高月町の「野神さん」についての考察(まだまだ途中)
野神さんと水利
高時川・余呉川などの河川と野神さんの関係を考える際には、河川の二つの役割に注目する必要がある。
- 農業用水・生活用水の水源
用水の確保は水耕稲作を中心とする農業には重大な関心事だが、用水の主たる供給源となる河川は、日本列島の地形から流路が短く勾配がきついものがほとんどである。大雨で河川へ流入する雨水が増加すると、上流の土砂を押し流し長期的には扇状地や三角洲を形成し、その過程で土砂の堆積などで流路がしばしば変わるが、個々の大雨では中流・下流の洪水の頻度が高いことを意味する。
一方、一旦渇水になると、河川の流量は急速に減少する。これらの傾向は、河川の上流で杣や鉱山が開発され、樹木が大量に伐採され、山の保水力が低下すると、一層加速化される。
高月では、「餅の井落し」のような旱魃時の水争い回避の儀式が定められ守られてきたが、それだけではなく、龍神様などへの雨乞いも各集落や複数集落単位で行われた。野神さんは、こうした旱魃や洪水時には無力だったようで、野神さんに雨乞いをしたという話は聞かない。この点は野神さんがどういうカミなのかを考える際のヒントとなる。確かに野神さんは水と結びついているが、水そのもののカミではなく、農業と耕地のカミという性格が強そうである。水利は国営湖北農業水利事業などで改善されたが、生態系への副作用も無視し難い。 - 河川敷などの草地
草は生活に多様な形で結びつき活用されていた。堆肥や牛馬の秣(まぐさ)、屋根葺きなどの建築材に使われ、各集落が入会地として山や河原に草刈場を持っていた。高月では史料が見いだせていないが、愛知川右岸に左岸の集落の野神さんが祀られていたことが近世~明治初期の絵図からわかる。これらの野神さんは草刈場のカミという性格があったと思われる。なぜ愛知川右岸に左岸の集落が土地を持っていたのかは不明だが、氾濫原だったのではないかと思われる。こうした場所は流路が変わりやすいので、歴史的経緯でそうなったのだろう。この愛知川の例を念頭に高月を見ると、雨森・保延寺の昭和30年までの旧地、馬上の野神さんなどは、高時川のこうした位置に祀られていたのではないかと想像される。
高時川頭首工
高時川の草地
現在、高時川に「草刈場」は存在しない。需要がなくなってしまった。それでも堤防内の河原には水性植物が繁茂している。これらは雑草として定期的に刈り取られているが、刈り取った草はどの程度活用されているのだろうか?
高月町の「野神さん」について
以下で、祭や行事が「行われている」と現在形で記述されている箇所の多くは市町村史に依拠している。それらの発行時期は概ね1990年代から2000年代である。従って、現時点でもそのまま行われているとは限らない。これらの祭祀・行事が人口減・高齢化などにより急速に簡略化・消滅しつつあるという現状を認識しておく必要がある。
野神祭
- 高月町の野神祭は、ほぼ8月16日から18日の間に行われる。
- 高月町では湖南や奈良の一部の野神祭に見られる子供相撲のような"通過儀礼"的な行事は見られない。但し、郷廻りなどで子供が中心になっているものはある。(元々はなかったにしても、祭りを継続するために、子供参加型の行事を組み込む意義はある。)
- 奈良盆地北部の野神祭りに顕著で、湖南にも若干見られる農耕用の役牛は登場しない。「ヤンマーさんの前」の時代に高月町で役牛を使っていたのは確かだが、深田のため牛の脚が沈んでしまい、あまり使われていなかったという。どちらにしても農耕用の役牛はいなくなってしまったので登場しようもないという事かも知れない。
