世田谷線沿線のスナップ
世田谷八幡宮
源義家が後三年の役の帰途、豪雨で十数日間世田谷の里に滞在せざるを得なくなった時、戦勝は信仰する八幡様のご加護として宇佐八幡を勧請したと書いてある。世田谷村の総鎮守だった。
甘える子狛犬が可愛らしい。
力石や相撲に農村だった時代の面影が強く残る。義家が勧請した時に兵士に奉祝相撲を取らせたと書いてある。相撲は地域対抗で収穫を占うケースが多いと思うが、ここでは秋の秋幸大祭に東京農大相撲部が奉納相撲を行う。
招魂社の狛犬
世田谷城址
世田谷城を築いたのは清和源氏の流れをくむ奥州吉良氏。赤穂浪士に殺された吉良義央の祖母が同じ清和源氏系の今川氏の出という話もあるようだが、ここの吉良氏とは直接つながってはいない。小田原の後北条氏についたので豊臣秀吉の小田原攻めの後、世田谷城は廃城となり石垣などは江戸城に流用されたようだ。江戸時代、吉良氏は家柄はよいので典礼を扱う
豪徳寺側から見る。
豪徳寺はこちらです。
延命山勝光院
世田谷城主だった吉良氏の墓がある。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。(中略)勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全二十八基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。
勝光院は初め金谿山龍鳳寺といい、建武二年(1335)吉良氏の創建になると伝える。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により、興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗へ改宗した。
世田谷代官屋敷
ボロ市の日の代官屋敷前。
世田谷ボロ市は毎年12月15、16日、1月15、16日に開かれる。
朝9時からとゆっくりと始まる。
ボロ市の日は、この混雑ぶり。
区立郷土資料館
代官屋敷の右手、同一敷地内に区立郷土資料館がある。
東国の田舎だから、正直なところ"こんな所にも歴史と言えるものがある!"と言った感じだが、それなりに興味をそそられる。
庚申塔は付け足しで道標が主という感じの石柱。