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鳥居本

鳥居本には愛宕神社の一の鳥居があり、嵯峨から愛宕山への登山ルートだが、水尾-亀岡と結ばれてもいる。昭和十年代まで、保津川水系で獲れた鮎を、「鮎もちさん」が天秤棒で運んできた道だという。

試峠

試峠への上り坂から清滝のバス停を見る。

峠の頂上には清滝側から上がってきた車から対向車を見えるように、ミラーが頭上に下向きに取り付けられている。
ミラーが付いた頭上を横切るのは嵐山-高雄パークウェイ。

愛宕おたぎ念仏寺

右上の案内板に書いてあるように、もとは松原通り大和大路東入ルにあった。愛宕郡おたぎごうりは京都盆地の北から東にかけて律令制の国郡里制の時代から存在した郡。大正十二年(1922)にこの地へ移転した。

文保二年(1318)築という国の重文の本堂。

多宝塔

奈良県吉野郡天川村から天河大弁財天を勧請


ふれ愛観音堂

ちょっと懸け造りの地蔵堂


 

三宝の鐘。仏法僧の三音だそう。


五百羅漢かと思うと、「参拝者によって」彫られた千二百羅漢だそう。石像の背中に名前が彫ってある。
これだけの人々を集められたのは、無住で廃寺状態だった寺を再興した西村公朝の御人徳だろう。

愛宕神社一の鳥居

左に進むと落合、水尾、亀岡へ。

鳥居の向こうの左手に「あゆよろし 平野屋」さん。

平野屋の店の前にある「亀石」


嵐山-高雄パークウェイの陸橋が頭上を通る。そこに絡んだ蔦の紅葉も、なかなか良い目隠し。

化野念仏寺

8月の千灯供養で知られる。化野は、嵯峨村だけでなく松尾の方の人も含む墓地だった。その石塔などがこの囲いの中を中心に集められている。

曼荼羅山は、京都五山送り火の一番西になる鳥居形の山。ほかの四山と異なり、鉄製の受皿火床に松明を突き刺してまわって点火する。

嵯峨祭の御旅所になる。
例祭は四月中の亥日にして神輿二基あり。嵯さ峨が清せい凉りや寺うじの鎮守を御旅所として、野の々ゝ宮みやに振て神供を備ふ。[これを嵯さ峨がまつりといふ](「愛宕山の社 (愛宕山)」『都名所図会』翻刻文)
(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/pdf/kyoto4_pdf/km_01_04_006_01.pdf)

二尊院の墓地

現在も檀家が管理しているお墓を興味本位で写真を撮ってまわるのは失礼な事だと思います。
案内板が立っているものや、如何にも古そうなものに限定したつもりです。ご容赦を。



ここから右手の坂を上がります。

最初に目に止まるのは田村家代々の墓。
阪東妻三郎、田村高廣さん等が眠る。
他の墓と異なり普通の「代々の墓」。

扉に「男爵 四條家之墓」と書いてある。

伊藤仁斎の墓。江戸時代の儒学者。

角倉了以夫婦と角倉素庵夫婦の墓。
角倉素庵は了以の長男。

三帝陵
土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を祀る。
土御門天皇は鎌倉幕府倒幕を図った承久の乱を企てた後鳥羽上皇の子供。後嵯峨天皇は土御門天皇の第二皇子、亀山天皇は後嵯峨天皇の第七皇子で病弱だった第二皇子の後深草天皇(持明院統の始まり)を継いで即位した大覚寺統の始めの天皇。

ここらは鷹司家?

石だらけの景色は日本というよりも東南アジアの仏教寺院を思い出させる。

時雨亭跡?
藤原定家の嵯峨の山荘は、厭離庵、常寂光寺、二尊院の三説あり、実際はよくわからない。

寝殿造の本堂と弁財天堂。
ここまでが観光客が普通に来るところ。

八社の宮。

豪華メンバーだ。

天皇は達筆でないと勤まらない。
「小倉山」の方の第104代後柏原天皇は在位1500-1526年、「二尊院」の第105代後奈良天皇は在位1526-1557年。
二代続いて室町末期~戦国時代の天皇。

勅使門。

もっと空気が澄んだ日は、正面に双ヶ岡が見える。