- 多くの文献*22などが野神祭の虫送り行事との関係に言及している。8月後半は稲の開花時期なので虫送りの時期と重なる。松明を持って回ったり、鉦・太鼓を鳴らして田畑を回る郷回りは虫送り行事に特徴的に見られる。
- 但し、旧暦の8月(葉月)16日は新暦では9月下旬になってしまい、虫送りには遅すぎる。旧暦(太陽太陰暦)の時代でも8月だったのか、新暦で8月となったのかを調べる必要がある。なお、*8「滋賀県の『野神信仰』と持続保全の行方」に
現在は新暦によっているが、明治までは当然旧暦で行われており、これには稲が実る時期である旧暦8月中旬に台湾で行われる大樹公の祭りや韓国の祭りとの類似点が指摘できる。(85頁)
と、昔は旧暦8月だったという記述があるが、その根拠は記されていない。旧暦8月に行われていたとすると、野神祭と虫送りという本来別々の行事だったものが、新暦になってから同時期ということで一緒に行われるようになったと考える事もできる。 - 虫送りに限らず、オコナイや太鼓踊りなど他の様々な要素が野神祭りの行事として取り込まれたが、その取り込み方の違いが各集落の個性となって表れている。集落によっては、2月のオコナイと対になった8月行事として位置づけられるかもしれない。
- 8月16日という日からは、盆送り(送り盆)と一緒に行われるようになった可能性が考えられる。農業神となった祖霊神を送るという解釈も可能かもしれない。湖東の野神祭りは8月6日・7日に多く見られる。これは旧暦の七夕であり、盆の「お精霊さん迎え」の時期にあたる。湖北の場合は「精霊送り」と一緒に野神祭りが行なわれるようになったという事も考えられる。
- 新暦の8月6日・7日(旧暦で7月6日・7日)は立秋になる。立秋に野神と山ノ神が交代?するという理解を湖東で聞いた。季節の変わり目の実感としては、新暦の8月16日頃が土用の入りで9月6日頃が立秋というのが自然に思われる。土用が神様のバトンタッチの区間とすると、その初日に野神祭をするという考え方があってもよさそうだ。
- 土用は土公神の期間であり、夏から秋への移行期間となるが、野神さんと土公神を結びつけるのは難しい。
- 山崎時叙「近江・大和における野神信仰の民俗学的研究」*20に「『金剛定寺縁起書』における日野中山の野神祭に関する記載には、『蒲生貞秀紀曰於於西中山毎八月一日村預祭礼新儲神座』とあって、中山の野神祭が旧暦八月朔日に行われた事がわかる。又伝承によっても、明治期には、旧暦八月朔日が祭日であって、明治期まで、この野神祭が、旧暦の八月朔日に行われ続けたと見られる。」という記述があり、これは日野町の事例だが留意するに値すると思われる。
- 祭を、依代などの前で行われる神事と、主にその後に行われる祭礼行事に分けてみると、一般的に後者の方がその土地の個性が強く表れる。祭礼行事は、第一に神をもてなし喜ばせるためのものであり、その土地ならではの歓待をするという傾向がある。それが行事として、様々な要素が入り込む余地を生み出していると考えられる。それは、程度は限定的ながらも神事にも表れている。従って、子供相撲、太鼓踊り、虫送り・郷廻りなどは、祭礼以外の要素が反映されており、その祭礼でもてなすカミへの信仰の性質を直接反映しているとは限らない場合が多いと考える。旱魃はいつ起こるかわからないから、定期的に太鼓踊りを練習する機会として毎年の祭に取り込んでいるのだという古老の話/見解を読むと、そうした印象を裏付けられた思いがする。
「野神さん」の木・石碑と周囲との位置関係
- 「野神さん」の木や石碑の位置は、集落や田地の東西南北いずれかに偏るという傾向は見られない。
※個々の「野神さん」と集落との位置関係は、上の衛星写真の地図をズームアップすると見ることができます。
- 周囲の山との位置関係に定型的なものは感じられない。
