伏見稲荷大社(1)
JR奈良線稲荷駅の前が道幅が広い正面の参道。
参道左側には末社の社が並ぶ一画がある
末社の一つの熊野社。元は伏見街道に面した場所にあり、京都から熊野詣への行き帰りに"しるしの杉"を身に付け、ここにお参りしたのだろう。
右隣の藤尾社。ここには社が三つ並んでいるが、真ん中の藤尾社だけが平入り。
藤尾社は藤森神社のことで、この一帯の住民は伏見稲荷大社の前なのに藤森神社の氏子だというのは、けっこう知られている話。元々、稲荷神社は山上の三つの峰に祀られていて、麓には藤森神社があった。室町時代に稲荷神社の社が山下に移され、藤森神社が現在地に移され、現藤森神社の場所にあった真幡寸神社は現在の城南宮の場所へ移されたらしい。もっともそれぞれの神社が色々な祭神を合祀しているので、個々の神様を辿るともっとややこしい事になる。ちなみに、伏見稲荷大社の氏子は東寺より東、五条より南もあたりになっている。
明治四年、官国幣社の制により稲荷神社は官幣大社に列せられた。これはその名残り。
官国幣社などの「近代社格制度」はGHQが昭和二十年(1945年)12月15日に出した「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)、いわゆる神道指令で廃止された。稲荷神社は「官幣大社」の冠が無くなると全国に沢山ある稲荷神社と区別がつかなくなるので、宗教法人「伏見稲荷大社」にしたという。
4月下旬から5月上旬にかけて、稲荷祭と藤森祭の諸行事が行われる。
伏見稲荷大社周辺は藤森神社の氏子だが、幟を立てるこの時期には、それが目に見える形で表われる。
右下の写真の神幸道との角にある「止まれ」の標識の朱色の幡は稲荷祭のもの。
京阪伏見稲荷駅から真っ直ぐ行く道は裏参道(神幸道とも)で、こちらは店が立ち並ぶ。取り合えず、裏参道から。
石灯籠は沢山立っているが、江戸時代末期の合理化(手抜き)が進んだ単純なものが殆ど。その中で、裏参道に立つこの常夜灯は請花や反花がちゃんと付いている。宝歴とすると16世紀半ばになる。
向かって左側の常夜燈は補修の痕が目立つ。
禊川という川があった名残の石橋。
現在は暗渠化されているようだ。
楼門
写真正面の細い道を南に行くと、ぬりこべ地蔵へ行ける。
隣に
基本的に国学者は好きではないのだが、荷田氏は興味深い。
御茶屋
国の重要文化財。寛永十八年(1641年)に御所から移築された書院造りの建物だが数寄屋造りの意匠が入りかけている。
拝殿
拝殿の釣灯篭
深草稲荷保勝会発行の『深草 稲荷』という境内の休憩所で売っている冊子によると、平野育英氏の作で、明治三十九年(1906年)稲垣藤兵衛氏が寄進した
もので、星占いに使う黄道十二宮の図柄になっている。
本殿
神楽殿
という事になっているが、どう見ても能舞台。
天野文雄『能楽逍遥(下) 能の歴史を歩く』(大阪大学出版会 2010)によると、明治十五年(1882)に金剛流の金剛謹之輔とその後援者が、当時行われていた伏見稲荷大社の修復にあわせて奉納した。翌明治十六年九月十五日には舞台披きの能が行われ、金剛流の大パトロンだった大阪の両替商・平瀬露香の能「小鍛冶」、同じく観世流の大パトロンだった伊丹の酒造業者・小西新右衛門の能「道成寺」、そして片山家六世の片山晋三による能などが演じられたという。現在も11月の火焚祭の時にはこの舞台で奉納狂言が行われる。
拝殿北(拝殿に向かって左)の社務所辺りに江戸時代まで愛染寺があったが、明治初期の廃仏毀釈で他の堂舎もろとも破壊された。
拝殿の左側に高麗門形式の表門があり、その門に向かって右(南東角)には愛染明王像を安置した護摩堂があり、これは後に愛染堂と呼ばれる。このお堂は塀の外に開かれた形で建っていた。その奥には聖天堂もあった。表門から入った正面には書院造の建物があり、徳川家茂や慶喜が休憩所として使ったという。(『伏見稲荷千三百年史』などより)