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高月町の寺社

井口

高月町井口

集落西端近くの石仏たち。

井口

井口


井口

井口


井口には井口氏の居館が富永小学校あたりにあった。井口氏は延暦寺の千僧供領だった近江国伊香郡富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理する「井頼り」でもあった。富永荘が延暦寺に与えられたのは崇徳天皇の保延四年(1138年)の事(『伊香郡志』では保延寺という村落名の由来としている。)。後に豪族・国人となった井口氏は北近江守護職京極氏の被官となった。浅井氏が実権を握ると井口経元は娘の阿古(小野殿・井口殿)を浅井久政の正室とし縁戚関係を結んだ。久政と阿古との間の子に長政がいる。

井口弾正邸跡

井口

井口


理覚院:井口氏菩提寺

理覚院

理覚院


 

圓満寺跡


井口

井口


井口

井口


「井口青年會」が建てた道標。

井口

井口

井口


日吉神社。山門領だったからか、そもそも「天台薬師の池」の周辺だからか、高月町には日吉神社や日枝神社が多い。

井口

井口


井口

井口


井口

井口


井口

井口


井口

井口


井口


稲荷社

移された天満宮


井口

井口


井口

このお堂が現在の圓満寺。


井ノ神社

井口

井口


この境内社の縁起は不明だが、井口氏は高時川の「井預かり」だったので、祀られたのは中世のあたりのかなり古い時代である可能性が高い。

井口

井口


高月町高野 高野大師堂・高野神社

高野大師堂

高野大師堂


高野大師堂

高野大師堂


高野大師堂(満願寺)

満願寺は『己高山縁起』で惣山之七箇寺の一つとされている。

高野大師堂

高野大師堂


高野大師堂

高野大師堂


高野大師堂

高野大師堂


 

高野神社


高野大師堂

高野神社


寺は高野の集落の東の端・山側の突き当りに位置している。
国の重文である大師堂に安置されている木造の坐像は最澄の像という伝承だったが、像内の墨書から弘安六年(1283年)に院信によって造られた良源の像であることが判明した。院派の七条大宮仏所系に属する院信は室町時代の人物なので、いわゆる"後銘"か、別の院信なのか、造像年が誤りなのか疑問を感じる。


天比比岐命神社(あまひびきのみことじんじゃ)

延喜式神名帳に記載されている古社。丸山城跡。

天比比岐命神社

 

柏原の八幡神社・伊香具坂神社・秋葉神社

高月町柏原

八幡神社

 

柏寿山来光寺


柏原八幡神社

来光寺


柏原八幡神社

柏原八幡神社


柏原八幡神社


伊香具坂神社

伊香具坂神社

伊香具坂神社


 

秋葉神社


伊香具坂神社

秋葉神社

昭和館

昭和館


石仏


佐味神社

佐味神社

佐味神社


国道365号道路脇の集約墓地にも巨木がある。「野大神」ではなく「南無阿弥陀仏」の石柱が立っている。

柏原

柏原


柏原

柏原


柏原

柏原


己高山観音寺(雨森観音堂)

雨森観音堂

雨森観音堂


本尊は像高27cmの千手観音

雨森観音堂

雨森観音堂


雨森観音堂

雨森観音堂


雨森観音堂

雨森観音堂


保延寺観音堂

本尊は像高17cmの千手観音

保延寺観音堂

保延寺観音堂


保延寺


無理矢理神仏分離したのが見え見えの境内。

高月町雨森(あめもり) 天川命(あまがわのみこと)神社のイチョウ

天川命神社

天川命神社


天川命神社

天川命神社


天川命神社

天川命神社


天川命神社

天川命神社


東アジア交流ハウス雨森芳洲庵

雨森芳洲庵

雨森芳洲庵


雨森芳洲庵

雨森芳洲庵


雨森芳洲庵

雨森芳洲庵


雨森芳洲庵

雨森芳洲庵


現在の高時川頭首工の少し上流に「餅の井(ゆ)」という堰があった。昭和十五年(1940年)まで約400年続いた緊迫した雰囲気の中で行われる「餅の井落し」で知られている。餅の井から取水した水は現長浜市小谷丁野町・小谷郡上町、湖北町伊部・二俣・河毛・山脇、長浜市中野町・下山田など小谷山西麓、西南に送られていた(その南は田川、平野川が用水を供給していた。)。高時川左岸の高月町一帯は餅の井の下流から取水していたので、渇水時に餅の井の堰を壊して右岸への取水を増やす必要があった。両者の武力衝突を回避する儀礼が「餅の井落し」だった。雨森の集落は高時川の右岸(琵琶湖側)が中心だが左岸(山側)にも広がっていたため、渇水時に行われた餅の井落しには参加せず、紺の法被に⿊帯、樫の棒を持って付近の⼭陰に潜んだという*6。昭和十七年に合同井堰が完成し、抜本的には国営湖北農業水利事業が昭和四十年に着手され、昭和六十二年に完了した。琵琶湖の水を余呉湖へ揚水し、余呉川、高時川、更に草野川(草野川は姉川と合流し、その姉川は高時川と合流し琵琶湖に注ぐ)を導水路でつなぐという大事業だった。