綜藝種智院跡
南区西九条池ノ内町3にこの案内板と石碑が立っているが、実際にあった場所は東寺通の南側だったらしい。
伏見稲荷大社御旅所
4月20日頃の神幸祭から5月初旬の還幸祭までの間、五基の輿が奉安殿に滞在する。
それ以外の時は広いだけの閑散とした場所。
そもそも伏見稲荷の御旅所がこんな場所(油小路通東寺通)にある事が面白い。これは氏子の住む区域がここらから五条あたりだという事で、ここよりも西は松尾大社の氏子、伏見のお膝元は藤森神社の氏子地域というのはよく知られている。
東寺の五重塔を建設する木材を伏見から切り出して運んだという関係の延長線上の話かもしれない。
御旅所にやってきた五基のお神輿を納める「奉安殿」。
左の説明に依ると、田中社、上社、下社・中社・四大神と三つの別棟だったものを、昭和四十八年四月に現在の五社相殿の形にしたという。
4月20日の神幸祭から5月3日の還幸祭まで、五基の神輿がここに納められる。
この間だけは屋台も出て賑わう。
上命婦社、下命婦社、大神宮、北御旅所殿等の末社をまとめて祀ったと上の石碑に書いてある「南御旅所」。
上と下の命婦社とか北御旅所殿とか、よくわからない社と祀られた神様たち。
神楽殿は、南側にもうひとつあったらしい。
立派に完成。
西南隅に「お塚」が一基ある。
六孫王神社
清和天皇の第六皇子貞純親王の子で清和源氏の祖となった源
元は平家の西八条殿だったが、源実朝の公家出身の正妻・坊門信子が実朝が暗殺された後、この地を与えられ、遍照心院を建立した。出家後は本覚尼といった。
寺は萬祥山大通寺として現在の東海道線辺りまで境内だったが、明治末に七条の京都駅を南に移し改築することが決まり、更に明治天皇崩御・大正三年に京都御所で大正天皇の御大典(即位式)が予定されたため、東海道線の線路も同時期に南に下がることになった。このため大通寺は南区西九条比永城町1へ移転してしまい、鎮守の六孫王神社が残された。
誕生水弁財天は、源経基が子の満仲誕生の時の産湯に使った井戸の上に祀られているという。源経基の邸宅がここにあったという伝承は怪しくて、鎌倉時代に上記の事情で源氏代々の祖先を祀る寺という性格になったので、この様な話が出来てきたのではないだろうか?
六孫王神社の前の壬生通を上がるとすぐに新幹線の高架をくぐり、東海道線に突き当たる。(突き当りを右に線路沿いの道があるが油小路には出られない。)
その突き当りに「児水不動王」がある。「児水」をなんと読むのか正確にはわからないが「