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鹿鷺山しかさぎざん笠置寺


個人的には後醍醐天皇への評価は低い。天皇親政を果たそうとした建武政権は結局無能で時代錯誤な政府だった。
笠置山をめぐる鎌倉幕府軍と後醍醐天皇軍の攻防において、一の木戸の戦いで三河国の足助あすけ次郎重範は鎌倉幕府軍の荒尾九郎・弥五郎親子を射殺したと『太平記』に書いてある。重範は六条河原で斬首されたが、明治になって出身地には足助神社まで造られた。
元弘の変から1333年の鎌倉幕府滅亡に至る倒幕の過程の中の最初の戦いの場として、ここ笠置山は明治以降持ち上げられていた事が色々なものからうかがえる。
一の木戸跡に建っている「南朝忠臣足助次郎重範公奮戦跡」の石碑なぞはその最たるもの。
この攻防の結果、寺は全焼してしまい、寺としてはとんでもない迷惑。


山門


笠置型燈籠
笠置の街中でも見かける。
伏見の月桂冠大倉記念館でも見かける。
大倉家は笠置出身らしい。


椿本護王宮は笠置寺の鎮守。
908年に日蔵(道賢)が金峯山から椿本護法善神を勧請したと書いてあるが、金峯山に椿本護法善神は見あたらなかった。金峯山寺自体が明治政府の神仏分離と修験道禁止で荒廃した時期もあり、それ以前に既に無くなっていた可能性もあり、現状から推測するのは無理かもしれない。敢えて憶測するならば『一代峯縁起』が参考になる。日蔵が笠置の石屋に籠った時、天人に告げられて石屋の奥へ入ると大日如来の宮殿があった。二人の天童子が現れ何者かと尋ねたので、日蔵は「日本国金峯山椿木寺住沙門道賢也」と答えた。この椿木寺が日蔵草創の伝承がある現在の塔尾山椿花院如意輪寺と同じ寺なのかはわからないが(両寺の所在地の辻褄が合わないので)、ここらが出どころではないかと思われる。
春日大社に椿本神社という末社はあるが、祭神の角振つのふり神は奈良市角振町に御縁があるか?あるいは広島県府中町にあった角振神社の角振隼総明神の系統だろうか?どちらも同根か?これはこの椿本護王宮とは別のルーツを持っているのだろう。

解脱鐘

椿本護王宮。


行場巡りへ。
金胎寺の行場巡りに比べると手軽に歩ける。


薬師石。
巨岩に驚かされる。笠置山はまず巨石信仰の場だった。

石造十三重塔。
国の重要文化財。室町前期。



正月堂

本尊磨崖まがい



千手窟。弥勒の浄土への龍穴。

『二月堂縁起』によると、良弁の弟子という実忠はここから兜率天へ入り、そこの常念観音院の聖衆の行法を見て東大寺二月堂の修二会を始めたという。


磨崖仏

胎内くぐり



太鼓石。
叩いても音はしなかったけど。

 



ゆるぎ石

平等岩から木津川上流方面の眺め。



蟻の戸わたり。

平等岩を振り返る。
「東ののぞき」があるはずだが場所はわからなかった。



寺のパンフレットには蟻の戸わたりは「奥に石像不動明王を安置する」と書いてあるが見つからなかった。
こういう別の隙間の中にあるのだろうか?


二の丸跡

貝吹岩からの木津川下流方向の眺め



貝吹岩のある広場に残されたこれも大日本帝国の遺物だろう。
正面、裏側に嵌め込まれていただろう文字板は外されていて、何が書いてあったか興味をそそる。



行在所(あんざいしょ:行宮)跡

うかりける 身を秋風にさそわれて
おもわぬ山の紅葉をぞ見る
「うかり」は「憂かり」だと意味がわかる。




笠置石。

西ののぞき。本尊の磨崖仏の上。
さすがに身を乗り出して下を見てみようとは思わなかった。







宝蔵坊跡

石川義純公碑。石川義忠、義昌、義右など河内源氏の一族が後醍醐天皇方で戦い、石川義純は行宮の守護だった。
この碑は石川氏の子孫が建てたもの。その一人、石川日出鶴丸(1878-1947)は戦後GHQの鍼灸禁止要望に日本鍼灸学会会長として反対した事で知られる。



大師堂

舎利殿。



この神社の説明はどこにも書いていなかったので祭神など不明。

こういうものが残っているのも珍しい。
左の写真の祠へ上がる石鳥居の両側には、戦没者慰霊碑やこういった石碑が並んでいる。




本尊仏香爐