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多度から多賀へ

「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」の多度神社と、「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」の多賀大社は
名前も、伊勢参りにかこつけた観光客誘致策も似ているが、特に関係がある訳ではなさそう。
神様の家系図から言うと、
伊邪那岐命・伊邪那美命-天照大御神-天津彦根命-天目一箇命 となり、多賀神社の主張は正しい。
(多賀大社の主祭神)   (伊勢内宮) (多度大社)  (多度大社)
『古事記』上卷に「其伊邪那岐大神者 坐淡海之多賀也」という記述があるが、『日本書紀』では「構幽宮於淡路之洲 寂然長隱者矣」と淡路島らしきところに、あるいは亦曰として「登天報命」したとなっている。


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多度神社

三重県桑名市多度町多度1681

[縁起]
多度大社は五世紀の後半、雄略天皇の御代に御社殿が建てらたとされ、それ以前は標高403メ-トルの多度山全体を神体山つまり、神様として仰がれていました。
この神社で興味深いのは多度神宮寺にまつわる話で、多度大社のサイトに以下の記述がある。
奈良時代末期には、満願禅師が多度神の神託を受け、天平宝字7年(763年)に我が国で7番目に古い神宮寺が建立され、後に国分寺に準ずる扱いを受け、寺院70房、僧侶300余輩を数える大寺院となりました。
(http://www.tadotaisya.or.jp/gosaijin/yuisyo.html)
神宮寺とは、一般的には神社に付属した寺院を言い、寺院に付属した神社は鎮守社とか呼ばれる。どちらも神仏習合の形態だが、神仏習合の実態は仏教が神道を取り込むプロセスであり、それをよく表しているとして取り上げられるのが「多度神宮寺伽藍縁起資財帳」という文書。
逵日出典著「八幡神と神仏習合」(講談社現代新書)によると
天平宝字7年(763年)十二月二十日、神社の東に井戸があり、そこを道場として満願禅師が住み、丈六(一丈六尺のこと)の阿弥陀仏を安置していた。ときにある人が神のお告げ(託宣)を受けた。その内容は「われは多度神である。われは久しい間にわたり重い罪を作ってきた。その結果が今、神として存在しているのである。だから、今こそ神としての身を離れるために仏教に帰依したいと思う」というものであった。
これは多度神宮寺伽藍縁起並資財帳に記載されている話だが、原文は以下のとおり。
多度大社蔵 801年(延暦20年)11月3日 多度神宮寺伽藍縁起資財帳
桑名郡多度寺鎮三綱謹牒上
神宮寺伽藍縁起並資財帳
以二去天平宝字七年歳次癸卯十二月庚戌朔廿日丙辰。神社之東有一レ井。於二道場一満願禅師居住。敬造二阿弥陀丈六一。于時在レ人。託レ神云。我多度神也。吾経久劫作重二罪業一。受二神道報一。今冀永為レ離二神身一。欲レ帰二-依三宝一。如レ是託訖。雖レ忍二数遍一。猶弥託云云。於レ茲満願禅師。神坐山南辺伐掃。造二-立小堂及神御像一。号称二多度大菩薩一。

(國學院大學神道・神社史料集成:http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/070101.htmlより)
あっさり行ってしまえば、神祇信仰だけでは農業にまつわる種々の要請に応えきれなくて結果も出せない事態が続いたので、密教・山岳仏教の祈祷の力も借りたいという住民のニーズに応えた結果ではないかと思う。
この満願(万巻)は奈良時代から平安前期の僧で、方広経1万巻を読んだので万巻上人とも呼ばれる。常陸国鹿島神宮寺や箱根三所権現を創建したなど、近畿から関東地方にかけて事績、伝説が残っている。
萬巻上人が生きた奈良時代は、仏教文化が「咲く花の薫ふが如き」奈良の都であったが、地方に起こった新宗教ー神仏習合が逆にその都(中央)に持ち込まれた。そしてその神仏習合の魁となったのが萬巻上人であり、神宮寺の建立や権現信仰(思想)の確立に主役を果たされたのである。まさに当代の宗教的天才と謳われた真言宗の空海や、天台宗の最澄と並び稱せられる程の偉大な宗教家であったことが窺える。萬巻上人は京都の生まれで、父は智仁といい、沙弥と呼ばれる修行僧であった。萬巻上人は、子供の頃から利発で物覚えがよく書もよくする勤勉家であった。しかも生臭いものを食べず華奢を嫌い、争いを好まぬ清僧のような地味な人柄だった。父の智仁は、子供にしては珍しく賢いので、誠に「奇なり」として仏門に入れることにした。
『筥根山縁起』によると元正天皇養老年中、洛邑に沙弥智仁あり。其氏を知らず。一男子を生ず。襁褓葡匐の際、口に葷腥を嫌ひ、膚に錦繍を辞す。父母大に之を奇とす。季歳を弁て釈門に入り、二十歳になり、受具剃髪して、日課、方広経を看閲すること一万巻。故に萬巻と称す。諸州の霊崛を巡歴す、と。
仏門に入ってからは、日課として仏典を読誦し、遂に万巻の経を読破したので人読んで「萬巻」と称するようになった。そして更に仏教の奥義を究めようと、修行僧となって諸国遍歴の旅に出るのであるが、奈良の都に出て高僧碩学に学び、比叡山に登ったのもこの頃のことであった。この頃の比叡山は専らこうした修行僧の修練の霊場であったのだが、空海や最澄が入峰修練したのは、それからまだずっと後年のことだった。
濱田進著『箱根神社ー信仰の歴史と文化』より抜粋

(箱根ビジターセンター:http://www.mmjp.or.jp/HakoneVisitorCenter/pvweb/nama/8_denki/manganjyounin.htmlより)

 

多度神社

三重県道26号線にある石鳥居。この西、北へ神社方向へ曲がったところに、もう一つある。


宮川清めの池。宮川はここらの地名でもあるようだ。4月なので桜が散って美しい水面。普段はこんなではないのだろう。

多度神社

多度神社


多度神社

多度神社


多度神社


神馬舎。生きている馬です。
多度山は昔から神が在わします山と信じられ、人々は、農耕に恵みの雨を乞い、出生に安産を祈るというように、日々の暮らしの平穏や家族のしあわせを祈り続けてきました。その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、多度大社に 1500年前から棲むといわれる白馬です。(右下の説明板より)
この神社を有名にしているのが、5月4日・5日に行われる多度祭、中でもその年の豊凶を占う上げ馬神事。6地区の代表が騎手となり急な坂を上ろうとする。馬の虐待として問題になった事がある。


多度神社

多度神社


多度神社


 

於葺門


多度神社

多度神社


多度神社

多度神社


神社の中を流れる落葉川。神社の南で多度川に合流する。


多度神社


本宮は天津彦根命(あまつひこねのみこと)、斜め向かいの一目連神社(いちもくれんじんじゃ)天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が主祭神。

神社建築は、平入りも妻入りも、倉庫っぽく見えるが、一目連神社は特にその感が強い。


多度神社

多度神社


多度神社

多度神社


御手洗場。御手洗は「みたらし」と読むはずです。
手前の川なのかもしれないが、あるいは正面の岩の上から水が流れ落ちていたのかもしれない。

多度神社