Up
Down
Return

宇治田原

御栗栖神社

栗栖とは栗林のことで、平安時代以前は栗は食料や建材として栽培されていたようだ。地名としての栗栖は山科や北区紫竹に残っている。
(「御栗栖神社の大杉」が町指定文化財(天然記念物))南地区に鎮座する旧郷社で、祭神は天津彦根命、現在は南地域の氏神「一の宮」として「田原祭(三社祭)」を構成する三社のひとつです。社伝では、弘安6年(1283年)6月、荒木の大宮神社から分祀されたのを起こりとされていますが、それより古い時代に豪族が土地を寄進した記録もあり、正確な創建年代は定かではありません。周辺の栗林から産する栗は、古来より、その光沢と味の良さによって知られており、「宇治拾遺物語」に登場する天武天皇の煮栗焼栗伝承に由来するといわれます。その栗は、毎年11月15日禁裏御所に献上する習わしで、明治20年まで続けられました。社名である御栗栖は、こうした朝献の栗林が、次第に人々の信仰を集めるうちに定着したものではないかと言われていますが、この栗林も現在は茶畑にかわり、昔日の面影はありません。社殿は一間社流れ造りで、末社として天照大神、天満宮、皇森社の三社があります。<http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/tourist/walk/index.html>






宇治田原町立田原小学校校門
「維考館」の扁額(横長の額)がかかっている。
バス停の「維中前」にあるのは「維孝館中学校」だが、この小学校は昔「維考館荒木小学校」と呼ばれていた。
「維孝館」の名の由来は田原小学校のサイト(http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/school/tawara-es/frame.htm)によればこの門にかかる扁額「維孝館は当時の学務部長広瀬範治氏の筆で、中国の書経「惟れ孝に兄弟に友に克く有政に施す」の中からとったもので「維考」と「惟考」は同じ意味であるとの事。
門自体は東洞院三条にあった尼門跡寺院の曇華院(どんげいん)にあったもので、恐らく明治時代に曇華院が嵯峨の鹿王院の西隣へ移った頃に移築されたのではないだろうか?