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栂尾山高山寺

2011年8月

三尾と言われる栂尾、槙ノ尾、高雄は紅葉の名所で、その時期にはごった返しているイメージが強くて寄り付く気がしなかったのだけど、能の「春日龍神」-->明恵上人-->文覚上人という白洲正子さんの『明恵上人』と似た連鎖で数十年振りに訪れてみた。

栂尾(とがのお)山高山寺は平安時代は天台宗系だったようだが、明恵上人は華厳宗で修行したとはいえ無所属といった感じの人物だし、現在も単立の寺院。
宝亀五年(774)に光仁天皇の勅願で創建。神願寺都賀尾坊という名称だったが、後に都賀尾十無尽院へ改称。神願寺は河内にあった寺で同じく和気清麻呂が建てた高尾山寺に併合された。その後、建永元年(1206)に後鳥羽上皇より明恵上人が華厳宗の根本道場として賜り、高山寺として中興した。
明恵上人(承安三年(1173)~寛喜四年(1232))は和歌山県有田に武士の子として生まれたが母は病死、父は戦死し、叔父の上覚とその師文覚上人の弟子になったと言われる。神護寺、東大寺で学んだ(+仁和寺で文覚上人の目にとまっている)後、和歌山県に戻ってしまったりしたが1206年に高山寺へ。

駐車場やJRバスの栂ノ尾バス停からは裏参道となる。ここは正しく表参道から上がる。

 

Togano-o Kosanji temple

 

Togano-o Kosanji temple

左右に石灯籠が建っているあたりに、昔は山門があったらしい。

Togano-o Kosanji temple

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金堂への道の左右は、かつて堂宇や僧房があった事を思わせる石組が続く。金勝寺や湖東三山を思い出させる。

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石段をあがると金堂。17世紀前半の寛永年間に仁和寺から移築したという。本尊は釈迦如来。
仁和寺と高山寺との関係は、断続的であれ第二次世界大戦後の小川義章師まで続いていた気配がある。 周山街道の麓側にある仁和寺も高山寺と同様に応仁の乱で焼かれてしまうなど、高山寺を支援できる状態ではなかった時期が長かったかもしれないが、17世紀前半に仁和寺も御所の建物を移築するなどにより再建され、その時期に玉突き的に高山寺の金堂が仁和寺から移築されたように思われる。

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宝塔。由緒は調べていない。

金堂の裏の閼伽井。

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能の春日龍神は作者不詳(金春禅竹作?)、五番目物。
2010年5月に国立能楽堂の普及公演でシテは金春安明氏、猿之間の替間で観たのが最初。
明恵上人は東大寺で華厳宗を修行した人。春日明神は藤原氏が鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を勧請したのが始まりで、その後、経津主命、天児屋根命様、比売神を勧請したので春日明神は四柱という事になる。前シテの宮守の老人は茨城県の鹿島から武甕槌命に付き添ってきた時風秀行で、後シテは龍神なので春日明神は姿を顕さない。春日四所明神を揃って登場させたのではシテにならないからか?
春日明神が明恵上人の入唐渡天をやめるように神託したという話は、伊藤正義氏の『謡曲集(上)』の解題によれば、明恵上人自身が元久二年(1205)に書いた『僧成辨願文』の中に明神が慇重制止、住吉大神も不相離汝というご意見と書いている。

春日神社は藤原氏つながりで法相宗の興福寺の鎮護社という関係なので、華厳宗の東大寺で修行した明恵上人とどういう関係なのかという気もする。高山寺の現石水院=旧東経蔵には春日明神と住吉明神が祀られていたというが、これは明恵上人より後の時代に上記の願文などを元に勧請されたものかもしれない。宗派はともかく、やはり奈良のお寺に関わる神様といえば何と言っても春日明神と素直に結びつくのだろうか。春日龍神の後場では八大龍王が登場する。難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王までは謡われるが摩那斯、優鉢羅龍王は省略される。鬼揃えのように八大龍王総出演という小書きは想定していないのだろう。明恵上人に「さて入唐は」、「渡天はいかに」、「さて仏跡は」とくどく詰問し、上人が「止まるべし」などと答えると、ようやく安心したのか竜女は南方に 飛び去り行けば。竜神は猿沢の 池の青波 蹴立て蹴立てて。その丈千尋の 大蛇となって。天にむらがり 地に蟠りて 池水をかへして。失せにけり。と猿沢池に消えてゆく。
猿沢池は龍宮とつながっている・龍が棲んでいるという伝説があり、それによれば采女が入水自殺して池が汚れたので龍神は春日山の鳴雷(なるかみ)神社の前の竜王池に引っ越してしまったとか。鳴神神社は水神を祀った春日神社の前身となった神社ではないかという。
猿沢池は「采女」という別の能の舞台でもあるが龍神は登場しない。
春日龍神の前シテは、
天台山を拝むべくは 比叡山に参るべし 五台山の望みあれば 吉野筑波を拝すべし
と、鎖国的というか国粋主義的な言い方で明恵上人の入唐渡天を断念させようとする。
インドや中国の仏教がヒンズー教や儒学などと比べると廃れている事が中世日本で認識され、今や正しく仏教が行われている国は日本だけだという意識が鎌倉~室町時代にあったようだ。こうした状況を背景としている事を理解すると、このようなストーリーももっともな所がある。インド、中国以外の仏教国にまで意識が及んでいないなんて文句を言ってもしょうがない。やはり仏教はインド生まれ、大乗仏教が展開・発展・深化した中心は中国ですから。

