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鷲峰山金胎寺(じゅうぶさんこんたいじ)

大道寺

平治の乱に絡んだ地域。寺といっても現在あるのはこのお堂だけ。説明を読むと色々大変な目にあって来たことがわかる。寺は藤原忠実が中興したとあるので、藤原北家御堂流の荘園だった関係で建てられたのだろう。藤原頼長の所領だったが保元の乱で敗死したので、一旦、後院領(要するに上皇・法皇領)とされ、後白河法皇から信西に与えられたことになる。平治の乱で追われた信西がここに逃げてきて穴に潜んでいたが「腰刀ヲ持テアリケルヲ。ムナ板ノ上ニツヨクツキ立テ死テアリケルヲ。(『愚管抄』193頁 岩波文庫 1949)」発見されという。文中、"清盛の熊野参拝中、対立者の「源頼朝」は兵を挙げ"は「源義朝」が妥当だろう。



信西入道塚


大道神社

大道寺の鎮守社だったようで、(本殿及び棟札類が町指定文化財)もとは「天満宮」と称され、中世から存在していたことが明らかになっていますが、現在の本殿は延宝八年(1680年)の建立であることが棟札から判明しています。一間社流れ造りの檜皮葺で、美しく彩色されています。(http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/tourist/walk/index.html)


[↓]社の左右(手前ではない)にいる狛犬?達。愛嬌があるのに檻に入れられてしまって。
盗まれたことがあったかららしいが、確かに愛らしい。


旧登山道

登山道入口。割に楽な登山道。

東海自然歩道と合流する観音山休憩所の案内板。
和束(わずか)町が「和東町」になってますよ!





金胎寺(こんたいじ)

役小角(えんのおずね)が開基、泰澄が再建したとされる。
天武天皇白鳳四年(675年)9月、役小角(役行者)によって開かれたといわれる鷲峰山は、奈良時代、平城京の鬼門封じとして、聖武天皇によって堂が建立され勅願寺となりました。その後、境内、寺領は拡大し、山内に58もの坊舎を有するほどに繁栄しましたが、元弘元年(1331年)9月、鷲峰山を経て、笠置へと落ちのびていった後醍醐天皇の後を追う鎌倉幕府軍によって、寺は焼き討ちされ、さらに暦応三年(1340年)の出火によって多くの堂塔を失いました。康安元年(1361年)、光弁上人によって再建されましたが、永正十五年(1518年)に再び出火し、その後の戦乱のため、繁栄していた頃の伽藍が、再建されることはついにありませんでした。そのかわり、大永三年(1523年)、堂や坊舎の跡地に杉檜2万本が植えられたといわれています。<http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/tourist/walk/index.html>

鷲峰山はマガダ王国の首都だったRajgirという町の側にあるGridhrakuta Hillの事で、釈迦がここで法華経や大無量寿経を説いたという。
金胎とは金剛界と胎蔵界の事で、真言宗で最重要の仏である大日如来を中心として両界の諸尊を包含した概念となる。
従って「鷲峰山金胎寺」という名称は仏教において極めて大きなスケールの内容を持っている。

せっせと登ってきたら自動車道が寺のすぐ下を通っている。
よくある話だけどちょっと腹が立つ。

寺務所へ到着。方丈、庫裏がある。


神変大菩薩は寛政十一年(1799年)に光格天皇が役小角に与えた諡号(しごう)


寺務所から少し登ると本堂。本尊弥勒菩薩はこの中に?閉ざされていて中の様子は窺えない。
登る途中の左手あたりにはかつては堂宇、僧房があった気配がある。


[↓]国の重文の多宝塔。鎌倉時代永仁六年(1298年)築で高さ13.9m、柿(こけら)葺き。
この脇を抜けると山頂へ行ける。


大師堂。この「大師」は金胎寺を再興した泰澄のことだろう。泰澄は役小角と共に愛宕山を開いた雲遍の事で岩間寺も泰澄の開山。出身地(泰澄は越の大徳と言われる)では、白山の他、越知山大谷寺、生誕地と言われる泰澄寺、文殊山、日野山、蔵王大権現のある吉野ヶ岳などを開いたという。

行者堂。役小角を祀っている。上醍醐の五大堂を思い出させる。実際、金胎寺は真言宗醍醐派別格本山。
庫裏の休憩所で買った地図によれば昔はこの裏手から行場巡りに行ったようだ。



[↓]鷲峰山山頂。



南山城最高峰といっても標高682m。
真北の琵琶湖方面の眺望が良い。

宝篋印塔。

山頂(682m)は、奈良時代の越智泰澄法師が麓まで托鉢を飛ばして食料を得たという「空鉢(くはち)の峰」伝承の舞台です。<http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/tourist/walk/index.html>