敬迎せられ、桓武天皇の延暦二○年(八○一年)には比叡山の僧最澄が勅を奉じて七堂伽藍を建立、「慈雲山光眼寺」と称し、多くの仏像を安置して輪奐(りんかん)の美をきわめました。しかし時勢とともに寺運は漸く衰え、元亀元年(1570年)、豪雄浅井・織田両氏の戦火のため、堂宇は悉く(ことごとく)烏有(うゆう)に帰し寺領亦没収せられて、ここに全く廃滅してしまいました。此の兵乱に観音様を敬迎する住職巧圓をはじめ土地の住民達は、兵火が堂宇を襲うや猛火を冒して搬出しましたが、お守りする堂なく、やむなく土中に埋蔵して難をまぬがれたといわれます。その後、巧圓は真宗に転宗し、光眼寺を廃寺にし向源寺を建て、真宗の寺院では大日如来像、観音像など阿弥陀仏以外の諸像はお祭りできないため、小さな別堂を建て秘仏としてお祭りしてきました。
『渡岸寺観音堂 向源寺』より
同居している天神社。
県指定有形文化財 像高 阿形 一九四.二センチ
木造金剛力士像 吽形 一九四.〇センチ
金剛力士像は密跡金剛とも云い観音二十八部衆の
一に加えられ仏を警護する護法神である 普通寺院の
山門に安置され寺域を守護するのが通例で向って右
の口を開いている方が阿形左の口を閉じている方が
吽形で阿吽一対をなし仁王像ともよばれる 又金剛力士と
も云う この像は平安時代に多く使用された榧材の
一木造りで髻から頭躰の躯幹部を一材で彫出し像内
もまったく内刳らない丸彫である 但し木材がそれ程
太くなかった節が表面にあらわれることをきらって
矧ぎたしている 榧材は黄味をおびねばりと適度の
硬さがあり平安時代の仏教彫刻には最適の用材とし
て多く用いられている 特に木肌を生かして表面に彩
色を施さない檀像様の仕上げが多いこの像の仕上に
ついては痕跡がないため不明であるが他の作例から
見ておそらく彩色像であったものと思われる 仁王像
は他の天部像とちがい上半身裡(ママ)形に造るため表現が
むずかしく一般に仁王像と云えば筋肉たくましくや
たらと誇張するあまり力みすぎてかえって不自然さ
が目立つ像が多い この像はむしろ筋肉の隆起を誇張
せずおだやかに表現している しかし衣文の彫は浅目
に刻むが陵(ママ)線には平安時代特有の鋭さがある裳の両
側や肢間の過(ママ)文翻波の表現も見事である 重厚な量感
を感じさせる 又肢間には弧を描いてたるむ衣文表現
は平安前期頃の天部像に見られる表現を仁王像にと
りいれた珍しい彫法であり平安時代の特色を十分に
うかがい知ることができる 従って制作年代も当寺国宝十
一面観音像の造立と大差ない頃のものと思ってよか
ろう数少ない貴重な造作例である ただ惜まれること
は永い間だ雨露にさらされ損傷が著しく両腕と両脚
を失ないそれがために江戸期に大修理が行われた それ
が拙ない修理で著しく尊容を害していた処が昭和五
十六年四月二十四日に県の有形文化財に指定され現代の
文化財保護法による修理法による修理によって元の姿に
復元され一応形を整えることができた
昭和六十年九月吉日
高月町国宝維持保存協賛会
御尊像埋伏之地。事情は左と上述のとおり。
収蔵庫内は撮影禁止だが、ここの十一面観音立像は確かに美しい。照明の加減か正面から見ると顔が平板に見えるが、脇から見ると目鼻立ちが美しい。個人的には観音像に劣らず隣の胎蔵界大日如来坐像に魅入られた。観音像と同様に生身の人を感じさせる体の滑らかさがあり、人の気配を感じてしまう。
1925年(大正14年)に建てられた本堂。観音堂だったはずだが、十一面観音像は隣の収蔵庫に移され、現在は阿弥陀如来像が安置されている。外から遠目に阿弥陀様を撮影。
高月は月の名所。
月を見るならやはり琵琶湖湖岸の方が良いと思うけど…
本堂左手の池と島に立つお地蔵さん。
渡岸寺の野神さん
国宝十一面観音立像で知られる渡岸寺観音堂から出た道の用水路の脇にある。
説明板にある「渡岸寺しゃぎり」は、野神祭で渡岸寺集落を行列が回る時のお囃子のこと。
向源寺
渡岸寺観音堂の前の道を左に行った突き当りに向源寺はある。
東物部
集落に入ると落ち着いた景観にほっとする。
光明寺
乃伎多神社
乃伎多神社の主祭神である味饒田命(ウマシニギタノミコト)は物部連の祖神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(饒速日(ニギハヤヒ))の孫で宇摩志麻治命の子となる。村域の東部に正の宮跡などの地名があり、かつて乃伎多神社はその地域に鎮座していたのではないかと言われる。
西物部
八幡神社
高月町唐川
唐喜山赤後寺(からきさん・しゃくごじ)
かなり本格的なお堂だが、それが転利(コロリ)観音への帰依というのは悲しい現実。"天寿を全うして"コロリと死ぬのは確かに理想的な死に方ではある。
聖観音と千手観音の立像が並ぶ。
向かって右側に日吉神社、左に八幡様と神仏習合の地。
高月町西野
湖東山正妙寺
立派な神社の斜め上にある小さなお堂に安置されている十一面千手千足観音菩薩像は一般的な観音様とは全く異なった姿をしている。ヒンズー教的と言うか、眷族神と言うのか、いただいた説明書にも本像のような形相の像は他に全く例を見ず、いかなる儀軌・根拠を反映しているのか詳らかではない。
と書いてある。高さ42.1cmと小振りで状態は塗り直したのだろうが極めてよい。
日枝神社本殿の左上のお堂に祀られていたが、2017年1月から西野薬師堂にあったお堂に祀られている。
西野薬師堂
ここに十一面千手千足観音菩薩像が安置されるようになった。
十一面観音と薬師如来が並んで祀られているが、美術的には肉感的な十一面観音立像の方が上だろうか。薬師如来像は、いただいたパンフレットには10世紀中頃から11世紀初めの制作だとする。明らかに両手は後補で、この地域に真宗が拡がった後に右手を
他に十二神将像が二体あるが、後年塗り替えられてどぎつい感じ。
磯野
磯野氏と磯野城
磯野氏は井口氏や阿閉氏と同じく京極氏に被官した国人で、磯野集落から余呉川を渡った西の山中に磯野城という山城を築いた。直系ではないが、佐和山城主磯野伊予守員吉の養子に迎えられた員宗の子が磯野
磯野寺・赤見神社
磯野は2月15日に行われる「嫁オコナイ」で知られている。
高月町落川
紫雲山浄光寺
屋根の形がユニーク
落川の野神さん
浄光寺と日吉神社の間だが、日吉神社に近い。昔は南の用水路近くの杉の木が野神さんだったという*2 P206。
井宮神社
井宮神社は高時川右岸堤防のすぐ外側にある。
古保利古墳群
西の琵琶湖との間の山の上に連なる古墳群。
西野水道
初代
二代目