深大寺
2011年8月
釈迦堂
元三大師堂より一段下にあるこの池は放生池ではなさそう。
池の東にある釈迦堂は1976年(昭和51年)に建てられたコンクリート造りの耐火性がありそうな建物。
釈迦堂前の石灯籠。
後から刻んだようだが、「奉納 徳川二代将軍???」とか書いてある。
銅造釈迦如来
古い方の鐘楼。
毘沙門天立像。左下の説明を参照下さい。
延命観音
昭和四十一年(1966年)に秋田県の象潟港の海底から発見された。岩に観世音菩薩の上半身が線描されているが、「慈覚大師が刻んだ」という話の根拠はわからない。
深沙大王堂
深沙大王堂裏の池。延命観音と深沙大王堂の辺りの水源地。
砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護(まも)ったのが、深沙大将であるといわれています。
(高野山霊宝館 http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/ten/jinjya.html)
高野山霊宝館のサイトに深沙大将の絵が載っているが、なるほど奇怪な姿をしている。
神仏分離令以前は深沙大王社として鳥居があったとか。現在のお堂は昭和四十三年(1968年)の再建。
『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです
(http://www.jindaiji.or.jp/about/history_03.php)
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。
つまり、ここが深大寺の発祥の地。
しかし、この伝承の「湖」とは何を指しているのだろう?思い出すのは青渭神社の往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水あり
という由緒に書いてある一節。(注:誤字らしき部分もそのまま転載)
湖とまではいかなくても、大きな池はあったのかもしれない。一町=99アール=9,900m2なので、五町歩余は約5ha、15,000坪)
「深大寺物語」では福満は朝鮮半島からの渡来人ではないかと推測している。
旧鎮守 深沙大王堂跡記念碑
ちょっと読み取りにくくて怪しい字もありますが…
碑記
深沙大王旧鎮守也其本体係於深大寺開基満功上人之作成
云伝説上人感於霊夢於玉川得浮木木彫刻三体深沙大王其
一也実人皇四十六代天平勝宝二庚寅年也秋風春雨幾星霜
里人崇敬不措矣明治初年基於神仏混淆禁止以青渭神社為
鎮守深沙大王帰於廃堂於是移其尊体安置於深大寺大師堂
爾来物変星移堂宇腐朽里人不堪於懐旧之情相謀為記念建
碑石二堂蹟以伝子無窮云
明治四十年十一月建
旧産子中
碑文は、おおよそ下記の内容だと思います。
深沙大王堂は旧鎮守だった。
深大寺開基満功上人が天平勝宝二年に霊夢を見て、多摩川の浮木から三体の深沙大王を彫った内の一体だと伝えられている。
里人は崇敬していたが、明治初年の神仏混淆禁止で、青渭神社が鎮守となってしまった。
以降、廃堂となり尊体は深大寺の元三大師堂に移された。
お堂は朽ちてしまったので里人は懐旧之情耐え難く相談してこの石碑を建てた。
上記のように、1968年(昭和43年)にお堂は(かつてのものに比べればかなり簡素だろうが)再建された。
万霊塔と深大寺動物霊園
ペットブームを反映した霊園だが、この塔はよくぞ建てたものだと思う高さ。
塔の地上部分には「十二支観音」というのが祀られている。(下右の写真)
御霊座という納骨用棚が塔の周りを円形に囲み、その外に鳥獣観音(下左の写真)が立っている。
大黒天と恵比須尊
周辺
消防団の半鐘。
亀島弁財天池。
寺院の石垣としてはかなり大きな石を使っている。