高月町井口・持寺・尾山・保延寺・柏原、雨森
航空写真で見ると、高月町は四神相応、背山臨水で左右が砂で守られた土地になっている。
鴨川=高時川、桂川=余呉川、東山=己高山~小谷山、西山=西野丘陵、船岡山=湧出山、といったところか。
琵琶湖は西側にあるが……。山科盆地が‥無い!
高月町には31の村落があるが、野神さんの位置は主に『村落景観情報-滋賀県伊香郡高月町村落景観情報』(高月町町史編纂委員会 1998)に依って特定した。但し、以下の集落には野神さんは無い。
- 片山は湖岸にあり片山港がある漁村といった性格で、野神はない。
- 宇根の野神は日本電気硝子の工場内にあったが、現在は存在しない。
- 東柳野では神社で野上祭は行われているが樹木等の野神はない。
高月の地理と略史
高月町及び木之本町南部の高時川・余呉川流域は二月に行われるオコナイや「観音の里」として知られている。北は賤ケ岳、田上山、東は己高山系、西は西野山尾根と三方を山で囲まれ、南は旧湖北町に開ける。東山麓に高時川、西野山稜の東山麓に余呉川が流れる。八万年前のこの地域は古琵琶湖の湖底であり、伊香小江(いかごのおえ)と呼ばれる湿地帯の時期を経て沖積平野が形成され陸地化したと考えられている。伊香小江は『近江国風土記』逸文に見られる地名などで、これが書かれた時代に近い頃まで湿地帯であり、その記憶が残っていたと思われる。これは高月町のとりわけ西側一帯が深田で、近世の西野水道掘削に示されるように、余呉川の氾濫に悩まされ続けていたことの遠因であろう。
高時川の高月町よりやや上流にあたる木之本町古橋には七世紀前半の製鉄遺跡がある。また、余呉川流域の東柳野の姫塚古墳は四世紀前半築造の前方後方墳である。高時川右岸の大海道遺跡は弥生集落から平安時代までの複合遺跡である。十一世紀に飛鳥の川原寺(弘福寺)領の郡庄(こおり)荘、十三世紀には山門領富永荘が成立している。富永荘は山門管領の青蓮院領で、天福二年(一二三四)同門跡領惣目録に富永荘の所当一〇〇石を十禅師礼拝講にあてるとある。その荘官井口氏は伊香郡用水の「井預かり」/「井頼り」でもあった。後に国人となった井口氏は北近江守護職京極氏の被官となり、浅井氏が実権を握ると井口経元は娘の阿古を浅井久政の正室に入れ縁戚関係を結んだ。十六世紀に浅井久政により高時川の高月町の各井より上流より取水し、高月町よりも下流の小谷城下に給水する「餅の井(ゆ)」が造られた。文献上に水論が現れるのはこの時期になってからである。一方、余呉川流域からは、『信長公記』から中世に磯野氏や阿閉氏などが台頭した事がわかるが、彼らは惣村の有力者が転じたものと思われる。高月町一帯は織田信長が浅井氏を攻めた時に焼き払われる。『信長公記』には、「元亀三年(一五七二)七月、江北の敵地、焼き払ふ」という記述が見られる。この時、己高山の里坊も焼かれたが再興されず、その仏像を村民が祀ったのが「湖北の観音」の主たる起源ではないかと思われる。
高月町井口
集落西端近くの石仏たち。
井口には井口氏の居館が富永小学校あたりにあった。井口氏は延暦寺の千僧供領だった近江国伊香郡富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理する「井頼り」でもあった。富永荘が延暦寺に与えられたのは崇徳天皇の保延四年(1138年)の事(『伊香郡志』では保延寺という村落名の由来としている。)。後に豪族・国人となった井口氏は北近江守護職京極氏の被官となった。浅井氏が実権を握ると井口経元は娘の阿古(小野殿・井口殿)を浅井久政の正室とし縁戚関係を結んだ。久政と阿古との間の子に長政がいる。
井口弾正邸跡
理覚院:井口氏菩提寺
圓満寺跡
「井口青年會」が建てた道標。
日吉神社。山門領だったからか、そもそも「天台薬師の池」の周辺だからか、高月町には日吉神社や日枝神社が多い。
稲荷社
移された天満宮
このお堂が現在の圓満寺。
井ノ神社
この境内社の縁起は不明だが、井口氏は高時川の「井預かり」だったので、祀られたのは中世のあたりのかなり古い時代である可能性が高い。
井口の野神さん跡
集落西の田の中に浮かんだような天満宮跡に野神跡もある。
右のこんもりとした森が天満宮跡。中央手前に
持寺・尾山の野神さん
井明神橋西詰め北側の山麓にある。高時川頭首工から分かれ高時川右岸へ用水を供給する中央幹線水路がすぐ東側を通っている。尾山はこの西南の集落、持寺は尾山の更に西南の集落だが、二本並んだ杉をそれぞれの野神さんとしている。
尾山の杉は男で、持寺の杉は女だという。手前が男か?
