東大寺(2)
二月堂
良弁杉の右にある社は二月堂守護鎮守神三社の一つで
良弁は大仏造像に貢献し東大寺初代の別当になった僧。近江出身で幼ない時に鷲にさらわれこの杉に引っかかっていたのを、義淵に救われたという伝承がある。なお、良弁の出身地については相模国出身という説もある。
良弁杉は1961年(昭和36年)の第二室戸台風で倒れ、その枝を挿し木して育てたものだと『東大寺史へのいざない』(堀池春峰著/東大寺史研究所編 2004年)に書いてある。
閼伽井屋(若狭井屋)
中に若狭井があり、お水取りの時、若狭の
屋根の端の鳥は鵜の瀬に因んだ鵜らしい。
建物は鎌倉時代だが、ここの地下から三彩の瓦や塼仏が出土した。また、奈良時代の掘立柱建物跡も見つかっている。
三昧堂(四月堂)
大湯屋
建物の中央床下に鉄の湯釜があるとのこと。
妙心寺などスチームバス型の風呂を寺院で見ることはあるが、これはお湯につかるタイプのようだ。
講堂跡
講堂の周囲は僧房が回廊のように囲み、その東に
1508年(永正5年)に火災で焼け、結局再建されなかった。
指図堂
勧進所
戒壇院(戒壇堂)
勧進所の敷地の西南角の結界石。
鑑真を迎えることにより、日本国内で授戒が出来るようになった事は日本での仏教の導入の最終仕上げと言えるだろう。
授戒を受けなければ正式な僧尼とは認めない事で、律令国家が仏教を管理する体制が完成した。
鑑真は754年(天平勝宝6年)大仏殿前の仮設の戒壇で聖武上皇以下に受戒した。
戒壇院は天平勝宝八年(756年)に完成した。当時は受戒堂、講堂が南北に並び周囲を回廊が囲っていた。
建物は度々火災や焼討ちで焼けていて、現在のものは亨保十八年(1733年)に落慶したもの。
中門堂という建物から移されたという塑像の四天王像が有名。
中門堂という建物は永禄十年(1567年)、三好三人衆と松永久秀の戦いの兵火で焼けてしまっている。何処にあったのか?
転害門
天平時代から残る唯一の建物と下の説明に書いてある。
旧暦九月に手向山八幡宮の神輿がここに置かれる。その為の石が4つあり、その上の天井は格天井になっている。
注連縄が下がっているのもそのため。