阿育王山石塔寺
滋賀県東近江市石塔町860にある天台宗の寺。寺のパンフレットによれば開基は聖徳太子。
近江鉄道の桜川から歩いたが、片道30分弱くらいかかる。田圃の中をまっすぐ歩くのは気持ち良いが、とにかく遠い。
石塔町の集落の祠など。
農業用の貯水池。
集落から石塔寺への坂道を上がるところにある極楽寺。
石塔寺に到着。
本堂。本尊は秘仏の聖観音。
上ってきた石段を見下ろす。
山上の阿育王塔はインドの阿育王が、仏法興隆のために世界に撒いた八万四千の仏舎利塔のひとつとされ平安時代一条天皇より阿育王山石塔寺の号を賜りました。
(寺のパンフレットより)
『日本書紀』巻第二十七の天智天皇八年に、又以佐平余自信。佐平鬼室集斯等。男女七百余人、遷居近江国蒲生郡。
とあり百済の貴族以下七百余人がこの蒲生に移住してきた事が記されている。この塔は百済の都だった忠清南道の扶余にあった定林寺の五重の石塔と似ていると言われ、これら百済からの移住者(亡命者、難民?)か、その子孫が建てたものらしい。花崗岩製。
正面
右側面
裏側
左側面
五輪塔。嘉元2年(1304年)、貞和5年(1349年)の建立の重文。
宝塔。正安4年(1302年)の建立の重文。
石塔石仏群と八十八箇所巡り鎌倉時代になりますと、参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、または、ご先祖の菩提を弔うために、仏舎利塔である阿育王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉納されるようになり、その後、数百年の間に多くの数になりました。
(寺のパンフレットより)
前半
後半
川合玉緒神社
主祭神はスサノヲ。北に玉緒山(布施山)がある。
勧請縄
金毘羅宮。九月一日に金毘羅相撲が行われるとか*1。
本郷、上本郷、東出、西出の4字が川合の山の神と野神を祀っている。山の神と野神は「玉緒神社境内の南東」にあり、「一月四日の早朝には、山の神の石碑のところに注連縄を張って供え物をする。」と『蒲生町史 第三巻 考古・美術・建築・民俗』*1には書いてあるのだが、見つけられなかった。
佐久良大明神
神名から佐久良川の神様らしいが…
川合東出石棺仏
悠久の丘 蒲生あかね古墳公園
天乞山古墳から稲垂の野神を眺む
木村の野神
木村の野神相撲の行事は、当番が松の木で作った男神・女神を祀り、供え物をして、そこに村人が参詣する。その後、神前の土俵にて子供の相撲が奉納される。相撲の終了後、参加した大人たちにより直会かある。木村は旧蒲生町の北部にあり、川合や稲垂、横山と隣接する。戸数は約六五戸で、集落の北側に柳宮神社を祀る。野神は、集落と柳宮神社の間の田圃の中にあり、かつては松の木が生えていた。この松は幕張の松または補陀落の松と呼ばれ、聖徳太子が松の木に幕を張って木像を彫った場所という。松は数年前に枯れ、今はその幼木がある。なお、集落内にある長徳寺の仏像は聖徳太子の彫ったこの仏像だという。また、木村の地名の由来になった木だともいう。行事は毎年八月二六日に行われる。(中略)相撲には、露払い、散らし相撲、ケシ相撲の三種がある。(中略)見物に来ていた老人や成人男子の約一〇人ほどは、引き続き直会に入る。場所を野神の近くの蛭子社の傍の木陰に移し、薦を敷いて、席を作る。供えられていたトビウオ、ナス、お神酒の他にスルメ、ジャコなどにより、宴が営まれる。この直会を牛祭りとも呼ぶ。約一時間、歓談が行われる。適当なところで、打ち切りとなり、区長の挨拶により、散会となる*4。
柳宮神社
市子殿・雨神社
市子松井・松井神社
祭神は松井大神。
「毎年八月二十一日ころに農家の人々を中心に野神さんの行事が執り行われる。市子松井には特に野神の祠などはないが、二軒ずつが当番となって宿を提供して会食する。その際当番の者はやはり黒ササギの種を申し送りで受け継いで栽培し、当日にはこれを炊いて松井神社に供える。」*1
田井集落内の祠
田井・天満宮社の山の神
山の神。祭礼は1月2日で、以前は大きな注連縄を鎌で切る「山の口開け」が行われていたが、藁が十分に確保できなくなって、三つの束を撚った注連縄になったと社守の方が言っていた。2017年現在、田井在住の農家は5~6件くらいらしく、残りの田は外部の人が耕作しているので祭りも小規模になってしまったという。
天神様。
以前は大塚と合同の祭祀だったと社守当番の方は言っていた。