8月16日の野神祭では、持寺がここに先に到着し、次に尾山が来て、
尾山の白山神社
高月町尾山
高月町持寺の白山神社
野神祭の時の持寺の人々の集合場所
すぐ西隣には薬師堂がある。
元々同じ境内にあった寺と神社の参道を分けたのは、当然神仏判然令に拠るのだろう。
高月町保延寺の大海道遺跡(おおかいどういせき)
昭和49年に発見された尾山・持寺・保延寺にまたがる弥生集落から平安時代までの複合遺跡。
井明神。文永八年(1271年)の大旱魃の時に建立され、正保四年(1647年)に石材で再建されたという。井堰水利の守護神*1。
『雍州府志』の尾山村の項の「井明神社」には「尾山村に在り、大井といふ井水の上に在り。相傳井口弾正娘、井水引兼ぬる故、人柱に入りしを祭れる神なりといふ。」とある。高時川右岸を所領とし伊香郡用水を掌握する「井頼り」だった井口弾正経元(正忠)の娘を妻とした浅井久政は、小谷城の西・西南麓の水利のために井口弾正に、現高時川頭首工付近に堰を設け高時川左岸下流への用水路を造ることを申し入れた。井口弾正は「(片目の馬千疋に?)錦千駄、綾千駄、餅千駄」という実質的に拒否となる引き換え条件を出した。それを総て中野(長浜市中野町)の豪農が届けたので、この人物を
高月町柏原
八幡神社
柏寿山来光寺
伊香具坂神社
秋葉神社
柏原八幡神社の野神さん
高時川が氾濫しそうになった時に水をせき止めるのに、この木の枝を切って使った跡が幹のこぶになっているという。
但し、ここから東、高時川により近い、国道365号の東側に小字ノガミがあったという事*24 pp110,121で、そちらが野神さんの旧地のように思われる。
佐味神社
国道365号道路脇の集約墓地にも巨木がある。「野大神」ではなく「南無阿弥陀仏」の石柱が立っている。
雨森・保延寺の野神さん
雨森・保延寺の野神さんは雨森と保延寺の境界のすぐ南にある雨森観音堂の北東角にある。
保延寺が男神、雨森が女神だそうだが、木は一本なので二神とも、この木を依代にしているという解釈なのだろう。
この形態になったのは昭和30年以降。それまでは高時川左岸の竹やぶに雨森の野神さんがあったが、川に削られ流されてしまったので、ここになったという(雨森まちづくり委員会編『ふるさと雨森』雨森区発行 2000)。当時は、高時川左岸まで、雨森と保延寺まで各々別個に川を渡ったという。
2018年9月の台風21号の強風で枝が折れてしまった。
己高山観音寺(雨森観音堂)
本尊は像高27cmの千手観音
高月町雨森(あめもり)天川命(あまがわのみこと)神社のイチョウ
東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
現在の高時川頭首工の少し上流に「餅の井(ゆ)」という堰があった。昭和十五年(1940年)まで約400年続いた緊迫した雰囲気の中で行われる「餅の井落し」で知られている。餅の井から取水した水は現長浜市小谷丁野町・小谷郡上町、湖北町伊部・二俣・河毛・山脇、長浜市中野町・下山田など小谷山西麓、西南に送られていた(その南は田川、平野川が用水を供給していた。)。高時川左岸の高月町一帯は餅の井の下流から取水していたので、渇水時に餅の井の堰を壊して右岸への取水を増やす必要があった。両者の武力衝突を回避する儀礼が「餅の井落し」だった。雨森の集落は高時川の右岸(琵琶湖側)が中心だが左岸(山側)にも広がっていたため、渇水時に行われた餅の井落しには参加せず、紺の法被に⿊帯、樫の棒を持って付近の⼭陰に潜んだという
*6。昭和十七年に合同井堰が完成し、抜本的には国営湖北農業水利事業が昭和四十年に着手され、昭和六十二年に完了した。琵琶湖の水を余呉湖へ揚水し、余呉川、高時川、更に草野川(草野川は姉川と合流し、その姉川は高時川と合流し琵琶湖に注ぐ)を導水路でつなぐという大事業だった。