- 「野神さん」と墓地の位置関係は、祖霊信仰との関係で確認が必要。ただし現在の墓地は圃場整備で移転・集約されている。
- そもそも「野」とは、どのような場所なのか。柳田国男は『地名の研究』に「山の麓の緩傾斜、普通に裾野と称するものが、之に当つて居る」、「地名の盛に出来た頃の何々野は.一方が山地であり、又僅かなる高低のあることを意味したらしい。」と記している。野は「山野」、「野原」というように、山と原の間の緩やかな傾斜地を指していたようである。そうすると「野神さん」は扇状地や三角州などの平野部よりも棚田をイメージするような地形に祀られていたように感じられる。しかし「ノガミ」を「農神」と記すなど、「ノガミ」と「ノウガミ」が同義語として使われている例も見られる。
- 高月町の「野神さん」は、その(元の)位置から、(1)山麓と田地・集落との境の山麓側、(2)川や農業用水路の近く、の大きく2パターンに分類できるものが多いようである。(1)は、『常陸風土記』行方郡にある「夜刀の神」の話を思わせる位置である。また、「山の口」と言われる場所だとも言えよう。以下で再度検討する。(2)は、湖東・湖南にも共通するが、水稲稲作に必須の農業用水に対する感謝と、旱魃・水利・水争い・洪水の歴史と記憶を反映しているのであろう。
- 「村境」に「野神さん」が祀られているところがあるという表現は言葉足らずである。福田アジオは『日本村落の民俗的構造』(弘文堂 1982)や『時間の民俗学・空間の民俗学』(木耳社 1989)などに、ムラ(居住空間)・ノラ(耕地)・ヤマと「ムラの領域構成」を3つに分けて示している。これに従うと「村境」は、(1)道切りなどが見られるムラとノラの境と、(2)太閤検地以降の検地・村切りで成立したとするノラとヤマ・隣村のノラとの境などを村境とする2つの境界概念があることになる。ムラとノラの境に「野神さん」の巨木があるケースは、西物部、(現在の)唐川、(現在の)柏原、(現在の)高野の「野神さん」などから見て取れる。西野や松尾・重則の「野神さん」は、ノラとヤマの境界に祀られていると分類できる。
「野神さん」の木と周辺の現状
- 高月町の現在は石碑になっている「野神さん」も、数カ所は明治初期の絵図を見ると、かつては樹木であった事がわかる。ただし、保延寺・雨森、馬上は、樹木といっても竹が重要な役割を果たしており若干異なる。これは、高時川の河川敷という流失の危険がある所に祀られている/祀られていたという事情を反映しているように思われるが、推察に留まる。
- 圃場整備の結果、周辺の景観は一変してしまっているが、巨木を移動させることは困難なので、「野神さん」の木の位置は変更されていないであろう。
- 木には寿命がある。また、自然災害で倒れることもある。槻(欅)は条件が整えば数百年の寿命があると言われるが、それでも現在の「野神さん」の木や、その先代の木がずっとその場所にあって「野神さん」とされてきたとは簡単には判断できない。
- 少なくとも現在に於いて、巨木は「野神さん」にとって必要条件とも十分条件とも言えない。
- 現状は、圃場整備の記念碑と並んだ石碑になった「野大神」も多い。寧ろ、木や場所にこだわらず、「野神さんを継承する」事を重視する思考に「野神さん」の本質に迫る道があるのかもしれない。つまり、「野神さん」は場所に縛られてはいない。
「野神さん」はどのような神として認識されているか。
- 巨木ではなく「石碑でも可」という発想は、「野神さん」は木・石碑・青竹そのものに宿っているのではなく、それらを依代にどこかから降りてくる神というイメージで捉えられている事を示しているのだろう。その「どこか」は、山だろうか、あるいは天上だろうか?