石水院跡。1889年(明治22年)に現在地へ移築された。豪雨による土砂災害のためらしいが、湿気が多くて住みにくそうな感じの場所。

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仏足石。石水院の方を通る裏参道を中心に幾つかの仏足石への道標が立っていて、ある時期、此処が高山寺の一番の名所?だったのかもしれない。

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明恵上人御廟。廟の手前左に「阿留辺幾夜宇わ」(あるべきやうわ)の石碑が立っている。
「僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此あるべき様を背く故に、一切悪きなり。」と書かれると、単純に解すると現状肯定の保守主義そのものになってしまう。しかし、石水院に掲げられた「阿留辺幾夜宇和」にはかなり細々とした日課や生活規則が書かれていて、「僧は僧のあるべき様」を示している。僧侶として実践すべき事を記し、『栂尾明恵上人遺訓』の「我は後世たすからんと云者に非ず。ただ現世に先あるべきやうにてあらんと云者なり。」を徹底しようとしていると言える。
来世に期待して現世をいい加減に生きてはいけないという事だと理解しています。

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開山堂。国の重要文化財、明恵上人坐像がある。

昭和三十六年(1961)に立てられた聖観音像。

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聖観音像の前の石灯籠には、東大寺と仁和寺と記されている。これらの寺から贈られたものなのだろう。高山寺との関係が推察される。

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開山堂から石水院への石段。

遺香庵庭園。明恵上人700年遠忌の昭和六年(1931)に造られた。
見学はできないので外から覗くだけ。

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石水院入口。右横の道を行くと駐車場、バス停に出る。

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石水院は明恵上人が後鳥羽上皇の別院を学問所として賜ったという建物。もっとも賜ったのは「もとの石水院」のようだ。創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞二年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。寛永十四年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。(http://www.kosanji.com/about.html)つまり、この建物は経蔵だった事になる。しかし経蔵というともっとしっかりした建物をイメージしてしまい、この住居のような建物は後鳥羽上皇の別院のイメージなんだけど…。

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(ひさし)の間。真ん中に善財童子の像。華厳経の入法界品(品は経典の中の章とか巻に相当する)で善財童子は文殊菩薩に会い、その後53人の人々(善知識)を訪ね、最後の弥勒菩薩の後、再び文殊菩薩のところへ戻り、そして最後に普賢菩薩に会う。明恵上人がこの求道のプロセスに共感していたのは明らか。
ここはかつては春日明神と住吉明神を祀った社殿の拝殿部分。

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富岡鉄斎筆の額

蛙股の彫刻は寺院というよりも朝廷風の柔らかさ。

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「十無尽院」?

後鳥羽上皇からの勅額で寺名の由来となった。

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かつてはこの部屋が春日明神と住吉明神内陣だったのだろうか?
現在は白光観音像が置かれている。
となりの部屋には樹上座禅図と「阿留辺幾夜宇和」が掛かっている。

金堂の東よりも日当たり、風通し、眺めもはるかに良いが周山街道を通る車の音が耳障り。

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明恵上人と高山寺ですぐ浮かぶのが、この国宝の絹本著色明恵上人像、いわゆる樹上座禅像。弟子の成忍作という。
高山寺の裏は峰山の支峰だが、ここを明恵は釈迦が説法したという場所に見立てて楞伽山と呼んでいたそうだ。さすがに登ってみようという気にはならなかったが、少なくとも夏は蚊が多くて座禅には不向き。
この絵には下駄を脱ぎ揃え二股に分かれた樹上で座禅を組む明恵を中心に、向かって右脇には香炉と数珠が小枝から下がっていて、右上には鳥が飛んでいる。ウォーリーを探せ状態になってしまうのはリスで、多分頭の上に横から見た姿で描かれているのがそれだと思う…が自信はない。

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「阿留辺幾夜宇和」
右から日課、学問所での規則、持仏堂での規則が書いてある。

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「阿留辺幾夜宇和」の前にケースに入って置いてある子犬の像は伝運慶作とか快慶作とか言われる。明恵上人が可愛がっていた犬を模したという話だが、素直そうな目や体型が可愛らしい。

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高山寺で有名なのは鳥獣人物戯画だろう。日本の漫画の原点のように言われる事もあるが、誰が何のために書いたのかどうも正確にはわからない。一般に鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053年~1140年)の作と言われている。覚猷は 天台宗の僧侶で、宇治大納言物語という現存しない説話集を編纂した源隆国の子。因みに『宇治拾遺物語』は、宇治大納言物語から漏れた話を集めたものという事で拾遺となっている。

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「春日龍神」に戻るが、明恵上人はインドへ行きたいという希望を強く持っていた。それは『大唐天竺里程書』という明恵上人が書いた旅行計画書からうかがえる。建久六年(1195)に神護寺から和歌山県有田市の東に移ったが、建仁二年(1202)頃に弟子に中国・インドへの渡航の意思を打ち明ける。翌年、女に憑依した春日明神の「明恵上人は日本にいなさい」というお告げがあった。その他、上記願文に書かれたような事もあり、そして元久一年(1204)9月に槇尾に移り、建永一年(1206)には後鳥羽上皇から高山寺を賜っているので、この希望は途絶えてしまったのだろう。
1173年生まれなので、この一連の出来事は明恵上人20代後半から30歳あたりとなる。その時点ですでに春日明神のお告げだの、後鳥羽上皇から寺を賜るとか、山に籠っていてばかりだったにもかかわらず、相当に知られた人物だったという事になる。

日本最古の茶園と称している。明恵上人が建仁寺の長老-栄西-から茶の種をもらって栽培を始めたという。眠気を防ぐ効用を認めたからのようだ。ここから宇治へと茶の栽培が広がったという。

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