- 奈良県の野神に多く見られる"龍"、"蛇"というイメージは高月町では希薄である。水の神様は「龍神様」だと言われた。しかし、米原に近い長浜市小一条町の「野神さん」は蛇で水神だという*23 p309。川のそばに祀っているところも少なくない。
- 高時川については林右衛門淵から仲右衛門の地を経て神高槻神社に移された*1龗神を祭神とする龍神社、余呉川については東柳野の賣比多神社の龍神社がある。「龍神様」はもちろん、「野神さん」も水との係わりが強いカミだが、各々の性格は異なるように思われる。すなわち、「龍神様」は川の上流から下流までを対象とする旱魃・洪水に関するカミであり、「野神さん」は沖積平野の農村における灌漑・生活用水のカミという位置づけであろう。
- 更に、用水路ごとに「井の神」も祀られており、その用水路を利用する集落の共同祭祀の形態をとっている。
- 「山の神」という色合いは洞戸以外では希薄なようだ。ただし、西野や松尾・重則のように、田と道一つで接する山の麓に「野神さん」が祀られているというところがある。この点は以下で更に触れる。
- なぜ、高月町のほぼ総ての集落に「野神さん」が見られるのか?横並び意識なのか、他の理由があるのだろうか?中世の高月町は大きく、井口を中心とする高時川に沿った富永庄(荘官の井口氏は浅井氏の家臣となる。)と、磯野氏、阿閉氏などの武将が出た余呉川沿いに分けられそうである。特に富永庄一帯のまとまりは、大海道遺跡や己高山にあった寺院とその麓の多くの塔頭寺院と重なり、古代まで遡ることが出来そうである。富永庄の用水路は平安時代には存在していたと考えられる。(物部氏に関係した?)石作玉作神社や東・西物部周辺の遺跡、姫塚古墳や瓢箪塚古墳、古橋東遺跡の製鉄遺跡、大海道遺跡と、この地域の歴史は縄文時代まで遡ることができる。
- 『山東町史 別編』*19の野神の項に、
天正十九年(一五九一)の『江州坂田郡柏原領分岩谷御検地帳写』に見られる「カミの木」(史料編五ニ六頁)や元禄三年(一六九〇)の『江州坂田郡柏原宿田畑位違改帳』にある「神ノ木」も野神信仰の存在を推測させる字名である。(208頁)
、山東町内のノガミ信仰については、応仁二年(一四六八)の『日尽郷旧社古跡留書』(北方寺村文書)に、虚空蔵菩薩を祀る土地を「野神山」としていることや、大永三年(一五ニ三)の『寺領指出案文断簡』(観音寺文書)に「野神之鼻」と記されていることなどから、少なくとも室町時代中期まで、地名としての「野神」は遡ることができ、既に信仰の広がりを想像させる。(216頁~217頁)
という記述がある。
「野神」という小字名などに「野神さん」が祀られていた蓋然性は高い。しかし、「野上」という地名をも「野神さん」を祀る場と直ちに結びつけるのには躊躇する。それでは能の「班女」のシテ・上﨟の「花子」がいた野上宿(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)の語源も野神になりかねない。「ノガミ」という地に「野神」という漢字をあてたという順序も考慮しておく必要があるのではないだろうか。
八日市の妙法寺町にある宝篋印塔の銘文南面に「安主野神/雑賀三ヶ所/寄進也」とあるのが滋賀県での野神の初出と考えられる。「永仁三年(1295年)2月19日、西円という法名を名乗る吉田四良次郎なる人物が願主となり近親と思われる物故者の供養のためにこの塔を造立し、安主、野神、雑賀の三ヶ所の田地を寄進したとの趣旨である。(『八日市市史 第二巻 中世』)」
高月では、『湖北物部の生活と伝承 滋賀県伊香郡高月町東物部・西物部』*18 p142に東物部共有文書として、「庚安永九年」、つまり安永九年庚子と表紙に記された『農神番指定帳』が記載されている。この「農神」は「野神」であろう。安永九年は1790年である。 - 近世初め(16世紀終わりから17世紀頃か)に一種の流行神として一挙に広まったという感触がある。何をきっかけに広がったのだろうか?例えば、どこかの集落が始めたものが御利益もあって評判になり横並び意識も手伝って一気に広がったという仮説は考えられないだろうか?
「山の神さん」が平野部に下りてきたのか。
「山の神さん」は一般的には山の麓・平野部との境界や、少し山中に入った辺りに祀られている。「山の神さん」は、春に山を下り「田の神」となり、収穫が終わると山へ帰る農業神と説明される事が多い。
- 平野部の集落も薪炭や刈敷(かりしき)・厩肥(きゆうひ)のための山は必要だったはずである。山には「山の神さん」が祀られていたが、特に山から遠い集落において、集落周辺へ移されたのかもしれない。一つの仮説として置いておきたい。
- 「山の神さん」を水源の神(農業用水・洪水)として平野部の川の傍に祀ったという事も考えらる。以下に徳島の例を示す。
ガイドブック『八万町の昔を探ろう』(http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hachiman2008/guide.pdf 2016/05/16 確認)109頁の以下に引用するコラムが特に興味深い。
〜橋本の地神塔と水神・山神塔〜
橋本の地神塔は、同じ基壇上に水神・山神が並べて祀られている。 同様の事例について、高橋晋一「地神塔と三神塔(続)」では、「寛政7(1795)年、地神に加え山神についても村々で祀らせるように早雲伯耆が藩に建白」したと記録(史料)(『徳島地域文化研究』第3 号、121 頁)を紹介しつつ、「建白には、山分(山間部)の村々では早くから山神が祀られているが、里分( 平野部) の村々においても洪水の害(さらには鳥獣の害)を防ぎ農業生活を安定させるため、地神に加え(洪水の淵源である山を司る)山神を祭るべきこと、祭日は正月7日・9月7日とすること、祭神は山神・木神・水神の三座であることなどが記されており、県内に残る三神塔は、この建白を受けて造立されたものと考えられる。」(『徳島地域文化研究』第3 号、123 頁)としている。さらに、橋本の水神・山神の石塔と地神塔を写真入りで紹介し、「いずれも水神の名が正面に刻まれ、また平野部の川縁に立てられていることから、洪水除けの神として祀られたものと考えられる。水神を( 小祠や石碑の形で) 単独で祀る事例は県下にも比較的多く見られるが、あえて山神と水神の名を併記した点に、寛政7年の建白の影響が感じられる。」(『徳島地域文化研究』第3 号、130 ~131 頁)と述べている。 橋本の地神塔を訪れたとき、冷田川のすぐ横という立地のこと、地神塔と水神・山神が一つの基壇上に並べてたてられていること、水神・山神が一つの石塔に刻まれていること、形が地神塔と同じ五角柱であること、水神・山神の記銘の上に「南無」と冠されていることなど、不思議に思うことが多々あったが、この高橋論文により疑問がかなり解ける。
早雲伯耆は徳島市伊賀町にある八幡神社の神官だった人物で、阿波徳島藩第11代藩主蜂須賀治昭に進言できる立場だったらしい。寛政七年(1795年)は、それまで毎年のように起こっていた水害で藩の財政が著しく逼迫し、様々な緊縮策を打ち出した年だった。
平野に降りた「山の神さん」が「野神さん」に転じたのか。
「転じた」というよりも、まず「同体」と見なされ、次に「一体化された」と考えるべきだろう。湖南・湖東・湖北の主要河川沿いに、「山の神さん」と「野神さん」の傾向を見てみよう。
- 杣川・野洲川流域の甲賀市や、日野川流域の日野町では「同体」としながらも、柳田国男が『年中行事覚書』などに書いている「春に山の神が里に下って田の神となり、秋の収穫期を過ぎると山に戻る」という見解そのままに、「山の神さん」と「野神さん」の両方を祀っている/祀っていた集落が多い。
- 日野と同じ日野川水系流域のやや下流にあたる蒲生町や竜王町は、「山の神さん」の方が比率が高い。
- 東近江市上羽田では、「山の神さん」と「野神さん」を隣同士に並べて祀っている。祭日は異なる。
- 愛知川流域では、左岸(南)の五個荘は「野神さん」、北の愛知川は「山の神さん」にほぼ完全に色分けされている。カミの名が違っても、どちらも川や用水路のそばに川石を並べたり積んだりして祭場とするところから、同根と見なせるのではないだろうか。
- 犬神川右岸流域では、どちらも全く希薄である。僅かに多賀町北の山間地の集落に「山の神」が祀られているが、これはここで取り上げている平野部農村での「山の神」ではなく、林業などを生業とする山村としての祀り方に分類される。左岸には「野神さん」が見られ、小字名にも見いだせるが、密度が高いとは言えない。扇状地の要のすぐ上流に高龗神(たかおおかみ/たかおかみのかみ)、闇龗神(くらおおかみ/くらおかみのかみ)、水分神を祭神とする大瀧神社があるからかもしれない。これだけの神々が犬神川の旱魃・洪水、水利全般を司っているならば、その下流で他のカミを祀る必要は感じられなかったのかもしれない。
- 米原市の天野川流域は、東の上流部へ行くほど「山の神さん」が見られるが、全体としては「野神さん」の方が比率が高い。
- 姉川流域の平野部では、僅かに「野神さん」を祀った形跡が小字名や神社の末社に認められるが、祭祀としては希薄である。
- 高月町や木之本町の高時川・余呉川流域では、「山の神さん」は希薄で「野神さん」一色と言ってよい状態になる。
- 湖北でも、余呉町など賤ケ岳以北には、旧正月頃に「ヤマコ」(山講)という山の神を祀る行事が見られる。これも山の仕事を生業とする人々にとってのカミだろう。この行事が山の中の山の神ではなく集落の神社や家庭内で行われるのは豪雪地帯だからだろうか。
こうした地域差は、水利を通じた集落の繋がりにより地域ごとに形成されたものと考えられよう。各々の地域が各々の解釈で「山の神さん」や「野神さん」を祀ったのであり、その差異の背景には、各地域の戦乱、旱魃、洪水などからの復興の歴史があるのだろう。
- *01 高月町町史編纂委員会/編 『村落景観情報-滋賀県伊香郡高月町村落景観情報』高月町教育委員会 1998
- *02 滋賀県教育委員会文化財保護課/編 『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』滋賀県教育委員会 2007
- *03 吉田一郎『湖北の民俗-中日新聞より』中日新聞社 1986
- *04 吉田一郎『湖北賛歌 吉田一郎著作集 1』吉田一郎著作集刊行会 2001
- *05 東京女子大学文理学部史学科民俗調査団『甲賀杣中の民俗』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団 1983
- *06 農業農村整備情報総合センターのWebサイト「湖北の祈りと農」(http://suido-ishizue.jp/nihon/kohoku/index.html 2016/08/19)
- *07 渡辺大記「野神に見る、人間と自然との共生の形態」『人間文化』滋賀県立大学人間文化学部研究報告20号 滋賀県立大学人間文化学部 2007 所収
- *08 李春子「滋賀県の『野神信仰』と持続保全の行方」『社叢学研究 第9号』社叢学会 2011 所収
- *09 李春子『神の木 日・韓・台の巨木・老樹信仰』サンライズ出版 2011
- *10 古田悦造「近世近江国における魚肥の魚種転換と流通構造」『人文地理』第42巻 第5号 (1990) 所収
- *11 東物部郷土誌編集委員/編 『東物部郷土誌』滋賀県伊香郡高月町東物部 1991
- *12 西阿閉百年史編さん委員会/編 『西阿閉百年史』滋賀県伊香郡高月町西阿閉 1994
- *13 栗原基『馬上村と高時川水利慣行 1』(馬上の歴史叢書 5)自費出版 2001
- *14 栗原基『馬上村と高時川水利慣行 2』(馬上の歴史叢書 6)自費出版 2002
- *15 栗原基『馬上村と高時川水利慣行 3』(馬上の歴史叢書 7)自費出版 2002
- *16 国友伊知郎『北近江 農の歳時記』サンライズ出版 2001
- *17 橋本章「灌漑水利関係による多集落間祭祀の擬似性―滋賀県愛知郡愛東町上岸本及び同郡湖東町中岸本の事例から―」『京都民俗』第17号(1999年12月)京都民俗学会 1999
- *18 武蔵大学人文学部日本民俗史演習『湖北物部の生活と伝承 滋賀県伊香郡高月町東物部・西物部』武蔵大学日本民俗史演習調査報告8 武蔵大学人文学部日本民俗史演習 1985
- *19 山東町史編纂委員会/編 『山東町史 別編』山東町 1990
- *20 山崎時叙「近江・大和における野神信仰の民俗学的研究」『尋源 第三十三号』所収 大谷大学国史学会 1982
- *21 滋賀県文化財保護課/編『滋賀県の祭礼行事 滋賀県祭礼行事実態調査報告書』滋賀県教育委員会 1995
- *22 野本寛一『地霊の復権』岩波書店 2010
- *23 長浜市史編さん委員会/編 『長浜市史 6 祭りと行事』長浜市役所 2002
- *24 高月町町史編纂委員会/編 『高月町の地名』高月町教育委員会 2002